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 それは鼓膜が張り裂ける轟音と共に、私の体に降り立った。いや、降り立つという表現は少々違っている。私に降りたのではなく、私の内側から湧き起こったものなのだから。
 ふむ……以前よりも安定しているか。
 まずは右腕だけに具現化した雷を見下ろす。雷撃は青白い束が幾つにも折り合わさり、結合と分裂を繰り返しながら右腕の周囲を漂っている。それは極めて不安定な動作で、一時でも気を抜けば制御から逃れて暴走を始めそうな荒々しい力に満ちている。しかし裏を返せば、それだけ凄まじい破壊力を持っている事の現われでもある。
「―――!?」
 不意に私が見せた雷撃魔術に、まさにこちらへ向かってくる最中だった彼女は驚きにその目を大きく見開く。しかし、それでも足を止めない。私が魔術を放つよりも先にたたみかけようという心積もりのようだ。
 いい判断だ。だが、
「『束縛の鎖は迸る雷光を絡め取れず』」
 私はイメージを作るための韻を踏みながら全身を循環する魔力を雷光とし、一気に放出した。
 魔術で最も大事な要素であるイメージング。これの如何によって魔術の出来が大きく左右されるのだが、熟練した魔術師は魔術を行使する際にいちいち韻を踏む事は無い。イメージさえ出来れば、必ずしも踏む必要はないからだ。私も普段は滅多に韻を踏む事はないのだが、雷撃魔術だけは別だ。重ねて言うが、雷撃魔術は水魔術よりも更に上級に位置する高等魔術。これを使いこなすには魔術師としての資質よりも技能そのものが要求される。まだまだものにはしていない私は、雷撃魔術の基本レベルを行使するにも韻を踏まなくては制御すらままならないのだ。
 バァン!
 まるで空気が砕けたかのような破砕音が周囲の可聴領域を占める。同時に、私の視界は暴力的なほど目映い光に包まれた。
「くっ!」
 時間にして、本当に一瞬の放電だった。しかし、私の体の全包囲から放たれた雷撃は彼女の槍を弾くだけでなく、その神経に甚大な苦痛をもたらせて弾き飛ばした。それを確認する間もなく、私は雷撃を抑えるイメージを作った。魔術は放出するよりも制限する方が難しいのだ。ダムを決壊させる事は簡単だが、ダム自体を建設するのは難しいのと同じ理屈である。
 雷撃はやや抵抗を示したものの、何とか私の制御下に入ってくれた。たったこれだけの事で、凄まじい攻撃力、そして困難を極める制御。やはりそう一筋縄で行くものではない事を再認識させられる。
「これで終わりではないぞ」
 私はすぐに魔力を練り直し、イメージを与えて変質させる。与えたイメージは、先ほどと同じ無数に束なる蛇の群。
「『闇を切り裂く光の毒牙は連なり束なり蠢く』」
 ばしゅ、と火薬が燃える時に似た音を立てながら、次々と雷の蛇が体勢を整えきれていない彼女へ牙をむいて襲い掛かる。
 四方から絶妙なタイミングで仕掛けるその連繋は、さながら狼の狩りである。しかし、その攻撃を前にしても彼女は更に上を行く絶妙さでかわし、そして撃ち落していく。その槍さばきは、まるで次に襲い掛かる蛇があらかじめ分かっているとしか思えないほどの卓越したものだ。伊達に神器を所有している訳ではないにしても、これだけの技を持つ人間は世界でもそうはいないかもしれない。
「粘るな」
 そう、私は賞賛と皮肉の半々で彼女に吐き捨てる。
「お忘れですか? 私にはあなたの攻撃は一切通用しません」
 強気な言葉と共に槍を構え直す。だが、言葉とは裏腹に肩が大きく上下している。それは彼女の呼吸が乱れていることの証である。
 強情なものだな。
 何をそう固執するのだろう? 素直に負けを認めればいいものを。彼女が回避行動を補助する神器を所有している事は知っているが、それも体が満足に動く内にしか役に立たない。スタミナの底が見えてくるに連れて動作も精細さを欠き、やがては私の魔術によって断たれる。それが分からぬ訳でもあるまいに。どうして無駄と分かっている抵抗を続けるのだろうか。
 まあ、いい。この苛立ちも、焦燥感も、跡形もなく消し去ってしまえばすぐに消えてくれるはずだ。
 苛立ち?
 焦燥感?
 ……馬鹿な。一体、何に対してだ?
