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 高木とは偽名。それは流石に予想外で、俺は驚きにしばし言葉を失った。ドラマや映画ではさほど珍しくはない単語ではあるが、俺の日常には実在するような代物ではない。これまで何の違和感も無かったのは、おそらく周囲が初めから示し合わせていたからなのだろう。
「緒方って事は、じゃあ成美ちゃんは俺と親戚か何かってこと? でも次期当主っていうのは」
「いいえ、そういう事ではありません」
 成美は伏せ目がちに首を振った。少し悲しげに見えるのはひいき目のせいか。それよりも気にかかるのは、何故偽名を使い緒方家の一使用人を装ったのか、だ。あらかじめ島中に示し合わせておくにしても、意味も無く注げるような労力ではない。
 成美は次の言葉を言い出せないらしく、短い言葉を発しては口ごもるのを繰り返した。言葉を慎重に選んでいる様子の他、何か言い出す事自体を躊躇っているように見えた。その躊躇いの理由に後ろめたさがあるのかもしれない。何と無くそう俺は思った。
 すると、
「お前は緒方とは何の関係もね。ただの汚ねえ、わらし子だ」
 なかなか切り出せない成美を押し退けるかのように、唐突に祖母が俺に向かって吐き捨てた。再び理不尽なほど攻撃的な視線が俺にぶつけられる。俺はその迫力に気圧され息を飲んだ。
「御婆様、その事は私が……!」
 すぐさま成美が血相を変えて批難めいた口調で強く祖母を制止する。しかし祖母はまるで意に介さず、無視を決め込んで更に吐き続ける。
「いいが、お前は緒方とは何でもねえんだ。おれの孫はな、成美ただ一人だげだ。そもそも話さすら事もなんねえだ。今がらちゃんと覚えどげ」
 早口でまくし立てる祖母の口調は、不思議と一言一句余す事無く突き刺さるように頭の中に納まった。その言葉は俺の中で思考が止まりそうなほど激しく揺さ振ってくる。反射的に全て嘘だと駄々をこねそうになるほど、俺にはきつい言葉だった。
 俺と祖母は、実は血の繋がりどころか何の縁も由縁も無い他人同士だった。その事を受け入れるだけでも俺には苦痛だった。突然とそんな事を言われても、ずっと家族だと思っていたのだから、たちの悪い冗談にしか思えなかった。しかし、祖母の冷え切った視線が何よりもそれを物語っている。まるで別人のよう。そうとしか祖母の変貌を理解する事が出来ない。
「じゃ、じゃあ、俺の母親が白壁島の出身っていうのは」
「そんたな事は知らね。どうでもいい事すぺ」
 だったら俺は、初めから白壁島には全く繋がりが無いことになるではないか。それなのに、どうして俺は次期当主などという嘘話で白壁島へ呼ばれたのだろうか。
 自分の置かれた状況がますます理不尽に感じた。白壁島へ来て以来、これまでとは生活様式ががらりと変わり、それに順応するため毎日が必死だった。俺は何とか白壁島に順応し、島民の一員になりたかった。両親のいない今、唯一の肉親は祖母だけである。その期待にも全力で応えたかったのに。それが根本から否定されては、自分の根幹が半ばからぽきりと折れてしまったようで、状況を整理することすらままならなくなる。
「見上さん……多分、状況が良く把握出来ず混乱されていると思います。私が順を追って説明いたします」
 祖母は言いたい事は全部言ったからと、今度は唇をぎゅっと結びそっぽを向いた。早く終わってしまえと言いたげな姿に見える。
「蓬莱様はそもそも見上さんの人柄を調べるためのものでした。白壁島や緒方家の伝統と掟を守る事が出来るのか、当主の一族として相応しい礼節を持っているのか、有事の際にきちんと裁定が出来るのか、そして……」
「そして?」
「見上さんに、子孫を残す能力があるかどうかです」
「子孫を残す?」
「男性的な意味、です」
 その言葉で、ふと水野さんとの事が脳裏に浮かび上がった。あの唐突な出来事は、水野さんを使って試されていたという事なのだろうか。いや、それを疑えば女子全員が疑わしく思えてしまう。悠里にしても、よくよく思い返してみれば初対面なのにあの積極さは不自然ではないかと思えてしまう。
 以前、浩介が何気なく言い放った言葉。俺が緒方の次期当主だからモテるのだと、それの種明かしをされたような心境である。
「でも、俺は緒方の一族じゃないんでしょ? 何でそんな事をする必要があるの? いや、そもそも俺がどうして白壁島に来る必要があったんだ?」
 成美は口を噤む。すぐには言い出せない事なのだろうか。少なくともこの質問は、成美にとって俺にはあまり触れられたくない部分をえぐる意味があるらしい。
 しばし押し黙っていたものの、さほど間も空けずに成美は自分から口を開いた。
「それは、私が見上さんを婿に選んだからです」
 婿。耳慣れない言葉に俺は眉を潜める。婿という単語は、決まって後ろに養子とか入るとかそういう言葉がセットでついてくる。男尊社会と真逆の意味である。その意味はともかく、成美が選んだというのはどういう背景からなのか。いよいよただならぬ所に踏み入って来た。そう生唾を飲んだその時だった。
「まだ決まってね!」
 今の成美の言葉をかき消さんばかりに祖母が怒鳴った。驚くほど強く刺々しい声である。普段の祖母は本当にいつ死んでもおかしくないような、本当に弱々しい姿ばかりを俺は見てきた。病気と加齢で痩せ細った祖母の体からどこにそんな力が残っていたのか、俺にはとても想像がつかなかった。
「話を戻しましょう。まず私達が島民と一丸となって見上さんを緒方家の人間だと思わせたのは、一員になる自覚を促す意味もありました。そしてもう一つ、緒方家の出した条件とはまた別の試験のためでもあります」
「別の試験?」
「白壁島の皆さんにとって、緒方家の一族というのは非常に重大な存在です。そこへ新たに加わるのは一体どのような人間なのか、島民にはそれを知る正統な権利があるのです。だから見上さんを島の生活に泳がせるような真似をしました。現役世代に関わらず、誰が緒方家の一族になるのかによって白壁島の未来が左右されるのですから。それで各自見上さんの人柄を試しても良い事になっています。特に見上さんと同じ世代、私達十代については」