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 案内されるまま、ひたすら屋敷の中を奥へ奥へと進んでいく。学校の廊下の軽く倍はありそうな廊下、そのど真ん中を歩かされる俺は時折通り過ぎる廊下の端で畏まる使用人達の姿に胸を詰まらせていた。自分の価値観では、こんなものは馬鹿げたコントのような振る舞いでしかない。それを何十人もの人達が真剣な表情で従っている様には得も言われぬ感覚が込み上げてくる。
 自分は果たしてどれだけ偉大な存在なのか。
 そう舞い上がった気持ちに浸る事は出来なかった。物事をあまり深く考えず、それが楽しいかどうかだけが全ての俺にとって、明確な上下関係というものは一番表現したくないものだからだ。誰彼からも畏まられても、居たたまれ無さと疎外感しか感じる事が出来ない。
 けれど当面の問題は、これほど緒方に畏まる使用人を率いている俺の祖母だ。白壁島の特異さに驚いてばかりで何の心の準備もしないままで来てしまったが、この状況を見るとあまり穏やかでは無い予感がして仕方がなかった。尋常ではない畏まり方だから、きっと祖母は相当恐ろしい人物ではないのかと、そんな悪い想像が頭から離れない。
 屋敷の中に更に作られた幾つかの中庭、そこに面した廊下を幾つか渡り、やがてこれまでよりも一際広い中庭へと出た。庭の中心には江戸時代の茶室のような和風の小屋が建っていて、柵と屋根の付いた渡り廊下が一つそこへ続いている。
「あの、あれは?」
「そよ様の御部屋にございます」
 主語の無い俺の砕けた問いに、丁寧に受け答える案内。俺は自分が失礼な訊き方をしたと思い、何となしに会釈する。
 どうやらこの離れが祖母の部屋らしいが、随分妙な場所に建てられているものだと疑問に思った。部屋があまりに母屋から離れ過ぎている。まるで意図的に人を遠ざけているかのようだ。白壁島を取り仕切る立場上、様々な重圧があったりしてナーバスになりがちだとか、そんな何らか理由があっての事なのだろうか。
 渡り廊下はこれまでの広い廊下とは異なり、人一人が渡るので精一杯の幅しかなかった。左右に余裕のある場所を歩き続けていたせいか、随分と渡り廊下を歩くのが窮屈に感じる。両腕を広げるよりも狭いのではと歩きながら手を伸ばし、柵には丸く削られた木の手すりが付いている事に気が付いた。渡り廊下の幅は手すりに手をかけやすくするため意図的に狭くしたのだろう、そう俺は推測した。
 廊下を渡りきり、小屋の出入り口の前までやって来る。そこは階段の踊り場のように僅かに広いスペースになっていて、俺と一緒に来た使用人達が並んで立てるぐらいの余裕があった。だが俺以外はあらかじめ決まっていたかのようにその場へ両膝を付き、畏まるように頭を垂れる。
 この場合、自分はどうすればいいのか。立ったままでいいのか、それとも使用人同様に膝を付くべきか。
 どうとも振る舞えず成美に訊ねようとしたそれより先に、案内をしていた使用人が戸の前から中へ呼びかけた。
「そよ様、裕樹様がいらっしゃいました」
 直後、中からくぐもった声で一言返事が返ってきたが良くは聞こえなかった。だが、確かに老人らしい声のようだった。
「どうぞ」
 戸を開けようと手をかけた瞬間、反射的に俺は後ろの成美に視線を向けた。おそらく中には自分しか入る事が出来ない。それに対する不安から思わず取ってしまった行動だ。
「私はこちらに控えておりますので」
 成美は他の使用人と同様、視線を直接合わせはしないもののこちらの意図を汲み取ってくれたらしく、そう答えた。俺は少し安堵し微笑んで頷く。
「失礼します」
 戸を開けられ、俺は中履きを脱いで部屋の中へ入る。俺が入るとすぐに戸は閉められ、使用人達の気配が戻っていくのを感じた。成美はいるようだが、急に人にいなくなられ俺は不安になる。まだ祖母と一対一で対面する気構えが出来ていなかったからだ。
 中は外から見るよりも広く、十畳よりも更にありそうな広い和室だった。天井も高く、上からは照明のための大きな提灯が吊されている。しかし中は蛍光灯が入っているため光量は充分にあり、それ一つでも薄暗さは感じなかった。