 とぼけるな。
 そう、理性の冷たい声が突き刺さる。分かっている。しかし、理屈から切り離された本能が拒絶しているのだ。それから理性の目を背けさせている上で。
 ……黙れ。
 私は彼女を殺す。それだけだ。
 ゆっくりと昂ぶる気持ちを沈めながら、冷静に意識して努めつつ魔素を吸い込み魔力を体内に循環させる。魔術を行使する際、最も留意しなくていけないのは精神の平静さだ。魔素には術者の理性を侵蝕する副作用がある。魔術は無限に行使出来はするが、コントロールの限界は存在する。魔術は行使すればするほど理性を失っていく。そして本能が理性を凌駕する瞬間が魔術のコントロール限界なのだ。それ以降も魔術を行使し続ければ魔術師は理性による自律性を失い、ただ欲望のままに魔術を行使し続ける暴走状態に陥る。やがて許容量を超えた魔力が破裂して魔術師は文字通り消滅する。
 冷静さを失っている魔術師は、その理性臨界点も格段に下がる。それはつまり、同じ魔術を使ったとしてもより暴走しやすいという事だ。冷静さを失うということは、限りある理性を自ら削るという事に他ならないのだから。
 特殊な呼吸法で取り込まれる魔素が魔力となって体内を循環する冷たい感触。自らの理性もそうあるように、気持ちをコントロールしていく。
 と。
『神器・計都の解析が終了しました』
 まさに攻撃に移ろうとしたその刹那、Mの書が遊回をやめて無機的な声で知らせてくる。
「続けろ」
 彼女への警戒を続けながらも、そうMの書に促す。
『計都の能力は、魔学と錬金術の反応により波長の長い可視光線状の擬態剣を練成するものです。擬態剣の能力は使用者の精神力に比例します。発動時、最も強烈な感情をサンプリングし、動力部に精神エネルギーを取り込む仕組みになっています。一方、実用レベルに達する感情は喜怒哀楽の内の”怒”のみである可能性が高いと推測されます』
 つまり、怒れば怒るほど強くなる神器という訳、か……。
 今のあいつには最適だろうが、使えぬ神器だ。怒りに振り回される事でしか実用性のない神器など、一体どう使えというのだ。怒りは冷静な判断力を失わせ、相手の稚拙な策にすらはまりやすくなる。まあ、おそらくは怒りによって強い力を発揮するという能力自体は別の意味があるのだろう。己の精神状態を計るため、もしくは喜怒哀楽のいづれにも属さぬ感情を研き高めるなどだ。少なくとも、今の彼はその愚かな使い方をしている。力そのものは驚異的だが、恐れるに足らない。
 私はMの書を待機させると、再びイメージを描き始める。雷撃魔術はその破壊力の反面、反動も理性の侵蝕も並ではない。長期戦に持ち込んではこちらの不利だ。
 魔力にイメージを与えて変質、そして具現化する。
「『目覚めるがいい、我が僕。吠えるがいい、冥府の使徒。屠るがいい、満たされぬ者。尽きざる飢餓の束縛を、今こそ解きて放て』」
 頭上に集まっていく雷の束が俄かに一つの形を作り出していく。
 轟鳴。
 これほど凄まじい自己主張の出来る存在は、それだけで周囲の存在の脅威となりうる。その身に圧倒的な力と恐怖をまとって。
 それは、寄り集まった雷によって生み出された一匹の和竜。
 彼女はただ唖然と目の前の光景を見ていた。その強情な瞳にも、僅かながらの絶望の色が見え隠れる。その表情が、私は愉快で愉快で仕方なかった。如何なる挑発にも屈しなかった彼女の意思を打ち砕いたという錯覚を味わえるからだ。
「国を救うだ、なんだ言っているが。現実はこんなものだ。この世で駆逐されていくのは正義でも悪でもない。ただの弱者だ」
 正しい意思が必ず勝つのではない。勝った意思が正しいものになるのだ。正義とは力と同義ではないが、力とは正義の同義である。この世の如何なる法律も道徳も、全ては力のあるものによって作り出された、いわば我侭なのだ。その基準に合わせぬ者を罰していけば、自然とその我侭も正論となり人々の価値観もいつしか塗り替えられてそれが正しいものになる。
 もし、この世の何かを変えたいと願うならば。最も大事なのは倫理的価値観に添った人道的な主張ではなく、純粋な力だ。兵力、知略、財力、単に力と言っても実にさまざまあるが、そのどれかが一定の影響力を及ぼせるほどの強さがあるのであればそれだけで自らの意思を世に反映させることが出来る。裏を返せば、それに恵まれぬ者は何をわめこうともあがこうとも、自らを世に主張は出来ない。強いて言えば、社会という閉鎖的空間において自分の居場所すらも確立する事が出来ないのだ。
