BACK

「この非常時に何やってるのよ、この馬鹿!」
 暴徒に追い立てられ焦燥感に駆られながらもどうにか冷静さを保ち続けてきたソフィアだったが、一つとして悪びれ無いグリエルモの態度についに堪忍袋の緒が切れ、思わず声を荒げ頭ごなしに怒鳴りつけた。グリエルモに人間の常識や観点を求める事がそもそもお門違いであるとは知っているが、精神的に余裕の無い所に自分の都合の余裕を見せられ、思わず我慢が出来なかったのである。
 ソフィアに怒鳴られた事がよほど驚いたのか、グリエルモはすぐさま子供のように首を竦め怯えの色を見せた。恐る恐る抱えた荷物の間から様子を窺う様は、まるでソフィアにぶたれる事を心底恐れているようだった。額に釘を打ち付けても逆に釘が曲がってしまう、そんなグリエルモがである。
 ライオネル達は怯えるグリエルモの横をそそくさと走り去っていく。ソフィアは明らかに状況を飲み込めていない様子のグリエルモの袖を掴み、自分達も同じように追って来る暴徒からの逃走へ加えさせた。
「ご、ごめんね。ソフィーがお腹空かせてると思って」
「空かせてるのは自分でしょう。状況分かってるの?」
 そう苛立ちながら駆けるソフィアのすぐ後ろをグリエルモは、両手に抱える荷物はそのまま足だけを機敏に動かす奇妙な走り方でぴったりと後へくっついていた。走るのに荷物はさほど邪魔ではないらしく、視界の妨げにもなっていない様子である。
「後ろのあれは何だい? 何故、小生達を追いかけて来るのだろう」
「ライオネル社長様の裏仕事の末路よ」
「ふむ、彼らにとってこれは義戦なのか。おや、何か良い詩が浮かんで来そうだ。確か手帳が上着の」
「中に無くていいから。逃げる心配だけをしなさい。この状況で何が大事か分かってるでしょ?」
「無論、小生とソフィーが幸せになる事が最優先だよ」
「私が、最優先よ」
 ライオネル達に追随し、出口を目指してひた走る。地下部分は外観よりも更に広く作られているのか、もう随分走り続けているが一向に外へ出られそうな気配はない。何にしてもライオネルについていけばまず間違いはないだろうと、ソフィアは呼吸が乱れぬよう意識しながら体力の無駄な消耗を避けつつ走り続けた。
 この状況は全くの誤算である。グリエルモだけでは頼りないと仲間につけたつもりの観客だったが、今ではライオネルよりも面倒な外敵、命の保証も計れない暴徒である。ただ興奮しているのではなく、薬で恍惚にあるばかりか半ば幻覚さえ見ているように思われるのだから、到底冷静な話し合いなど望めるはずもない。かと言って逃亡では根本的な解決となる訳でもなく、
「ん?」
 ふとソフィアは周囲の景色に首を傾げた。ライオネルは地上に向かっているものだと何の疑いもなく追随していたのだが、避難と言うからには地上へ向かっているものだとソフィアは思っていた。しかし下り階段を何度も降りている事から、明らかに地下へ向かっているからである。
「ちょっと、本当にこっちでいいの?」
「御心配なく。いざという時のために、緊急脱出口を用意してますから。街外れまで続いている秘密の地下道です」
「用意周到ね。もしかして、憲兵に追われた時の事とか考えてたんじゃない?」
「まさか! そちらはとっくに買収済みですから、慌てて逃げなければいけない状況にはなりませんよ」
 さも当然の事のように、むしろ爽やかさすら覗かせる表情で答えるライオネル。悪気が無いのは生来の無邪気さによるものなのか、収益のためあれこれ柔軟に飲み込み過ぎて腹の底まで真っ黒になったからなのか。躊躇せずそのものの答えを口にするライオネルの清々しさにソフィアは眉を潜め口を閉ざす。
 やがて一向は、廊下とほぼ同じ幅もある大きな扉の前に辿り着いた。そこは特別な招待客用の休憩室らしく、扉の装飾からして煌びやかな作りになっている。ソフィアにしてみれば、こんな地の底にこれだけ金をかけた部屋を作る発想そのものが理解出来ず、富裕層への嫉妬染みたやるせない反感を抱いた。
 扉を開けるなり一気に中へ雪崩れ込む一同。後ろから、あそこへ逃げ込んだぞ、と叫ぶ声が聞こえ、
「グリ! 扉押さえて!」
 空かさずソフィアはグリエルモが扉を閉めさせる。直後、扉の外から大きな衝突音が一つ聞こえて来た。暴徒の群が扉を突き破ろうとぶつかったものの、扉の強度とグリエルモの腕力に阻まれたためである。一見すると両手をノブへ添えているだけのように見えるグリエルモの仕草だが、あれだけの人間が団結する圧力に対しても表情はいたって涼しげである。
