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 今日の帰りのバスは成美と二人だった。悠里はテスト期間も終わった事で部活動に出る日が多くなったが、期末試験が始まれば再び一緒になる事が増えるだろう。それ以前に、このバス自体も帰宅生徒で溢れる事になるのだが。
 成美は相変わらず従者としての仕事のため、放課後も部活動に参加する事は無かった。元々進級のタイミングで特に入部届けも出していないため、俺と同様にどこにも所属していない。俺がどこか部活に入れば追随して来るのかとも思ったが、それよりも今は放課後の時間は学校と水野さんと双方の勉強に費やしたい。他の事にかまける余裕が無いのだ。
「ところでさ、成美ちゃんは夏休みはどうしてるの?」
「私ですか? 今年は特に何も決めていません。基本的に学校が無ければ仕事をするのが使用人ですから。一応去年はお祭りぐらいは行きましたけど、悠里さんにずっと連れ回されてばかりでした」
「ああ、なんか悠里さんってそういうの好きそうだよね。ちなみに、去年の夏祭りはどんなイベントやった?」
「ありがちな所で、金魚すくいとか、輪投げとかですね。この辺りは子供向けですけど」
「じゃあ大人向けなのは?」
「巨大迷路でしょうか。あと射的とか」
「いいねえ、射的。あれってエアガンみたいなのを撃つやつでしょ」
「そんなに強力なものじゃありませんよ。子供用の玩具の少し強めのやつですから。でも景品は、上は随分高価な物も出ています。去年も獲得した人が何人かいたようですし」
 いわゆる現代的な遊びは一つとしては無いものの、それが逆に祭の雰囲気をより楽しめるような気がして、俺の想像力は尚更高まる。とにかく賑やかな場所の好きな性分に生れついているだけに、こういった話にはすぐに居ても立ってもいられなくなる。今晩にでも出かけるか、そんな勢いすらあった。
「あの見上さん。それで、そのお祭りの事なんですけど……」
「ん? なんだい?」
「夏休みの事で悠里さんからもありましたし、念のため前もってお話ししておきます。お祭りの事に関しては、出来るだけそよ様の前では口にしないようにして下さい」
 突然の不思議な忠告に俺は思わず首を傾げた。何故祖母には言ってはならないのか、すぐに繋がりが見えなかったからだ。
「え? なんでまた」
「実は、そよ様はあまりお祭りが好きでは無いんです。そもそも、こういう行事やイベント自体が不要だと思っていらっしゃるので」
「不要ってのはまた。どうしてそうなの?」
「何事においても合理的な方ですから。御存知の通り、白壁島では祝日は大晦日と正月と天皇誕生日だけです。お祭りは収益があるので辛うじて容認されているくらいで、実際白壁島にとって利益にならない事は、本土ではごく当たり前にある事でも片端から廃止されています。ゴールデンウィークの休校にしても、認められるまで何年もかかっているんです」
「なんか、おっかないなあ。息苦しくならないの?」
「白壁島では、これが当たり前ですから」
 基本的に俺の前での祖母は、食事量がまた少し減り体調は良くはなさそうだが、非常に優しくて温和な雰囲気をまとっている。そのイメージがあるからか、合理的で冷徹なものとはとても重なるように思えなかった。例えば、祭のイベントに何か難しいものを代わりに調達してあげるという事なら容易に想像はつくが、祭そのものは大して儲からないから潰してしまおう、という事はとても想像し難い。少なくとも俺には躊躇いがある。
 これが、公私の切り分け、または白壁島を預かる緒方家の当主の役割というものなのだろうか。随分厳しく、また行く行くは自分にもそれが求められる、そう俺は思った。
