BACK

 住吉は漁師の仕事をしているため、朝起きるのはまだ外が暗い内なのだそうだ。
 それを知ったのは、翌朝目が覚めた時には既に住吉は部屋にいなくて、代わりにテレビの前でけらけら笑っていたドロシーに教えて貰ったからだ。また今日も朝からやって来て、まるで自分の家のように振る舞っている。本当にマイペースな人だ。
 僕は用意して貰った朝ご飯を食べ、食器は台所へ下げた。まだ洗っていない食器が水に浸かっていて、自分が洗って片付けてしまおうかとも思ったけれど、台が無ければ蛇口にも手が届かず、やはり断念するしかなかった。
 テレビでは三人の芸能人がアナウンサーからインタビューを受けていた。手には派手な文字と月曜九時という時間帯が描かれている。どうやらドラマの宣伝らしかった。
「ねえねえ、この真ん中の人、知ってる?」
 そうドロシーがテレビを指差しながら僕に訊ねる。それは青い髪に白いシャツという異族風の青年だった。当然だが、名前くらいしか覚えていない自分にそれが誰かなど分かるはずはない。
「この人ねえ、こうやって清純派気取ってるけどさ、結構派手に遊ぶのよ。うちのお店にも良く来るし。まあ、味も分からないのに高いボトルを片っ端から開けてくれるから良いんだけどねー」
 良く事情は分からないが、どうやらドロシーが言うにはテレビの中と普段とでは随分印象の異なるような人らしい。
「ドロシーはお店を持ってるの?」
「違うわよ。勤めてるの。でも、ゆくゆくは自分のお店を持ちたいわねえ」
「何を売ってるお店なの? ボトル?」
「うふふ、クリスちゃんにはまだ早いわよ。大人になったら教えてあげる」
 そう笑ってドロシーは僕の頬を指で突いた。とりあえず、大人しか行かないようなお店らしい事は分かった。
「大人にしか売れないものなの? それって何?」
「強いて答えるなら、夢、かしら。夢を売ってるお店なの」
「夢? 夜寝ている時に見る?」
「もっと別な夢よ。いい? みんな子供の時はね、昼でも夢を見られたの。けど、大人になるとほとんどの人が見えなくなっちゃうの。それが寂しいって人のために売ってあげてる、って所かしらね。だからクリスちゃんも、今のうちに夢は大切にしないと駄目よ?」
 昼に見る夢とはどういう事なのだろうか? 昼寝の事? でも、大人だって昼寝はするだろうし、夢も見るはず。仮に見れなくなったとしても、それはわざわざお金を出して買うほど必要だろうか? 僕には良く分からなかった。ドロシーの言う事は難しい。やはり大人なんだと思った。
「ねえ、クリスちゃん。名前以外で何か思い出せた?」
 訊ねられ、僕は首を横に振った。まだ一晩しか経っていないし、自分の置かれた状況を把握しようとするだけで精一杯である。思い出そうとする余力などはっきり言って無い。
「難儀よね、記憶喪失って。まだ子供なのに。よほど辛い目にあったのね」
 けれど、その辛い目すら記憶に無いのだから、何とも答え難かった。こんなに沢山の記憶を道連れにしてまで忘れたい事とは何なのだろうか。そんな恐ろしい記憶なら、いっそ忘れたままでもいいかなと思った。
「でもね、こう考えるといいわ。子供なんだから、まだ無くした記憶もたいした量じゃない、って。思い出せなくても十分やり直せるわよ」
「やり直せるって?」
「身の振り方、有体に言えば人生ってとこかしら。やり直せる機会ってそうそう無いものよ?」
 ドロシーは如何にも高尚なアドバイスをしているようにそう説く。僕は住吉がしているように、眉と眉を真ん中へ潜めた。量が少ないからとか、そう簡単に言えるのは他人事だからだろう。記憶が無いのは糸の切れた凧のようであまりに不安なのだ。それを覆すなんて、僕にはそう簡単な話ではない。やり直すよりも、僕は元の自分に戻りたい。そう思うのだ。
「あ、そうだ!」
 突然ドロシーは拍手を打って声を上げた。あんまり突然だったので僕は驚き、思わず飛び上がってしまいそうになった。普段はほとんど気にも留めない背中の羽がざわつく感触がする。
「いいこと思い付いた。ちょっと待っててね、すぐに戻って来るから」
 そう言うや否や、ドロシーはこちらの返事も待たずに外へ飛び出して行った。僕は唖然としてそれを見送り、少し呼吸を整えてからドロシーがそのままにして出て行ってしまったドアを閉めて鍵をかける。
 すぐに戻ると言う事は、三十分くらいだろうか?
