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 放課後を迎えると同時に、俺は下校の準備を手早く済ませてそそくさと学校を後にした。
 これから部活動に励む奴らもいれば、俺のように町へ繰り出す奴らもいる。ただ違うのは、俺は一人で、誰もつるむ相手が居ないという事ぐらいか。
 平日、これと言った趣味を持たない俺にとって、夕食時までの時間を如何に消費するかが悩みの種だった。必ず立ち寄るのはあの高台なのだけれど、さすがに暗くなるまで海を眺め続けるなんて、そういつも出来るようなものではない。気持ちがネガティブだったり物思いに耽りがちな心情の時ならともかく、極めて体調も良く不本意な形で信号待ちを余儀なくされるなど無かった今日のような日は、むしろじっとしていろという方が無理な話である。
 まずは本屋で雑誌を立ち読みしようと漁ってみたが、これと言った趣味を走る以外に持たない人間にとって本屋は意外と退屈な場所である。今週のテレビ番組をチェックするだけで終わってしまった。
 それからいつもの海沿いにあるコンビニへ向かった。結局、このプランにいつも収まる自分は何とも面白味の無い生活を送っているものだ、とつくづく思う。そうとは知りつつも、未だ本気で改善しようとも考えていないくせにだ。
 出入り口のドアに手をかけようと伸ばしたその時、先に中から二人組の女子が出てきて擦れ違った。二人ともうちの学校のジャージを着ている。どこかの運動部だろう。走り込みの途中で買い食いといった所か。
「あれ、絶対そうだって。さっき砂浜走ってたの」
「部活に来ないと思ったら、なんであんな事してるんだろ? 変な奴」
 一瞬、俺の事かと胸が嫌な高鳴りをした。しかし、冷静に考えれば今日は砂浜なんて走ってもいないし、靴に砂が入るから元々走りもしない。第一、今の台詞のやりとりは本人を前にして言ったらただの嫌みになる。
 さして気にも留めず、コンビニの中に入る。
 一番手前にある雑誌の棚を見て、テレビ番組のチェック程度ならコンビニで十分だったな、と舌打ちをし、週刊雑誌を一冊手に取った。それから一番奥の棚から気に入りのコールスローを取り、最後にレジで豚の串焼きを三本買った。
 それらがごちゃごちゃと入った袋をぶら下げ、俺は道路から砂浜へ小さな階段を伝って降りた。砂浜の真ん中を突っ切ると靴の中が砂だらけになってしまうため、俺はいつも岩場を伝って歩いていた。岩場にも窪みに風で巻き上げられた砂が詰まっているのだが、避けながらふらふらと歩くのもまた一興だと思っている。きっと、ドラマか映画か何かの役者でも意識してるせいだろう。
 高台の階段を登って行くに連れ、吹き付ける風が少しずつ冷たく強くなっていく感じがした。さすがに気候が変わるほど高い訳ではないのだけれど、高くなればなるほど障害物が無くなって風がストレートに吹いてくるからだろう。
 天辺の東屋の屋根が見え始めた頃、突然俺の足に温かいものが絡み付いてきた。ふと視線を落とすと、そこにはあの野良がじゃれ付いている姿があった。先週の時よりも心なしか毛並みが綺麗になっている。またどこかの家に転がり込んで洗って貰ったのだろう。こういう事だけは本当に呆れるほど達者な奴だ。
「なんだ、お前か。お前は肉の時は必ず来るな。それとも、待ち伏せしてるのか?」
 肩をすくめながら頭を上からわしゃわしゃと撫で回す。野良はどこか嬉しそうにじゃれついてくるものの、頭を触られる事だけはしきりに首を振って拒絶した。動物にそこまでの計算は無いとは思うのだが、こうやってじゃれつくのは俺からおこぼれを貰うためなのではないかと思ってしまう。
 俺は人に好かれるタイプではないけれど、少なくとも犬には好かれるようである。さすがに犬だって、嫌いな人間に対し生きるためだと割り切ってまで媚を売ったりはしないだろう。とりあえず、野良が俺に懐いて来るのは単純にエサが貰いやすいからだけではないと思っておこう。
 野良を足にじゃれつかせながら高台の天辺まで登り切る。
 いつも俺が腰を落ち着けている東屋、いつも無人であるはずのそこには既に人影があった。
「ああ、お前か」
 東屋の前には、大きめのタオルを首にかけた湊が立っていた。既に幾らか走りこんだのか、スポーツドリンクを飲みつつタオルでしきりに顔や首筋を拭っている。汗で髪がばらばらにはねているにも拘わらず、ごしごしとタオルでかき回している辺りが湊らしい。
「相変わらず走ってるみたいだな。調子はどうだ?」
「上々よ、センセ」
「まだ何も教えて無いんだけどな。それとも牽制のつもりか?」
 東屋に入りいつもの席に腰を落ち着けると、すかさず野良は俺のすぐ目の前にお座りの姿勢で鎮座した。俺は豚の串焼きを一本取り出すと、頭の一塊だけ指で抜き取って野良に差し出してやる。野良はすかさずそれを口の中に捕らえると、何とも嬉しそうな表情でくちゃくちゃ噛み始めた。その屈託の無い姿に思わずちょっかいを出したくなり、耳を引っ張ってみた。
「とりあえず、最初はフォーム見てやるから。ちょっとそこで足踏みしてみろよ」
「オッケー。分かった」
