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「で、どうやって止める気じゃ! あんな化け物、手が付けられんではないか!」
「大丈夫大丈夫、まあ見てなさい」
そう暢気な口調で言うと、ソフィアはおもむろに物陰から飛び出した。ほうぼのていで転がり込んできたヴォンヴィダル公は、そのあまりの無防備さに思わず声を上げそうになった。銀竜の暴れ回るこの甲板は矢弾の飛び交う戦場と同じ危険な場所、そこへ何の武具もつけない少女が緊張感も無く飛び出していったのだから、歴戦の武人は酷く狼狽する。
「よ、よさんか! 危ないぞ!」
しかしソフィアは混乱の渦をものともせず、普段通りの小さな駆け足で銀竜の元へと向かう。訓練した兵士でさえこの状況での前進は躊躇うだろうが、それをものともしないのは、ソフィアがよほど度胸があるのか絶対に無事でいられる確証があるのかのいずれかになる。けれどヴォンヴィダル公には単なる無謀な行為にしか見えなかった。
「グリー、そろそろ終わりにしなさい!」
やがて銀竜とは目と鼻ほどの先まで近づくと、ソフィアは精一杯の声を張り上げそう呼びかけた。それはまるで母親が子供を夕飯に呼ぶような口調で、とても荒れ狂う銀竜を抑えるほどの迫力は感じられなかった。そもそも、ソフィアの張り上げた声よりも銀竜自身の咆哮の方が遥かに大きい。
「『ソフィー!?』」
だが、すぐさま銀竜は体を一瞬ぴくりと震わせたかと思うとソフィアの方へ向き直った。
「ちょっと、私の言いつけは忘れたの? 無断で正体現すなって、いつも口酸っぱくして言ってるじゃない」
「『ア……ウ……』」
「なに? そのまんまじゃ、何言ってるか分からないわよ。さっさと戻りなさい」
ソフィアの迫力に気圧されたのか、銀竜は何も言い返せずそのまま黙り込んでしまった。続いて、全身から乾いた音を立て続けに鳴らし始め、急速的に己の輪郭を萎める。見る見る内に銀竜の姿は跡形も無く消え去り、代わりにそこには全裸の銀髪の青年が残った。
「戻るって、この姿こそ仮のものなのだが」
「それは私が決める事よ。そんな事より、言いつけを破ったわね」
「おお、そうだ、ソフィー、小生は許せんよ! 猿如きがソフィーに無断で触れるなどと! ええい、どこへ行ったあのジジイ! 生皮剥いで干して保存食にしてくれる!」
「いいからおとなしくしなさい。あと、ちょっとは隠せ」
「隠す? 何を隠すのかね? 小生の溢れ出る才能は隠し通せるものではないよ」
きょとんとした表情のグリエルモの額をソフィアが平手で叩く。小気味良い音を鳴らした額を押さえグリエルモは納得いかなそうに口をすぼめ、ソフィアは溜息をついた。
「まさか……本当に手懐けているとはのう」
ようやく落ち着きを見せた周囲の状況を恐る恐る確かめながら姿を現すヴォンヴィダル公。その声を聞きつけたグリエルモは、すぐさま顔の輪郭が変わるほど険しい表情で鼻息を荒げる。
「あ、見つけたぞこのジジイ! 我が恨み晴らさで半殺し!」
「やめなさい」
すかさずグリエルモの後頭部を叩き抑えるソフィア。何故自分の行動が制止されるのかと不満そうに振り返るが、再びソフィアが拳骨を振り上げたため、慌てて自分の頭を両手で抱え庇う。
あれだけ自慢の戦斧で何度も攻め立てたにも関わらずびくともしなかった銀竜を、平手一つで操ってしまうとは。ヴォンヴィダル公はただただ感心するばかりだった。
「でもね、ソフィー。ああいう色猿は駆除するべきだと思うんだ」
「ああ、あれ? 嘘よ、う、そ」
「嘘? どうしてそんな嘘を言ったんだい!?」
「だって、グリったらずっと離れちゃっていないんだもの。他の女の子に目が行っちゃったんじゃないかなって、不安になって」
「小生にやきもちを妬かせようと嘘をついたのかい? ああソフィー、なんと愛らしい。小生の太陽はソフィーだけだよ」
そう言って抱き締め頬を摺り寄せてくるグリエルモ。ソフィアは適当な相槌を打ちながら、鬱陶しそうにその顔を引き剥がした。暑苦しいのもそうだったが、何より今のグリエルモは仮の身といえど衣服を何も身につけていない。そんな姿で密着されるのは迷惑以外の何物でもなかった。
「見事に飼い慣らしておるのう」
「まあね。もう分かったでしょ? これ以上まともにやりあっても、何の得にもならないわよ」
「そのようじゃな。わしも十分懲りたわい。それに、金もたっぷりふんだくられたようだし」