 彼女は言った。私はこの国を救いたいと。その過程はともかくとして。それがたとえ真に正しい行動だとしてもだ。こうして私という存在に志半ばにして力尽きさせられる現実は回避する事は出来ない。力がなければ、たとえ正しい意思を貫き通そうとしていたとしても簡単に駆逐されてしまうのだ。
「私は、あなたが羨ましいです」
 ふと、その時。不意に彼女が意外な言葉を口走った。
「どういう意味だ?」
「それほどの力があれば、今よりも多くの人間が救済できたはずですから」
 何を言うかと思えば。こんどは自分よりも優れた人間への露骨な羨望か? あれほど存在が許せぬなどと息巻いていた人間はどこの誰だというのだ。
 今更何を言う? 気がつくと、ぎりっ、と奥歯を噛み締めていた。
「そもそも、貴様は一体誰を救済したという? 国に要らぬ混乱を招き、政治不安を煽っただけではないか」
 弱き人を救いたい。平和な国を作りたい。実現できるならば、実に立派な志だ。しかし、それとは裏腹に行動が伴っていない。自らの目的のために反政府組織を作るなど本末転倒だ。国とは、ある程度の安定した生活を国民に支給するために存在する人類を種類別に区分けする大きな単位の一つだ。国を倒すということは、安定した生活の供給を断つ事。これは取って代わった新しい指導者がどれだけ有能でも一朝一夕で供給し直す事は出来ない。早い話、彼女らの行為は単なる生活不安を煽る愚かな行為でしかないのだ。
「……結果的にはそうでしょうね。私の力ではこれが限界のようです」
 何が結果的だ。たとえ成功した所で、混乱こそ起こりはすれ秩序など到底得られるはずもないのに。そこまで思慮が回らぬはずがない。単に目をそらしているだけだろうが。
 そう思う反面、その彼女の表情から目が離せない。無理に剥がそうとしても、逆に体が拒否を示してしまう。信じられない事に。
「ご存知ですか? 今、この国は一見裕福に見えながらも、実は貧富の差が非常に激しいのです」
 ふとその言葉に、私は数日前に見た光景を思い出した。
 私がふとした気まぐれで恵んだ金がきっかけで、どこぞの暴徒に撲殺された兄妹。
 関係があるのか? 殺されるヤツは殺される。ただ生き残るだけの力がなかっただけの話だ。理不尽な政治体制も、それは彼らが支配者たる力を与えられているからに過ぎないだけのこと。それを覆せぬ弱者は生活を束縛されて当然。それが嫌ならば力ずくでも支配体制を破壊してしまえばいい。そう、まさに彼女がしているように。矛盾した言い草ではあるが。
「一部の支配階級によって敷かれる国の政策を変える事が出来れば、きっと誰もが不自由なく暮らせる生活が実現できる。それだけを信じてここまでやってきたのですけれどね」
 それも、ここまでのようです。
 彼女はそう言い含めるかのように、口をつぐんだ。
 そして槍を構え直す。緩やかな霞下段。微塵も気負う様子のない、実にリラックスした姿だ。これが覚悟を決めた人間の姿なのだろうか。その奇妙な余裕とも思える姿に、言い知れぬ何か凄みのようなものを感じてしまう。
「やる気なのか?」
「自分の意志は曲げたくありませんから。意思に殉ずるならば、それも本望です。悔やむべきは、結局誰一人として救えなかった事ですが」
 意思に殉ずる……?
 くだらない!
「そんなに……そんなにその意思が大切か!? 命を投げ出すよりも!」
 湧き起こる強いその感情を、私は思わず口にせずにはいられなかった。そんなに感情的になるなんて私らしくもない。そう思いながらも、昂ぶる自分を抑える事ができない。
 意思に殉ずるなど、一体どういう了見だ? 死がつきまとう意思など捨ててしまえばいい。人は時の流れと等しく日々変化していかなければならない。なのに、あえて死というリスクを背負いながら一つの価値観に固執するのはどう考えても異常だ。
 第三者のために命を投げ出してどうなるというのだ。よしんばそれによって誰かが救われたとしても、それは果たしていつまで感謝の念が続くだろうか。死んだ人間など急速的に記憶から薄れていくもの。命を投げた価値が数ヶ月の英雄では割に合わなさ過ぎる。それに、自分の人生と他人の人生とを天秤にかけて、一体どちらが重く傾くだろうか? 他人を思いやるという行為は、自らにはいて捨てるほどの余裕がある場合にやる事なのだ。根を詰めてやっては、それは単なる身の切り売りでしかないのだから。
 血を分けた家族ならばともかく、見ず知らずの他人の、しかも不特定多数のために命を捨てるなんて。私にはまるで理解が不能だ。
 しかし、
「はい」
 そう答える彼女の表情は、どこか晴れやかな笑みすら浮かんでいた。
