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「周囲に注意を払え。異変は全て即座に伝えろ」
『仰せのままに』
 ふわりと私の手から離れて宙に浮かぶ神器『Mの書』。Mの書は擬似的な人格を持つ神器の一つだ。その能力とは、周囲に混在するありとあらゆる情報を自律的に収集、解析、そして蓄積させて自らを成長させるという、数ある神器の中でも異色のものだ。Mの書は、人間の感覚では分かりづらい原始レベルの出来事すらも残らず解析する。つまり私は、一般的な情報伝達手段に頼らずとも相手の情報は全てこのMの書によって収集する事が出来るのである。
 情報とは、目に見える形ではないために戦闘では軽視されがちではあるが、実はどんな武器よりも強力な力を持つ。たとえ、どれほど凄まじい力を相手が持っていたとしても、その詳細が周囲に筒抜けてあればあらかじめ対策を講じる事が出来る。つまり、恐るるに値しないということだ。自らの力を知られる事は、そのまま自身の命取りになりかねない。そのためハンターを初めとする、戦いによって日々の糧を得る者は見ず知らずの人間とは決して組んだりはしない。近い将来、もしもその人物が敵として立ちはだかった時、自らの手の内を全て知られているため非常に危険だからである。情報とは時に、アリが象をも倒す力を与える事すらある。私は自分なりに情報の持つ力というものを認識しているため、基本的に自分達の力は極力白日の下には晒さず、また相手の情報は出来る限り抜き出せるように努めている。中でもこのMの書の情報収集能力の恩恵は非常に高い。
 両手五指に集中させていた具現化前の障壁を練り直し、より防御能力の高い大きな障壁として各腕に待機させる。神経は全て普段通り働いている聴覚に集中。Mの書がなんらかの危険を察知した瞬間、障壁を展開、そして障壁に弾かれた敵へ続けて魔術による一斉掃射をかける様をイメージする。魔術の力の大半はイメージ力に依存する。より明確に、そして複雑なイメージを描ければそれだけ魔術の力も強くなるのだ。
「兄様……、相手はかなり出来るようです」
「兄様……、相手はかなり出来るようです」
 エルとシルの声色は緊張で張り詰め、まるで研ぎ澄まされた刃を思わせるほど鋭い。私はただ一言、ああ、と短く答えるだけだった。何よりも私自身の中に何も出来なかったという動揺が消えずに残っているためである。
 先ほどの接触の際、私は何も出来なかったがエルとシルは直接刃を交えている。たった一撃、それも私を守るためのそれだが、相手の力量を量るには十分である。エルとシルは、兄という贔屓目なしに評価しても、これほどの実力を持った剣士は他にはいないのではないかと思ってしまうほどの技量を持つ剣術の達人だ。その二人が敵にこれほどまで緊張しているという事は、相手が同じ剣士として油断のならない実力者である事の現れである。クリムゾンサイズのトップ3は神器を所有しているそうだが、どうやらこの状況からして、彼らは神器の力に振り回されず、完全に我が物として扱う事が出来る実力者と査定して問題はないようである。
 それにしても……なんて深い闇だ。
 私は未だに、この暗闇の中から闇以外の何かを見つけられないでいた。人間の目というものは、瞳孔部分が収縮する事で取り込む光量を調節し、眩しい所でも暗い所でも正常に物体を捉えられるような仕組みになっているのである。だが、もうそろそろこの闇にも目が慣れてもいいはずなのだが、一向に何も見えようとはしない。人間の目は光の反射を捉える事で物体を識別するため、光が全くない所では何も見る事が出来ない。しかし、それはあくまで特別な場合だ。夜ならばともかく、今は完全に日中。室内ではあるが、光が一条も入り込まぬほど密閉するのは非常に困難な事だ。仮にそれが出来たとしよう。だが、光がなければ見えないのは自分達も同じなのだ。この問題はどうやって解決する?
 とはいえ、先ほど襲い掛かってきた二人はこの闇の中でも正確に私の急所を狙ってきた。つまり、なんらかの方法を持って暗闇でも私達の姿を認識しているのだ。
 ―――と。
『正面より高速接近』
 Mの書が端的な言葉を持って危険を知らせる。
「来たか」
 私はすぐさま正面へ向け、障壁を展開した。突如質量を持って空間に現れる、ほぼあらゆる全ての力の干渉を抑制する魔法障壁。普段ならば半透明色でうっすらとその存在を目視確認出来るのだが、それもこの深い闇に飲み込まれて見る事が出来ない。
 ……ダッ。
 ……ダッ。
 同時に、私が作り出した障壁に気がついたのか、背後へ飛び退く音が前方から聞こえる。
 逃がすものか。
 私は相手の存在を確認した瞬間、三歩前へと踏み込む。同時に、展開したばかりの障壁は解除、両の手には新たに取り込んだ魔力を集中させる。
 与えるイメージは、限りなく鋭い水の刃。形状は三日月型に、縦並びに六枚。
「食らえっ!」
 中空を抱き締めるかのように、大きく広げた両腕を激しく振りながら胸の前で交差させる。同時に、それぞれの腕から三枚、計六枚の水の刃を前方へ放った。
 私は主に水の魔術を使用する。扱いは非常に難しいのだが、その性質を理解し自在に操る事が出来れば、攻防共に非常に充実させる事が出来る。水とは常温では液状の物質である。だが高圧で走らせれば、驚くほどの凄まじい破壊力が生み出される。それはこの世に存在する物質の中で最も硬い部類に入る金剛石すらも切断するほどだ。その一方、水には高い摩擦抵抗がある。どれほど高速で向かってくる物体も、水中では減速せざるを得ない。しかも加わる抵抗の強弱は私が決める水圧で自由自在に操る事も可能。他にもさまざまな特性があるのだが、これだけでも攻守の両面が強固なものになるのである。
 横幅は成人五人分には相当する水の刃。それが六枚も並んで高速で放たれれば、いかに身のこなしに優れていようとも回避はほぼ不可能だ。その上、この手元すら見えない暗闇が、私が放ったものが何であるのかを捉えられないようにしている。私達の視界を封じてかく乱する作戦だったようだが、それは逆に仇となったようだ。
 しかし。
 パシュッ!