「奇行の多い方と思っていましたが、こういう時にはなかなか頼りになりますね」
「そっちも人の事が言えるほど良い趣味じゃないわよ。女使って薬を売りさばくなんてね。端から見たらただの会員制コンサートにしか見えないし、本当タチ悪いわ」
「ああ、ソフィアさん。あなたは酷い思い違いをされている! この活動はあくまで同好の士だけのものですよ。皆さんは可憐な少女が一生懸命に歌い踊る姿が好きなのです」
「でも、最近は食傷気味だから、私みたいなのに宗旨替えしたってとこね。で、幻覚剤同好会だっけ?」
「違いますよ。あれはただの滋養強壮剤で、どんな疲れもたちどころに消えてしまう一品です。本当は効き目が強いから、一日に一本しか服用してはならないのですが。皆さん、用法を守らないから少し元気になりすぎているようで」
「さっきと言ってること変わってるわね。まあせいぜい憲兵にも同じ事言ってなさい。それで、出口はどこ? ぐずぐずしてると扉の方が持たないわよ。無駄口は叩いてられないわ」
「……はい、すぐにでも」
 ソフィアから開き直りとも取れる切り替えしを受け、むきになって言い返す事も出来ず釈然としない表情のライオネル。ソフィアの横暴さを知る者にしてみれば極日常的な物言いだが、馴染みのないライオネルには本気で言っているのかどうかも分からずただただ困惑する。
 グリエルモはしっかりと扉を押さえてはいるが、扉は外から繰り返し何度も叩かれ早くも隅が軋み始めている。いずれこのままでは、扉が開くよりも先に突き破られてしまうだろう。幾らグリエルモでも、一度に何人もの暴徒を食い止める事は出来ない。それだけの知恵も危機感も持ってはいないのだ。
「出口はこの床の下です。絨毯を剥がして下さい」
 後の人手で絨毯の端を掴み、一気に駆け抜けながら捲りあげる。するとその下からは古めかしい重厚なフォルムの扉が現れた。少し大きな邸宅にならばよく見かける地下室の入り口と同じ、やや錆び掛けた年季の感じられる鉄の扉である。
「意外とまともそうね」
「ここのかつての持ち主が非常時に逃亡を図る際に使用する目的で作ったそうですよ。さあ、急ぎましょう。では鍵を出して下さい」
 扉に屈み込んだライオネルが左手で鍵穴の埃を払いながら、右手だけを背後の中空へ差し伸べる。しかしスタッフは互いに顔を見合わせ首を傾げるばかりで、一向に要求されたものを出そうとしない。
「どうしたんですか? 早く、鍵ですよ」
「ですが社長、ここの鍵は非常用ですから、我々は携帯出来ません。御自身で管理されているはずでは?」
 そう逆に訊ねられ、おおと何かを思い出し手を叩くライオネル。
「なるほど、言われてみれば確かに。そう決めたのは僕自身でしたからね」
「そうですよね? いきなり言われて驚きましたよ」
「いやいや、ついうっかり。最近はどうも忙しくて疲れているようだ」
 和やかな雰囲気で微笑む彼ら。あまりに場違いな彼らの危機感の無い態度に、ソフィアの表情は見る間に険しくなる。
「あんた……自分で持ってないの?」
「鍵と現金は持たない主義ですので」
「で? ここからどうやって逃げるつもり?」
「そうですね。ひとまずこのままここで、しばらく待ってみましょうか? さすがに一晩もすれば他の社員も異変に気付くはずですし、外の彼らも薬が切れて落ち着いてくるはずですよ」
 今、効果が切れる、と言っただろうか?
 しかしソフィアは既に、そんな細かな言動には何とも思わなくなっていた。慢性的な怒りを苛立ちに変え燻ぶらせてきたが、もはや我慢の限界だった。人間、心底呆れ果てるとむしろ清々しい気分になるものだ。そう自分の感情の波線を眺めながら、まるで事態を打破する意思の感じられない彼らに背を向ける。そして、
「グリ」
 名を呼ばれすぐさま振り向くグリエルモ。ソフィアはこれまでの苛立ちが嘘のように消え、満面の笑顔でグリエルモに話しかける。だがそんなソフィアに対しグリエルモはどこか恐れているような不安げな表情だった。
「もういいわ。初めからこうしとけば良かったのよ。物事はやっぱりシンプルにあるべきよ。そう思わない?」
「勿論、良く分からないけどソフィーが言うならその通りだよ」