 彼女の笑みは、ある種の恐怖を私に抱かせた。これまであらゆる分野において人並以上の理解を発揮してきた私ですら、その表情の意味する所が理解出来ないのだ。理解が出来ない故に私は恐怖する。理解し正確に把握する事が自らの余裕を生み出していた。分からないものを恐れるのは人間の本能だ。それは、いざその未知の存在に襲われた際、どう対処したらいいのか分からないからだ。人間にとって最初の恐怖の対象となったのは、夜の帳や暗闇だった。その闇の中には一体何が潜んでいるのか分からないからである。だから人は火を持って闇を退けた。火が闇を退ける事を見つけたからである。
 今の私は、丁度その闇の中に足を踏み入れてしまったかのような恐怖を憶えていた。彼女の笑みの中に、何が潜んでいるのか分からないからだ。
 どうして一つの意思に殉ぜられる? しかも、見ず知らずで不特定多数の人間のために。方法は間違っていたかもしれないが、その意思はまぎれもなく本物のようだ。どうして人のために死ねる? 人の行動は全て自らのためのもの。自身の生存に起因するものなのだ。他者の援助は、自らに余裕がある者だけの特権。にもかかわらず、自らの死がすぐ後ろまでつきまとうリスクを背負ってまで、どうして彼女は―――。
 理解出来ない。
「……まだ、名前を聞いていなかったな。私はヴァルマ=ルグスだ」
「私はフレイア=クロサキです」
 こんな状況でありながら、驚くほど涼しげなその表情。
 それは信じられないと言うよりも、信じたくなかった。
 私達はこれまで、人間の本質というものをまざまざと見せ付けられながら生きてきた。どれだけ性善ぶっても、所詮は己の欲望に生きる業を捨てられない種。それがずっと人間だと、私は思っていた。
 なのに。
 まさか人のために、しかも見ず知らずの人間のために死ねる人間がいるなんて。
 そういえば、あいつらもそうだったな。命がけで、暴走しかけた私を止めようとした老婆心旺盛な連中。思い出しかけ、そしてやめた。それ以上続けると心がざわつくのだ。
 そして。
 どちらともなく、攻撃を仕掛けた。まるで最後の言葉を互いとかわすかのように。
「行け」
 雷の和竜は猛りを露にしながら巨大な口を開けて彼女に襲い掛かる。だが、それを前にしても彼女は身じろぎ一つせず、逆に猛然と踏み込んできた。
 瞬間―――、
 バァンッ!
 辺りを包み込む、轟音と空気を焦がすイオン臭。和竜が弾けたそこはもうもうと汚れた色の煙が立ち込めている。直撃だった。雷竜と接触するほんの一瞬前まで見ていたが、彼女は一切回避も防御もしなかった。ただ己の力を前進する事のみに集中させていたのだ。あれではきっと、文字通り跡形もなく消し飛んでしまったに―――
「リャアッ!」
 刹那、立ち込める煙を突き破り、一つの白い影が私に向かってくる。彼女―――フレイアだ。
 まるで無警戒だった私は、彼女の繰り出したその一撃をまともに腹に受けた。自分でも驚くほど注意力が散漫になってしまっていた。彼女の存在に気がついた時には、既に腹を撃たれていた。どうしてこれほど気抜けしていたのだろうか。それでも、不思議と後悔も焦りもなく、心は小川の流れのように澄んでいた。
 腹部を突き抜けた衝撃に二、三歩ほど後ずさり、そして崩れたバランスを立て直す。
 目の前ではフレイアの鋭い眼差しがこちらを射抜くように見ていた。私はそんな彼女の持つ槍に、そっと手を伸ばして握り締める。
「悪いな。この程度では傷もつかない」
 槍を彼女へ押し戻し、腹部にめり込みかけた穂先を離す。服こそ貫かれていたが、そこから先は傷一つ負っていない。ただ衝撃だけが背中へと突き抜けただけだ。全て私の体に寄生する神器、魔宝珠の恩恵によるものである。
 彼女はそっと槍を戻し、そして今度は構えず穂先を降ろした。
 戦意喪失の意思表示。
 けれど、彼女の表情は先ほどと同じで微かな笑みが浮かんでいた。その表情からは、これまでの自分の歩んできた道程へ一片の後悔も感じていない、そんな達成感のような色すら感じられた。
 己の死を甘受している。
 死とはこの世で最も恐ろしい存在であり、決して離れずつきまとい続けるもう一つ影。人は常に死への恐怖と戦いながら人生という長い道を歩み続ける。死の恐怖があるからこそ、人は今日の繁栄を遂げたと言っても過言ではない。そんな死を、逃げるのではなくあえて受け止める事の出来る心境とは、人にこんな表情をさせるのだろうか?
 分からない。
 少なくとも、ただ何よりも生きるために今日まで生きてきた私には。
「……終わりだ」