 暗闇の中から聞こえる切断音。私の放った水の刃が物体を切断し、役目を終えて雲散した音だ。だが、この音は明らかに人体を切断したものではない。となると、刃は建物の壁を切断したという事になるのだが―――。
『回避されました。現在、攻撃態勢を整えています』
 Mの書が、今の私の攻撃は回避されてしまった事を告げる。あの状況でタイミングで、まさか回避されるなんて。いや、それよりも、驚くべき事は別にある。それは、回避された水の刃が建物の壁を切断したというにも関わらず、一向にこの闇が晴れないという事だ。あまりにそれは異常な事態である。たとえ部屋を密閉して暗闇を作り出したとしても、壁が破壊されたら太陽の光が差し込んでくるはず。壁は確実に私の魔術によって破壊された。にもかかわらず、未だに視界は黒く塗り潰されたままだなんて―――。それはこの世の物理法則を曲げない限り不可能だ。そう、たとえば御業を用いるなどしたり。
 むっ……?
 ふと、その時。突然、何の前触れもなしに体がバランスを失ってぐらぐらと揺れた。眩暈や頭痛とか、そういった疾病の類ではない。まるで何かにつまづき、よろめいたかのようにバランスが唐突に失われたのだ。辛うじて体勢は立て直すものの、バランスは更に失われていく。原因はすぐに分かった。あまりに闇が深いため、前後左右どころか上下の方向感覚までもがなくなってきたのだ。人間はある程度視界の捉える風景によって自らの身体バランスを無意識の内に調節している。だが、それがこうして失われた事により、体もバランスを保てなくなりかけているのだ。
 このままでは、自らの力で立てなくなるのも時間の問題だ。エルとシルはどうだろう? 私よりも身体能力に優れている分、まだ自覚症状は現れていないかも知れない。ならば前もって私から知らせておくべきなのだが。この暗闇に姿を捉える事の出来ない敵が三人も潜伏している事を考えると、迂闊にこちらの不利な状況を伝える事はできない。これを知られてしまったら、すぐさま強引に畳み掛けられるだろう。
 さて、どうする? 壁が破壊されても暗闇が晴れない事は分かった。やはりこれは、神器の力による特殊な闇なのだ。闇を晴らすには、神器の所持者を倒す、もしくは所有者が自らの意思で解除する以外に他ない。だが、後者はまずあり得ないだろう。彼らとはあくまで敵対関係、それは互いに理解しているのだから。
 ―――と。
 突然、まるで暗闇の中で大量の照明を一斉に灯したかのように闇が掻き消える。
 これは一体……?
 まるで暗黒の海の中を漂っているかのような錯覚すら覚えさせられた、あの深い漆黒の闇。けれど、それが嘘のように一瞬で消え失せたのだ。初めここに上ってきた時よりも遥かに光量がある。私が破壊した壁から陽の光が差し込んできているからだ。
「聖都騎士団の方々ですね」
 凛と部屋に響く、女性の声。
 ふと見ると、そこには三人の人の姿があった。その三という数字から連想したのだろう、直感的に彼らがクリムゾンサイズのトップ3であると悟った。
 年の頃は私とほぼ同じぐらいだろうか、すらりと伸びた四肢を持ち、女性にしてはやや背が高い。更に外見に似合わぬ、周囲の空気を張り詰めさせる恐ろしいまでの覇気を放っている。憮然としたその眼差しからは男性のアニムス的な印象すら抱かされる、その女性。彼女は右手に細く長い真っ白な袋を携えている。そしてその左右には、まるで鏡に映したかのように何から何まで同じ容姿を持った男が立っていた。
 双子……か?
 二人の腰には、太刀よりも短く脇差よりも長い、小太刀と呼ばれる特殊な剣が差されていた。おそらくそれが彼らの所有する神器なのだろう。二人は共にやや腰を低くした体勢のまま小太刀の柄に手を添えている。そして、何故か目は閉じたまま開こうとしない。しかしそれでもまるで見えているかのように、顔は自然に私達の方を向いている。
「いえ、正確には『聖都騎士団に雇われたハンター』の方々でしたね」
「ほう。我々を知っているのか」
 聖都騎士団の諜報部員もそれなりの腕は持ち合わせていたのだが。彼らの諜報機関もまた、それに匹敵するだけの実力は持ち合わせているようだ。
「ええ。聖都騎士団に神器使いが、それも三人もついた。私達は先日その情報を手に入れ把握していましたから。そしてその三人というのが貴方達である事は、今の事ではっきりといたしました」
 柔らかな口調。けれど、それとはまるで似つかぬ憮然とした無表情。本当に彼女がこの声を放っているのか疑問にすら思えてくるほどだ。
 あれが様子見なのか……。
 どこまでも不敵な。そう苦々しい気分が先走ったが、それはすぐに落ち着き、そして喜びにも似た落ち着きへと変わった。
 そう。目の前に居るのは、私達と同じ神器使い。そして滅多にあう事の出来ない実力者なのだから。