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その光景は、石を投げつけられた窓ガラスが割れていく様に似ていた。
神器によって捻じ曲げられた空間の法則が瞬く間にあるべき様に書き戻されていく。その捻じ曲げられた法則によって確立されていた暗闇は存在を保つ事が出来なくなり、保てなくなった個所から順に亀裂が生じ始める。差し込んできたその光の眩しさに、私はそっと目を細める。
真っ暗な空間に光の亀裂が無数に走っている。煌々たるその光景は、まさに神器と言う超常的な力を発揮するものがあればこそ起こりうるもの。長い一生の間にも、そう何度もお目にかかることの出来ないものだ。
ぴしぴしと今にも音を立てそうなほど、加速的に伸びていく光の亀裂。そして間もなくその亀裂が闇を完全に凌駕する。
「あ……」
三者三様、一体何が起こったのか分からず、ただ気道の奥から呼気だけを漏らしたかのような声がぽつりと響く。
「さて、もはや羅睺の力は通用しないぞ」
この状況を把握しているのは、場の六人の中でも私だけだった。エルとシルは、それぞれが相手にする小太刀使い同様に一時攻撃の手を止めているが、彼女ら三人とは違いいたって平静の表情で周囲を確認している。
そして、ようやく驚きから理性が開放される頃。思い出したように小太刀使い達はその場から飛び退いて彼女の両脇に陣を移す。それに続き、エルとシルもゆっくりと私の傍へ戻ってくる。
「神器の力に頼り過ぎたな。絶対に破られぬ保証などあるまいに。まあ、そろそろ潮時だ」
「確かに……羅睺の力を破られるとは思ってもいませんでした。いえ、破るだけの力を持つあなたに出遭ってしまった事が不運だったのです。しかし、まだ決着がついた訳ではありませんよ」
「実力の差が分からぬ訳でもあるまい? 何故、そうも虚勢を張るのだ?」
「あなたには理解の出来ない事です。たとえ一生かかったとしても」
一生、か。
大方、今頃決死の戦いを聖都騎士団に挑んでいる部下達への示しをつけるため、とか言った所だろうか。そんな事のために命を無駄にするとは。なんとも酔狂な事だ。死に行く人間にこれまでの信頼に対する誠意を見せる必要性など、果たして本当にあるだろうか? 人は生きてこそ意味のある生物、死んで行く人間などには一片の価値もない。誠意は生きている人間にこそ見せるものだ。人によっては、聖都騎士団に果敢にも戦いを挑んで戦死することは非常に勇ましい行動だ、と評するかもしれないが、それは単に弱者が理想という愚かしい空想を抱いて死んだだけの事。称賛どころか、風評にすら値したい些末事だ。
まったくもって理解が出来ない。私には、ただ死にたがっているようにしか思えん。まあ、どうでもいい事だ。彼女らの事情など知った事ではない。
「死ぬまで戦うと、そういう所存として受け取って構わないのだな?」
「今更言うまでもないでしょう。私達はこの国のために戦っているのですから」
またそれだ。
世のため、人のため、国のため。
聞いているだけで吐き気がする。くだらない。実にくだらない。政治の貧困も、戦争の飢餓も、人倫の腐敗も、この世の悪徳全てが一部の支配階級に原因がある訳ではない。人間そのものが、種として堕落しきっているのだ。人を治める頭を幾ら挿げ替えようとも、何も変わりはしない。弱い人間は死に、強い人間だけが生き残る。それが絶対の摂理であり、変えようのない現実。如何に才覚に恵まれた人間であろうとも、宗教にある理想論の一つ『人類皆平等』を実現する事は出来ない。
そんな見果てぬ夢のため、大勢の人間の人生を振り回し使い捨てた彼女達。人の身には分不相応なそれが、努力すればどうにかなるとでも本気で思っているのか? 命を賭ければ実現できると? もしもそうならば、救いようの無い痴れ者だ。
「貴様らには分からぬ」
「我らの大望は」
続く双子の小太刀使い。腰に携えた小太刀の柄に手を触れ、露骨に殺気を向けながらそう気圧し掛けて来る。しかし、その程度の事でおたおたする私ではない。なおも一層、三人の心を揺さ振りかける。
「だからなんだと言うのだ? 貴様らの理屈など、はなから理解する気はないのだがね。まあいい。貴様らに『平和な国』なるものが本当に作れるかどうかの能力があるかどうかはさておき。この状況を如何にするつもりだ? 言っておくが、人間の悪徳というものは私達よりも遥かに高い壁なのだぞ? どうやって乗り越えるつもりだ?」
「自分の力を信じて挑むだけです。信じれば叶う、と」
……正気か?