「なによ、人聞き悪いわね。そっちなんて人さらいじゃない」
眉をひそめるソフィアに、肩をすくめ苦笑いをするヴォンヴィダル公。
ヴォンヴィダル公はすっかり戦意も無くし平素の穏やかな表情に戻っていた。ようやく満足してくれたと踏んだソフィアは早速、未払いである報酬の具体的な話を切り出しにかかる。
しかし、その時だった。
「銀竜! これ以上の不埒な真似は許しません!」
突然の勇ましい声。一同が振り向いたその先には、細剣を構えたエミリアルの姿があった。隣には肩を貸して貰いようやく立っているヴィレオンの姿もあった。共に薄汚れたぼろぼろの姿で、グリエルモの起こした暴動に巻き込まれたがどうにか逃げ延びたといった風体だった。
「あら、エミリアル。無事だったのね」
「なにを、この銀竜を使いヴォンヴィダル公にあだなす毒婦め! 神妙にしなさい!」
「ちょっと、何錯乱してるのよ」
「たすけてーいたいけな老人をいじめるよー」
「黙ってろジジイ、ややこしくするな」
気が動転しているのか、いつに無く興奮状態のエミリアル。目は真っ赤に血走り呼吸も荒い。あの銀竜がよほどショックだったのか、こちらの言うことにまるで耳を貸そうとしない。
「小生は銀竜などではないよ。よく見たまえ」
「な……何と破廉恥な格好! もはやこうなれば、我が家に代々伝わる秘技を受けてみなさい!」
エミリアルは細剣を構え直し、秘技とやらの準備のためか足の位置を入れ替えた。一体どのような技が飛び出すのかは分からないものの、別人のように興奮したエミリアルの迫力だけはただならぬ雰囲気を予感させた。
だが、
「エミリー、やめなさい」
「ひゃっ!?」
突然、傍らでぐったりしていたヴィレオンがいきなりエミリアルの胸を鷲掴みにする。驚き背筋を伸ばしたエミリアルの隙をつき、ヴィレオンはエミリアルの手から細剣を奪い取った。
「な、何をされますか! ヴォンヴィダル公の御前で!」
反射的に、驚いた勢いも合わさってエミリアルは細剣を奪われて空いた手でヴィレオンの頬を張った。予想よりも小気味良い音を鳴らした事で、ハッと息を飲み我に返ったエミリアルだったが、ヴィレオンは今の不埒さなど気にもかけていないかのような爽やかな笑みを浮かべ応えるだけだった。ヴィレオンの軽薄な笑みは、それだけで言葉を続けられなくなる奇妙な魅力がある。エミリアルは納得いかなそうな表情のまま表情をうつむける。
「お三方も御無事なようで」
「そう見えるか、ヴィレオン。このありさまでは、当分航海もままならんぞ」
「船など幾らでも換えがききましょう。それにしても、父上も随分と衰えられましたね。まさか自分がかなう相手かどうかを見誤られるとは」
「そういう生意気な口は、一人で立ってから言え。この軟弱息子が」
互いに辛辣な言葉を交わし、そして照れ臭そうに笑い合う。二人の姿をソフィアは特に興味もなさそうに傍観し、グリエルモはさも悟りきったかのように全裸のまま頷き、エミリアルは良く成り行きも分からぬまま状況に合わせようと無理な笑みを浮かべた。
結局は、ヴォンヴィダル公が銀竜と力試しをしたいがための事だった。それに後継者争いが加わることで混迷し、こういった騒動が起こってしまったのである。当事者は、雨降って地固まるとばかりに良い思い出へ押し込めようとしているが、巻き込まれただけのソフィアにしてみれば迷惑以外の何物でもない。そのせいか、事が収まるに連れて報酬の請求意欲がますます強まっていった。
「はいはい、じゃあ一段落したとこで払うもの払ってもらうわよ。こっちは慈善事業じゃあないんだから」
「ええ、分かっています。グリエルモさんとも併せてお支払いいたしましょう」
「何じゃ、ヴィレオンからも約束しておったのか? それでは二重請求じゃの」
「違います。正当な報酬です」
「支払いをまとめると割引が利くものじゃが」
「仮にも貴族が割引とか言わないでよ。それとも、税務署に密告して財産洗い直して貰う?」
「残念じゃが、そこのトップはわしの教え子じゃ」
早速交渉がこじれそうな予感を察したグリエルモは、退屈を紛らわすため船の先端に移り不快な歌を唄い始めた。
久々に体を思い切り動かしたせいか、いつに無く声の調子が良いとグリエルモは機嫌良く歌に熱を込める。手元に楽器が何も無い事が悔やまれるほどだった。
「ふむ、そう言えばしゃっくりも止まったね」
「いい加減、服着ろ」