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「行こう」
私は緊張感が過度にならぬようコントロールしながら、そっと歩み始める。エルとシルもまた、私同様に周囲に神経を張り巡らせながら後をついてくる。
建物の奥には幅の広い階段が上の階へと伸びている。ここから見上げられる部分は暗い影が色濃く落ちていてはっきりと見えない。おそらく二階は窓を全て締め切っているのだろう。明らかに不自然な事である。間違いなくここの住人の誰かが意図的にそうしたのは間違いない。
「兄様、私達が先に上がりましょう」
「兄様、私達が先に上がりましょう」
と、エルとシルが私の横へ一歩歩み出る。
「いや、大丈夫だ」
そう私は二人を元の位置へ制し、つかつかと階段を上り始める。こういった明らかな危険性が窺えるような場所へ、エルとシルを先に行かせる事など出来るはずがない。兄である私が最愛の存在を盾にするなどもっての他。むしろ私の方が盾になるべきだ。それに私の体は、人間には決してありえないほどの耐久力を持っているのだから。
階段を上りながら、そっと私は息を吸い込む。特殊な呼吸法により体内に蓄積させる架空因子『魔素』。これにイメージを与えて変質、魔力という魔術の根源エネルギーとして体内を循環させる。ここから魔力、主に手のひらに集中させて更にイメージを与えて再変質、魔力を魔術として具現化し放出するのである。
魔力を両の手のひらの五指に集中させる。続けて円状の障壁のイメージを一つ一つに与えて変質し、いつでも障壁を展開出来るように備えておく。この一連の動作を経て、初めて魔術というものは行使する事が出来るのだが、ほぼ一挙動の内に出来るようになるまでは随分と苦労を重ねた。初めの魔素を取り込む呼吸法だけでも、意識せずに行えるようになるまで一月はかかっただろうか。イメージは更にその倍、全ての一連の動作が自信を持って完全に洗練されたと思えるまでは、また更に数倍の年月が必要とされた。私はアカデミーに入る前から独学で魔術を学んでいたため、他の魔術師と違って私のそれらはほとんどに独学特有の癖がある。とは言っても、魔術を行使するにそれほど問題はないのだが。
階段を上りきると途端に周囲が真っ暗になった。薄っすらと漏れ入る光によってどうにか視界は確保出来るものの、はっきりと見えるのは自分の周辺のごく限られた部分だけだ。
注意を張り巡らせて相手の気配を探る。確かに三つ、この建物内に私達とは無関係な気配が感じ取れる。だがそれはあまりに漠然とし、詳細な位置関係までは探り知れない。相手方も私達に居場所を悟られないように警戒を強めているのだろう。それにしても、こうも自分達の気配を掴ませてくれないとは。神器の所有者は、本当に神器を扱うに値する実力の持ち主と神器の力に振り回されるだけの俗人の両極端に傾倒する。しかし、警戒動作からしてこのレベルである事を考えると、どうやらクリムゾンサイズのトップ3は前者のようである。
私達はより強さの高みへ上る事を常日頃から意識しているのだが、己を磨く機会の少なさに頭を痛めていた。強くなるためにはどうすればいいか。魔術師ならば、自らの精神力を鍛える、イメージング力を高める、などが上げられる。それらは決して効果のないものではなく、積み重ねていけば必ず自らの実力に反映されるものだ。しかし、それは継続的に行いながらも目に見えるほどの顕著な効果は得られないのだ。
ならば、最も効率のいい修練法は何か。それは、自らの実力と同程度、もしくは更に上の何かと戦い、そして勝利する事だ。模擬的な戦いは私達の間でも可能ではある。だが実力というものの大半は、実戦を通してでしか磨かれないのだ。しかもそれは、明らかに格下の相手では全く効果がない。最大限の実力を出した上で拮抗するほどの相手。その相手を打ち破ってこそ、これまでのレベルから一つ上の高みへ昇る事が出来るのである。
私達は皆、神器を所有している。決して驕りではなく、皆それぞれの神器の力を使いこなしている自負がある。人間には決して不可能な、それこそ御業を持ってしか実現できないような現象を起こす力を持つ神器。その力を自らの体の一部として使いこなす神器使いは、人類の頂点にすら上り詰められるほどの実力を持つことも出来る。私達はさすがにそこまで大言を吐く自信は持っていないが、明らかに並みの相手では勝負にならないほどの実力は備えている。そんな自分達が全力を出さねばならぬほどの相手。この広い世界には幾つかあるものの、その一つである、自らと同じ神器使い、しかもそれが三人もこの場にいるのだ。現状の強さに甘んじさせられ、焦燥感すら憶えていた私達。この状況は決して油断ならぬ緊迫したものであるのと同時に、強さの高みを上る絶好の機会でもある。