人心を操るという事は、並大抵の事では成し得ぬ非常に難解なものだ。もし、争い、貧富格差、人種差別などのない国を作るとしたら、人心を操るということを前提とした大掛かりな意識改革は必要不可欠だ。幾ら地位や名声、権威のある人間であろうとも、「今後はみんな平等に」などと訴え掛けた所で人々にとっては野を吹く空風とさして変わりはない。意識改革とは、そんな安易な言葉だけでは成し得られるものではない。人の心に深く刻み付ける、具体的な何かが必ず必要なのだ。
それらの、おそらく私達を倒すよりも困難なプロセスを、彼女はたった一言、精神論で解決すると言い放った。努力だけでどうにかなるほど、国政は容易なものではない。かつて名君と謳われた人間は皆、華やかな人生の裏側で並々ならぬ努力を積んだのも確かだが、それ以上に才能と環境に生まれながら恵まれていた。溢れる才能とたゆまぬ努力。国とはその両者があってようやく比較的安定して治められるような化物なのだ。才覚も無く、現実を見据えない努力にかけた性格で、果たして三人が掲げるような歴史的快挙を成せるだろうか? 少なくとも私には100%不可能に思える。
だが、それ以上に私には疑問に思う事があった。それは、
「解せんな。そこまでして国を獲りたいのか? 政権の奪取など大したリターンもなく、ただただ無数のリスクが付きまとうだけだ。それを押してでも強行するほど大事な事なのか?」
彼女とて、自分がそこまでの器ではない事ぐらい分かっているはずだ。それだけの偉業を成し遂げるには、たった数千の組織をまとめあげる程度の統率力では話にならない。ならば、それを自覚しているにも関わらず強行する理由だ。現行の政府を敵に回すのだ。失敗は自らの死に直結する。あえて危険に飛び込まざるを得なかった理由、政権の奪取に拘る理由が私には分からないのだ。
そんな私の疑問を知ってか知らずか、彼女はまるで打てば鳴る打楽器のように即座に私の問いに答える。
「私はただ、苦しむ人間を少しでも減らしたいだけです。現行の統治者ではそれが不可能なのです。下の意見が受け入れられないのであれば、私達が上に立つ他ありません」
民主主義政策を執る国家は数多くいるが、本当に国民の意思が反映された政策を実現できている国は皆無に等しい。政治家のエリート意識が国民の意見を受け入れられにくい体制を築いてしまった事もあるが、それ以上に民主主義政策というものは少数派の意見が淘汰されやすいのだ。その少数派とは、なんてことは無い、その民主主義社会の底辺に生きる社会的弱者だ。
確かにその意見を政策に反映できれば、真の民主主義政治は実現するであろうが、現実的に不可能だ。社会的弱者と、その周囲の意見とは相反するものである場合が多い。うまく折り合いをつけようとした所で双方が中途半端になるだけだ。つまりは民主主義政治ほど劣悪な政治体制はない。
話を戻そう。とにかく全ての意見を満遍なく政治に取り込むという事はそれだけ困難な事なのだ。生半可な才覚ではおおよそ不可能。それこそ史実と創作のグレーゾーンに位置する、とある戦国伝奇に登場する鬼人と畏敬された軍師ほどの才覚でなければ。
いや、そんな理屈はどうでもいい。
何よりも私の心をざわつかせ、苛立ちの波を立てたもの。それは、彼女の偽善にしか聞こえない無益な弱者保護の意思だ。
「貴様らは自らを救世主と勘違いしているようだが、所詮は治安を乱す暴徒とさして変わらない。政府にとっても、そして貴様らが救いたいという民草にとってもな」
どんなに崇高な意思を掲げていたとしても。どれだけ曇りの無い澄んだ意思を胸に抱き遵守していたとしても。所詮、テロはテロ。反政府行動というものは、国民の生活を壊す以外に他ないのだ。そんなものはどうなろうと、私達の生活が壊されない限りは興味はないが、それを正当化する考え方に関しては黙認するのは面白くない。あたかも聖人君主を気取っているかのようで、非常に腹立だしいのだ。
―――と。
「……なんだと?」
「……貴様、侮辱する気か?」
二人の放っていた殺気が俄かに膨れ上がり、そしてその矛先を私へ一身に向けてくる。何か鋭いものに体を射貫かれたような錯覚を覚えるも、すぐに精神力でそれらを取り払う。彼らの殺気は質量を感じさせるほど色濃いものだったが、我を忘れて取り乱すほどのものでもない。もっとも、相手の殺気で我を忘れてしまうような人間は元々こういった世界に足を踏み入れるべきではないが。
「侮辱ではない。事実を客観的に述べただけだ。貴様らは壮大な勘違いを二つしている。たとえ政権が善意の人間に移ろうとも、必ず虐げるものと虐げられるものはなくならない事。そして、貴様らがやろうとしている弱者の救済とは一方的な押し売りだ。まるで性質の悪い宗教だな」
