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 未だ、雨、降り止まず。
 学校が終わるなり、俺はまたいつものように高台の東屋に来ていた。屋根があるから雨宿りにはなるのだろうが、実際は高台の頂上は風が強くて横雨に濡れるのだけれど。
 湊は俺よりも先に東屋へ来ていた。雨の日用のウィンドブレーカーを着ていたが、既に雨と泥で随分と濡れている。今日も走り込んでいるようだ。
「なあ、湊。神谷って知ってるか? 陸上部の」
 かじかむ手をコンビニで買ったコーヒーで温めながらそう訊ねる。
「シゲちゃん? うん。家が近所同士でさ、昔はよく遊んだっけ」
 あいつって神谷シゲなんちゃらって名前なのか。
 そう思いながらコーヒーの蓋を開けた。手は十分に温まり機敏に柔らかく動かせる。手を温めていたのはかじかんでいるのが辛いからではなくて、タブを引こうにも指が動かなかったからだ。
「なんか最近目ェつけられててさ。今日も湊に近づくなとか言って来てイジメられたんだ。お前からなんか言っておくれよ」
「そんな事してるの? 豊よりも臆病だと思ってたんだけどな」
「誰が臆病だよ」
 少なくとも神谷を表現するのに臆病という言葉はおおよそ似つかわしくない。湊には合わせる顔が無いとか言っている辺り、精神的には臆病な所があるのかも知れないだろう。だが、後は不遜なほど堂々と胸を張り自分の気に食わない事は気に食わないと、その対象が人間であろうともはっきりと言ってのけるような奴だ。俺とどう比べたって神谷の方が臆病とは言い難い。
「お前さ、神谷と何かあった訳? あいつ、お前に合わせる顔が無いとか言ってたぞ」
「そんなこと言われてもねえ。私だって心当たりないし。本人に直で訊けば?」
「それが出来ないから、お前に訊いてるんだよ」
「やっぱり臆病じゃない」
「俺よりシゲちゃんだろ。あいつ、お前に随分と御執心のようだぞ。もしかしてアレじゃねえの?」
 俺はからかうような口調で湊を煽ってみた。しかし当の湊はいつものヒップバッグを漁っていた。どうやら今の会話は途中から上の空だったようである。
「あ、あったあった。ねえ、そんな事よりもこれ見てよ」
 あれだけ湊の事に対して真剣だった神谷を、そんな簡単に片付けて良いものなのだろうか。いささか疑問だったが、神谷へ執着が無いのは俺も同じだったので、湊が取り出して示すそれに視線を向けた。
 町内マラソン大会のお知らせ?
「これ、プロの部ってあるでしょ。往復で二十キロも走るんだよ」
 それは町内会の主催で定期的に行われているイベントの告知だった。この町は海岸線沿いに道路が長く続いているため、よくそれを利用してこういったイベントが行われているのである。
「まさかこれに出るつもりなのか?」
「もちろん。さすがに入賞は無理だけど、完走ぐらいは目標にしてるんだ。どう思う?」
「いいんじゃねえの? どうせお前の鈍足じゃビリになるのは目に見えてるし。完走ぐらいならなんとかなるだろ。みっともない面してゴールすれば、みんな拍手してくれるさ」
「温かいお言葉、感謝します」
 べー、と思い切り舌を出してそっぽを向く。
 そんなこと言ったってしょうがないだろ。お前が小学生並に鈍足なのはどうしようもない事実だというのに。
「そういえば、どうしてタバコなんか吸い始めたの? 見つかったのって三年の時だけど、その前からずっとな訳ないよね」
「いや、そうだよ。最初に吸ったのは二年の予選前だ」
「どうして?」
「気分が落ち着くからさ。色々あって、いつもイライラしてたんだ」
「どうしてイライラしてたの? 今と違って学校のヒーローだったじゃない」
「ヒーローだから、だよ」
 俺はコーヒーの缶を傍らに置き、ポケットからタバコの箱とライターを取り出す。一本咥え火を点けようとするものの、こんな天候が続いているせいでタバコがしけったのか火が点き難かった。
「陸上ってもっと楽しい所だって思ってたんだ。でも実際は、ゼロコンマで記録を叩かれいちいち走り方を批判されるような息苦しい場所だったんだ。おかしいな、こんなはずじゃなかったのにな。いつもそう思ってたけど、周囲の顔を見ると今更陸上を辞めたいとも言い出せなくて、それで結局そこに辿り着いたんだ」
「逃げたん……だ」
「ああ、そうさ。逃げただけだ。今もそう。気持ちがざわつくとすぐコレに手を伸ばす。吸ってて一度もうまいなんて思ったことなんかないのに、どうしても駄目なんだ。自分の気持ちを自分だけじゃ支えられなくて」
 溜息と共に煙を吐く。
 いつもはこの煙を目にするのも嫌がる湊は、今だけは神妙な面持ちだった。
「だからさ、あんな風に見つかったのはいいきっかけだったと思う。これまで期待させてた両親や教師には悪いけど、ここは自分の居場所じゃ無い、って思ってる人間がのさばるのも良くないしな」
「後悔は無かった?」
「最初は少しだけ。でも、あれから手のひらを返したように俺を見向きもしなくなった周囲を考えると、それもすぐに消えた。ちょっと人より速く走れるだけの俺をちやほやしていただけなんだって。俺だって調子に乗らなかったって言えば嘘になる。だからむしろ、これまでの自分が恥ずかしかったよ」
 でしょうね、と茶化すように言葉を切った湊は、いきなり俺の傍らにあるビニール袋へ手を伸ばした。そこには俺が間食に買っておいたポテトチップスが入っている。湊はそれを取り出すや否や、何のためらいも無く袋の口を空け、一掴み持って行った。
「豊もコンソメ派なんだ? そこは気が合いそう」
「やめてくれ。神谷に知られたら、今度は何されるか分かんねえってのに」
 湊の手から袋を取り返すと、俺も一つまみ口へ放り込んだ。
 本当の事を言えば、普段はあまりこういうものを口にはしない。嫌いという訳ではないが、わざわざ買ってまで食べるほど好きでもないのだ。今日は何となく買ってみただけで、その気まぐれは神谷との余計な火種になりそうである。
「豊には一つだけ言っておきたい事があります」
「なんだよ」
「それでも、今みたいになるのを選んだのは豊自身なんだからね。他にもっと解決法なんてあったはずなんだから、何でもかんでも周りとか陸上のせいにしないで」
「ああ、分かってるさ。これは不良少年の独り言で、別に陸上が悪いって訳じゃない。それに、」
 ふと向けた視線は思いもせず湊の視線と重なった。まっすぐと気後れもせず見つめる湊の視線は、俺とは対照的な性格を現しているかのように思えた。だからこそ、俺は自分が言わんとしている言葉へ更に確信が持てた。
「陸上、好きなんだろ?」
「そういうこと」
 湊も神谷と同じ人間だ。
 好きな陸上のため、プライドも投げ打って何とか追いすがろうとしている。俺はすぐ横にいる傍観者だ。傍観者が陸上の本質がどうとか語ってはいけない。