私は左手の人差し指に集中させていた魔力を障壁から炎に変質させ、暗闇へぽっと浮かべた。小さな小さな炎の塊が放つ、橙色の柔らかい光。それによって自らの周囲だけでもよりはっきりと照らし出す事で、危険の回避率を高めるのである。
背後にはエルとシルの気配が私の後を辿ってくる。二人の神経は非常に張り詰め、一瞬でも不自然な現象が起きた瞬間、手を添えている刀を抜いてしまうほどピリピリしている。それだけ油断のならない相手である事を同様に感じていたのだ。普段の口数の多さは消え、別人のような寡黙さだ。
私は橙色の灯かりを頼りに周囲の状況を確認する。
初め、二階は宿屋のように階段を昇りきった所から廊下が伸び、その左右に等間隔に部屋が並んでいるといった作りかと想像していたが、予想に反してそこは部屋どころか廊下すらなかった。二階は階段の降り口の他、他には何もないのだ。ただがらんと、それこそちょっとした運動でも出来そうなほど広いスペースがあるだけなのである。
ここのどこかに三人は居る。
それは単なる直感ではあったが、この何も身を隠すもののない空間に敢えて潜んでみせるというのは、これまでのクリムゾンサイズの大胆なやり口に通ずるものがある。それだけと言ったらそれだけなのだが。
暗闇で位置取りをする場合のセオリーは、まず一方に突き当たるまで直進する。それから壁に片方の腕をつけてマッピングしながら再び歩き続けるのだ。まあ、外観からして今更地図化するまでもなくここが長方形状の広間である事は推測出来るのだが、ついでに光を遮る何かも剥がして光源を確保しておいた方が今後もやりやすいだろう。とかく、相手がこちらに居場所を掴み取らせない事を考えれば、視界は少しでもはっきりと確保しておいた方が戦況は有利に運べるだろう。
―――と。
「ッ!?」
突然、私の目の前が黒く塗り潰したかのように真っ暗になった。魔術で灯した炎が消えた訳ではない。その暗さは文字通りの黒、光すらも飲み込むかのような混沌とした漆黒である。重ねて言えば、あらかじめ光を遮っていた時よりも今のこの闇はずっと暗い。
明らかに普通の暗さではない。私の防衛本能が警鐘を激しく鳴らす。
エルとシルを傍に引き寄せ、障壁を展開しなければ。こんな周囲の状況も確認できぬ状態で攻撃を仕掛けられでもしたら、取り返しのつかない致命傷を負う事になるのは間違いない。
急速に膨れ上がる焦りを抑えつつそう判断し、背後を振り向きかけた瞬間、
キィィィン!
その激しい金属の衝突音は、私の胸と後頭部で鳴り響いた。私のすぐ前後にエルとシルの気配、そしていつの間にか別の何者かの気配が二つはっきりと現れていた。
「チッ……」
「チッ……」
すぐさま二つの気配は、そう苦々しい舌打ちを残して離れていく。すぐさまその気配を追うものの、まるで闇の中へ溶け込むように消えてしまった。実に見事な隠形術だ。数年たかだか修練を積んだ程度ではこれほどのものにはならないだろう。
「兄様、大丈夫ですか?」
「兄様、大丈夫ですか?」
エルとシルの緊張した声が闇の中から聞こえるが、その姿は全く見えない。依然としてこの闇は晴れる気配を見せず、まるで太陽が消えてしまったかのような暗さだ。いや、太陽が消えたとしてももう少し明るいものだ。
この闇はおそらく、今の二人のどちらかが持つ神器の力によるものだろう。自分の手元はおろか、目を閉じているのか開いているのかすら分からないほど深い闇なんて、自然界では決してありえない事だ。だが、まるで神の御業の如き事象を引き起こす神器ならば、これほどの超常現象を引き起こす事も十分に可能である。
「ああ……。二人とも、見えるか?」
まるで動けなかった。いや、そもそもエルとシルが守ってくれるまで接近された事すら気づけなかった。こんな見事な不意打ちを受けたのは憶えている限りでも初めての事だからだろうか、酷く気持ちが動揺している。
「いえ。全く」
「いえ。全く」
エルとシルもまた視界がままならず、今の攻撃は殺気だけを頼りにして防いだのだろう。それにしても、この深遠な闇の中で敵はどうして私達の姿をはっきりと捉える事が出来るのだろうか? もしかすると、思っている以上に鋭い感覚を敵は持ち合わせているのかもしれない。
そして、私達は無言のまま背中合わせに構えた。とにかく相手の事が分からない以上、こうして防御に回るしかないのだ。
そのまま、そっと上着の中に手を入れてMの書を取り出す。そして起動韻詩を踏んだ。エルとシルより感覚の劣る私は、Mの書に頼って防御をするしかないのである。
「『目覚めよ。我が名はヴァルマ=ルグス。其の主だ』」