真剣な眼差しの彼らとは対照的に、私は嘲笑の色をありありと意図的に浮かべて相対した。その煽りは一瞬にして彼らの闘志に火をつける。
「おのれ、言わせておけば!」
その時。
突然、私の挑発に我を失ったのだろうか、小太刀使いの片割れが踏み込んできた。怒りの余り、怒りの表情を浮かべることすら忘れた無表情を顔に貼り付け、小太刀を抜き放ちながら真っ直ぐ私を目指す。
「ムギン!」
まるで金属を擦り合わせたかのような、悲鳴に近い声で制止を叫ぶ声。しかし怒りで染まった彼の耳にその言葉は届かない。
私は魔力を集中させてはおらず、まるで無防備な状態だった。ここから障壁を張るにしても、彼の踏み込みの方が遥かに先だろう。つまりこのままでは、私は彼の小太刀に身を晒されるという事になる。
だが。
ピシッ。
ピシッ。
空気を切り裂く鋭い二つの音。
「がっ……!?」
刹那、踏み込んできた小太刀使いはがくっと床に膝をついた。彼の胸には思い出したように赤く大きな十字の傷が浮かび上がってきた。そしてふと緊張が途切れるように、中から真っ赤な血液が溢れ出してくる。
「この程度で国にケンカを売るなんてね」
「無謀にもほどがありますね」
かちん、と鍔を同時に鳴らすエルとシル。そう、彼を迎撃したのは他ならぬこの二人なのだ。私は初めから防御をするつもりなどなかった。それよりも、二人の神速の如き抜刀が私に攻撃を仕掛けるよりも先に彼を仕留める事を分かっていたからなのだ。
「ムギン……」
膠着した場のためか、駆け寄ろうにも駆け寄れず、ただ茫然と膝をついて座り尽くす彼の背に声を投げかける。彼はその言葉に応えるかのように首を僅かに背後へ向けた。
「姉上……最後までお役に立てなくて申し訳ありません……」
そして、糸の切れたマリオネットのように床へ崩れ落ちる。
あっけないものだ。
そう私は苦笑した。これが、幾ら暗闇に身を紛れさせていたとは言え、私に気取られる事なく急所を狙ってきた二人組みの片割れだとは。自らの鈍さに苦笑せずにはいられない。
「さて、これで三対二だな」
悲しみを無理に押し殺す表情の二人。しかし、彼女の視線がジロリと鋭く私をねめつけてきた。
「あなた方は、人の死には何の感慨も抱けないのですね」
「どうでもいい、赤の他人だからな。それとも悲しんで欲しいのか?」
「自業自得ですよ」
「自業自得ですよ」
第一、仕掛けてきたのは向こうの方だ。重ねて言えば、この戦いの口火を先に切ったのも向こう側だ。私たちはある一定の節度を守っていれば、正当な防衛権の主張すら出来る。彼が斬られた責任を私達に求めるのはとんだ見当違いだ。
「まだ退く気にはならないか? はっきり言わせてもらうが、度重なる愚にもつかない議論のせいでいささか興醒めしてきた。このまま逃げ帰るのであれば見逃すかも知れないぞ」
焦っている。
ふと私はそんな自分の心境に気がついた。邪魔に思うならば、有無を言わさず殺してしまえばいい。自分達の障害を取り除く事に理由はいらないはず。相手の実力の程も知った。あとは軽くひねってやればいいものを、何故またもや議論の余地を与えるのだろうか?
私はいつしか、彼女を倒すのではなく論破し、精神的に屈服させる事に固執していた。危険な、触れてはいけないモノ。それを彼女が持っているような気がしたのだ。それを何らかの形で否定し、頭の片隅に知識として蓄える必要性を排除しなければならなくて仕方がなかった。その何かを本能的に恐れている。認めたくは無いが、直視せざるを得ない客観的事実―――。
「私は、自らの意思は決して曲げません。如何なる障害に突き当たっても貫き通す事。それが力なのですから」
そして。
返って来た彼女の返答は、やはり私の危惧……いや、予想した通りのものだった。
笑止な。
なんとものんびりとした力があったものだ。力とは、人間が生きていく上で関わる全てを左右する最も重要なもの。そこに求められるものは相対性ではなく絶対的な力だ。精神的な強さも必要だが、精神力が実力を凌駕することは決してあり得ない。力は力、心力は心力、似て非なるものなのである。己の意思を強く貫く姿勢は立派かも知れない。だが、それだけでは如何な障害も突破は出来ない。障害を乗り越えるのは本人の実力である。実力が無ければ障害を乗り越えることはおろか、意思を捨てる、もしくは意思に殉ずる選択しか出来なくなってしまう。つまり意思は強固な実力があってこそ保持できるものなのである。
「ならば、私は私の力で、それを否定してやる」
力がなければ、自分の意志だって貫けはしない。
彼女には客観的事実を並べるだけではなく決定的な現実を目の当たりにさせなければ、己の愚かさを認める事は出来ないようだ。
崇高な意思がどれだけ無意味なものなのか、揺るぎ様の無い証明を突きつけてやろう。