 家に着いたのは十六時前と、授業の予習復習が週間になってきた頃と同じ時間だった。夕食まで時間は、最初の半分を学校での授業の復習に、もう半分を水野さんの授業の予習に費やす。そしてその日の夕食後も、決まった時間に水野さんはやって来た。いつものように難解なテキストと例題、水野さんの事細かな解説と電話帳のような参考書を頼りに奮闘する。滞りなくと呼ぶにはあまりに余裕の無い内容だったものの、ともかくその日も無事に授業が終わった。
「本日はここまでといたしましょう。以前よりも理解力が高まっていますね。大変宜しい傾向です」
 唐突に水野さんからそんな賛辞を受けた。確かに自分でも、今日は普段より出来が良かったような印象はあったものの、どうせ錯覚だろうな、と思っていた。しかし、現実的で率直な物言いをする水野さんが言うのなら間違いは無いだろう、そう思い急に小さな自信が湧いて出てきた。
「そう言ってくれると、凄く頑張った甲斐がありますよ。俺って褒められて伸びるタイプですから」
「年齢的に仕方のない事と思いますが、増長し易いのは裕樹様の欠点です」
 いつも通りの遠慮の無い切り返しを受け、そうですか、と俺は苦笑いする。自分でもよく分かっているもののなかなか直す事の出来ない性癖、やはり水野さんは真っ向から指摘してくるか。そう思った。
「でも、水野さんも毎晩大変ですね。この後はもう今日の仕事は終わりですか?」
「いえ、若干残作業がありますので。それに明日の授業の用意もしなければ」
 それは、俺のせいで余計な仕事が増えているという事なのだろうか?
 実際はそうかもしれないが、水野さんはそういう嫌味を言った訳ではなく、単にありのままを答えたに過ぎないだろう。水野さんはそういう面倒な言い回しはしない、簡潔に事実だけをありのままに述べてくるのだ。
「水野さんはホントにいつ休んでいるのか分からないですよ。ずっと働き詰めなんじゃないですか?」
「相応の給料は戴いておりますから。それに、これが私にとっての日常ですので」
「でも働いてばっかりで、彼氏は大丈夫ですか?」
「恋人はおりませんので、煩わせることもありません」
 随分あっさりと答えるものだ。そう俺は驚いた。普通そういった事は冗談めかしたり適当に濁すものだと思っていたが、水野さんにはまるでその気配が無い。もっとも、それが水野さんらしいと言えば違いないのだが。
「じゃあフリーなんですね。勿体無いなあ、水野さん綺麗なのに。こういう知的でクールなとこ、凄くいいですよ」
「裕樹様、私の機嫌を取る事は不要ですよ」
「そんなんじゃないですよ。俺、お世辞は苦手ですもん。ほら、そういうのってボキャブラリーが無いと駄目でしょ?」
「それもそうですね。素直に褒められたと思っておきましょうか」
 そこは否定して欲しかった。そう苦笑いするが、水野さんの表情は変わらない。また調子に乗って迂闊な発言をしてしまっただろうか。またいつものように、そんな不安を浮かべる。
「裕樹様も幾分余裕が出てきたようですから、そろそろ次の試験を行いましょう」
「もうですか。分かりました、今度こそは頑張ります」
「そうです、頑張って下さい。成果が無ければこれまでの努力も全て無駄になります。それと、今回は試験の結果に応じて御褒美のようなものも差し上げましょう」
「おっと、それは嬉しいお知らせですね。俄然、やる気出ました。俺は単純ですから、あっさり物に釣られますよ」
「成果主義、と言って下さい」
「知ってますよ、信賞必罰って奴ですよね」
 水野さんは怒ったような素振りで、冗談めかしながら僅かに口元を綻ばせた。普通に笑うよりも更に珍しい表情だと、しげしげと見つめているとすぐに元の無表情に戻った。感情の起伏に乏しいものの、何となく俺の成績が伸び悩んでいる事を個人的にも気にしているように俺には映った。
 それにしても。何だろう、御褒美って?
 思わぬ朗報に胸踊り色々と想像を働かすものの、御褒美という幼稚さの否めない響きには流石に即物的なものは現実味がなかった。やがて妄想レベルの下らないものに発展していき、俺は自分の貧困さが情けなくなって頭からそれらを振り払った。