 湊は意外と素直に俺の指示に従い、東屋のすぐ手前で走っている時のような姿勢で足踏みをして見せた。
 こっちの指示に対し、文句一つ言わずに従うなんて。最初、俺に走り方を習おうだなんて性質の悪い冗談か、若しくは自分のとんだ聞き違いかと思っていたのだが。こう目の前で従われてしまうと、何とも奇妙な状況になってしまったものだと実感を深める。
「なんか随分と左右のバランスが悪いな。体の軸がずれてる。自分の体が真っ直ぐ地面に串刺しになってるようなイメージ。右足と左足は同じ動きをしなきゃ駄目だ」
「どうすれば直るの?」
「姿見でチェックするのがベストだ。自分の体の動きは自分では分かりにくいからな。うちに鏡ぐらいあるだろ?」
 思ったよりも湊の出来は悪いものではなかった。正直それほど期待はしていなかったのだが、可もなく不可もなくある程度の基礎は出来ているような雰囲気があった。ただ一つ違和感を感じるのは走る時のフォームだ。湊が基礎体力は出来ているのはその走り方から推測はついたけれど、走っている時の姿勢、特に下半身のバランスが不自然なほどおかしいのが目に付く。素人だからというレベルではない。わざとやっているのか、はたまた怪我でもしているのかと思えるほど、重心が目に見えて安定していない走りなのだ。
 まあ、素人が独学で練習を続けたせいで誤ったフォームを体に覚え込ませてしまうのは良くある事だ。こいつもフォームに不相応な体力もそのせいだろう。最初の時に自分を素人ではないと評していたがそういう経緯があっての事だろう。大体、走る事に慣れた素人はそんな考えに辿り着きがちだ。
「後は何かある?」
「呼吸はどうしてる?」
「普通に吸って吐いてるけど」
「じゃあ、今度から呼吸のリズムも整えろ。二回吸って二回吐く、もしくは二回吸って一回吐く呼吸だ。出来れば腹式呼吸が良い。息を吸う時に腹を膨らませる呼吸法だ」
「あ、それ聞いた事ある」
「なら話は早いな。腹式呼吸は肺を効率的に使えるから、普段から意識しておいた方が良いぞ。慣れるまで辛いかもしれないが、空気を多く吸える分、スタミナは持続する」
 湊は俺に言われた通りにフォームを補正し呼吸のリズムを刻みながら足踏みを繰り返して体に馴染ませる。呼吸の方はさすがに間も無く自分のものとしたようだが、どうしてもフォームのばらつきだけは直らないようである。多分、今自分がどうフォームが歪んでいるのか分からないのだろう。俺が手取り足取り悪い部分を細かく指摘してやってもいいかもしれないが、そこまで情熱を注いでいる訳でもないし、本人が鏡を見て直した方が気づき易いだろう。要はイメージの問題なのだ。正しいフォームがイメージ出来なければ、どれだけ注意したってすぐに元に戻ってしまう。
 考えてみれば、今湊に教えたのはどれも陸上界に入ってから習ったものばかりだ。
 あの頃に戻ろうにも、既に体に染み付いてしまったそれらを忘れる事は出来ない。合理的な走りには、俺にとって苦しい思い出ばかりが残っている。それを知りながらあえて湊に教えようというのだろうか。いや、たとえこの事を理由にしても、湊はきっと納得はしないだろうけれど。
「さて、またちょっと一っ走りしてくるね。まだ帰らないでよ」
「来たばっかりだぞ。まだしばらくいるさ。でも日が暮れる前に帰って来いよ」
「そこまで遅くありません」
 そう口を尖らせ、湊はぎこちなさの残るフォームのまま走り去って行った。
 どこまで走りに行くのかは知らないが、戻って来る頃には幾らかマシになっているだろう。なっていなかったら、それはそれで少なくとも湊が走りの天才ではないという事が分かる。どうせ、いついつまでに仕上げなければ、なんて期限が区切られている訳でもないのだ。致命的なほどの鈍足でもじっくり時間をかければ多少はマシになるだろう。もっとも、完成するまで付き合うつもりはさらさら無いが。
 ポケットからタバコとライターを取り出し、一本くわえて火を点ける。
 煙を空に向かって吐きながら、ふと走り際の湊の表情をそこへ思い出した。
 走る事が楽しくなり始めた、意欲に満ち満ちた表情。体がどれだけ疲れても、走る意欲だけで走る事が出来る、本当にただ純粋な気持ちだけで走る事が許されているからこそ出来る顔だ。
 そういえば、俺にもそんな頃があったっけ。いつからだろうな、走る事に色んなしがらみが出来たのは。
 なんとなく気持ちが冷めていく自分を感じた。
 どうしてわざわざ湊に走りなんて教えてるのか。さっさとやめてしまえばいいものを。どうせ本気でやってる訳じゃないんだから。
 けれど、それでも俺は教える事を放棄しようという気にはならなかった。後ろめたさを感じるのが怖いのか、単純に一度交わした約束に対する責任感なのか。ただ、乗りかかっておきながら今更出来ないと言うのも人としてどうかと思うのだ。
 多分、俺は湊に嫉妬しているんだと思う。あんな顔で走れる事にだ。
「ん?」
 気がつくと、野良が不思議そうな顔で俺を覗き込んでいた。
「なんだよ。別に羨ましくなんかないぞ」
 野良の眉間を指先でこすりつけると、くすぐったそうに首を振りながら前足を伸ばしてきた。