 しかし、その予想は見事に覆され、ドロシーが戻って来たのは僕がテレビを見るのにも飽きてきたお昼になってからだった。チャイムもノックも無く突然外から鍵が開いて中へ入って来るドロシー。どうやら合鍵を持っているらしかった。
「お待たせー。お腹空いたでしょ? ほら、ランチも買って来たのよ。知ってる? 新宿の丸丹デパート。あそこの地下にね、LeVentっていう今人気の総菜屋さんがあるの。もう、三十分も並んじゃった。けどその甲斐あって、お目当てのこれ、買えちゃった」
 ドロシーは一方的に喋りながらテーブルの上に買ってきたものを並べていく。白いプラスチックの容器は蓋だけが透明だったが、幾つかは無数の水滴がついていて中が良く見えなかった。まだ温かいのだろう。
「さ、早く食べましょ。冷めちゃうわ」
 手際良く蓋を取り、一緒に入っていたプラスチックのスプーンや割り箸を回す。ざっと見渡す限り、日本食ではなかったがどれも美味しそうだった。彩りも華やかで、今朝食べた魚の煮物よりもずっと色鮮やかである。香りも作り立てとしか思えないほどはっきり残っている。けれど僕は、これのためにいきなり待たされたのだろうか、という疑問を覚えた。確かにおいしそうだし並んでまで買う価値はあるように思う。けれど話の腰を折って突然と飛び出すほどの理由には思えなかった。
 取り合えず僕は御飯を食べる事にした。きっとドロシーはそういう事をする人なのだろう、そう僕は納得する事にする。
 プラスチックのフォークで、まずはブロッコリーと何かの豆の和え物を取り寄せる。ソースはマヨネーズに色々とスパイスやら何やらを練り込んでいるらしく、ちょっと鼻に近づけるだけで香ばしさが漂ってきた。野菜の好き嫌いは無いとは思うけれど、次の瞬間には思わず口の中に放り込んでいてじっくりと舌と歯とでそれを味わっていた。香りだけで十分想像出来てはいたけれど、実際食べてみると本当に美味しくて、僕は表情が緩まずにはいられなかった。
「そうそう、忘れるところだった。はいこれ。プレゼント」
 食事中だというのに、何かを思い出したらしいドロシーが脇にまとめていた荷物から何かを取り出して食べている僕へ手渡してきた。それは何かのキャラクターがプリントされた表紙の本と万年筆だった。何の本かと思いページをめくってみると、中は全て白紙だった。ただ、よく見ると見開きごとの左上に、月と日の文字が薄く印刷されているのが分かった。
「これはね、書きたい時に書く日記帳なの」
「日記? どうしてこれを?」
「クリスちゃんが、これから思ったことを出来るだけここに書いて行くの。そうすると、後から読み返した時に何か思い出せるきっかけになるかも。日記を書くというのはね、自分を見つめ直せて気持ちが落ち着くものなのよ」
「気持ちが落ち着けば、思い出せるようになるの?」
「もしかしたらね。思い出せなくても、毎日の生活に張りが出来るわ。張りのない生活なんて退屈でしょ?」
 そうドロシーは言うものの、僕は退屈がどうこうと言えるほど余裕がある訳ではない。しかし、何かしらする事があった方が生活に目的意識が根付くようには確かに思える。年上の言う事は、自分と違って沢山の経験に基づいた教えなのだから、素直に従った方がいい。そう結論付けた僕は、まず初めに日記の表紙に自分の名前をカタカナで書いた。何故カタカナが自然と書けてしまったのか、少しだけ疑問には思ったが、それもいずれ分かる、この日記帳が埋まりきる前に分かるようになりたい、そんな事を考えて終わらせた。