 部屋の奥では一人の老人が鎮座した姿勢でテーブルに向かい、そこに重ねられた幾つかの書類やファイルを捌いていた。何か事務的な仕事をしているらしく、ファイルはどれも尋常ではなく厚い。やがて老眼鏡を直しながら彼女は俺の方へ視線を向けてきた。恐る恐る視線を向けながらぎくしゃくと会釈をすると、彼女は皺だらけの顔でにこやかに微笑んだ。
「裕樹か?」
「はい。初めまして」
「ほら、こっちさ来て座らい」
 船着場近くで会った老人と同じように、訛りの強い話し言葉。それでも大体何を言っているのかは聞き取れ理解が出来る。俺はもう一度会釈し、彼女の向かいに敷かれている空いた座布団の上に正座した。
「固ぐならんでいいがら。足、崩さい」
「あ、はい」
 正座を崩して胡坐をかくが、膝に妙な力が入り余計に強張ってしまった。流石に足を伸ばすような真似は出来なかった。テーブルの下ならあまり目立ちはしないだろうが、緊張感がそれを許さない。
「まず、これでも食べらい」
 テーブルの上に並んでいたファイルや書類を手早く脇に片付けると、側にあった小さな移動式の茶箪笥を手繰り寄せ、中から袋菓子を取り出し俺へ差し出す。意外にも自分でも時々買って食べる袋菓子で、唐突ではあったが礼を言いながら受け取り早速封を開けた。
「わざわざ遠ぐがら来て貰って悪がったなあ。ばあちゃんが迎えに行げれば良がったんだけんとも」
「いえ、そんな。半日ぐらいですから。はい」
「緊張しなぐていいぞ。ばあちゃんと呼んでけらい」
「あ、はい。その……ばあちゃん」
 何となく気恥ずかしい気分だった。友人で祖母がいる家は幾つかあったが、うちは両親と三人家族だったため祖母という存在は友人宅でしか知らない。そして大概が訳も無く煙たがっていたものだ。自分には良くは分からないがそういう風に思われるものなのだと自分の中で解釈していたが、いざこうして対面した自分の祖母は驚くほど親近感が持つ事が出来た。経験則から、初対面で嫌な印象が無ければその人とはうまくやっていける。俄かに俺は祖母に対する気持ちの余裕が出てきた。
「お茶はあがりすか?」
「はい、戴きます」
 祖母に注がれたお茶を飲みつつ、また菓子を食べる。考えてみればまだ昼食を食べていなかった。これまで緊張で紛れてしまっていたが、それがほぐれ軽く飲み食いしたせいで空腹感が蘇ってくる。茶菓子では少し足りない、そう思い始めた。
「どれ、ちょっとこっちさ来て顔見せて見ろ」
 お茶を一杯飲み干した頃、祖母がそう手招きした。俺はテーブルの脇を通って祖母のすぐ隣まで来てそこに正座する。そして、半分閉じているような目でまじまじと俺の顔を見る祖母。だが実際どう見ているのかどうかは良く分からなかった。
「ああ、やっぱなあ。目元に面影が有りすと。なあ本当に」
 皺だらけの顔に更に皺を刻み嬉しそうに微笑む祖母。それに合わせ俺も何となく微笑んだ。
 面影とは母の事だろうか。別段父親似とも母親似とも言われた事はなかったが、祖母から見るとそういうものが見えてくるのだろうか。
「本当に大変だったなあ。なんぼ酷い事だったか。まさか事故だなんてなあ。それも何も二人して」
「ええ……本当に突然で」
「今度がらは、ばあちゃんと一緒に暮らすべし。こごさいれば何も不自由させんから」
「あ、はい。でも、あんまり甘えるって訳にも」
「なに、年寄りなんて他にするごとなんかなんぼもありゃしにゃあがら。孫に小遣いあげるしか楽しみ無いすもん」
 笑う祖母に釣られ、俺も少し声に出して笑った。
 一時はどうなる事やらと憂慮したが、この人が祖母ならここでも何とかやっていけるかもしれない。白壁島の妙な風習もいずれは慣れる。元々、物事を長く深く考え込まない性質もあり、俺は最後のつかえが取れたとばかりに思考を前向きに切り替えた。
 安堵の入り混じる笑い声も束の間、不意に柱時計が鳴り響いた。時計の針を見上げた祖母は表情を僅かに曇らせ小さな溜息をつく。
「ごめんなあ、せっかく来で貰ったけんとも。ばあちゃん、これがら用足しさ出なならん。お前さの部屋は用意しだがらな。夕飯には戻って来るがら、休んでらい。まだ話語りすべし」
「はい、分かりました」
 どうやら何か仕事が迫っているらしい。だが、祖母は緒方家を取り仕切る身なのだから多忙は当然だろう。会社の社長も大体そんなものだ。