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あの街から東北東に向かう事、二昼夜。街道を離れ鬱蒼とした密林の間中にそれはあった。
臨時駐屯基地。それは、この国の国家政府機構に燦然と反旗を翻したテロリスト集団『クリムゾンサイズ』の進軍ルートの途中に建設されたものだった。大胆にもクリムゾンサイズは、提出した要求を国王が飲み込まない場合の襲撃を仕掛ける正確な日時とルートまでをも宣言したそうである。単なる囮、もしくはハッタリの類と当初は考える所だが、奇襲攻撃を仕掛けずに自らの存在を誇示し、更に組織を束ねるトップ3がそれぞれ神器を所有しているとなると、あながちそうとも言い切れなくなる。戦力は王都に向かうルートのほぼ東西に二分して配置している。東には団長、そして西は副団長が指揮を採っている。ただでさえ知れた程度の戦力を二分するなど無謀極まりない方法には思えるが、まあ私達には関係の無い事だ。
「ぶー。まだ体が痛いです」
「ぶー。まだ節々がこってます」
この駐屯基地に到着した翌朝。エルとシルは目覚めるなり、まずそう文句を口にした。当面、我々はあてがわれた宿泊用の仮設住宅に寝泊りする事になった。そこにはベッドも簡易的だがシャワーも備わっている。しかし、ここに向かうまでに乗ってきた軍事用の騎馬車。夜も徹して走り続けてきたため、その中で眠っていたエルとシルは体にしこりが出来てしまったようだ。私は神器のおかげでそんなものとは無縁だが、幾ら神技とも呼べる剣術の使い手であってもエルとシルの体は普通の人間だ。二晩も揺られながら寝ていれば、そういった変調を来たしてもおかしくはない。
「体が痛いですぅ」
「体が痛いですぅ」
と。
エルとシルはいつもの猫撫で声で、まるで餌をねだる猫のように私のベッドに雪崩れ込んでくる。私は起きて顔を洗おうとしかけていたのだが、二人の奇襲のせいで今しばらくベッドに足止めされてしまう。
やれやれ……困ったものだな。
私は苦笑しつつ、とりあえずこれで気が済めばと、私の前に背を向け並んで座る二人の肩から首筋にかけてのラインを素人なりに按摩する。ただ、人間の肩は通常二つ、エルとシルで四つ。それに対する私の手は二つだ。二人をどうじに按摩することは出来ない。一人ずつやればいいのだが、それはそれで先を争ってケンカになる。
「少し、体を動かすといい。血の巡りを良くした方が回復も早い」
「そうですね。ここには確か、騎士団の人間が沢山いたはず」
「そうですね。ここは一つ、稽古でもつけてあげましょうか」
二人は片方の肩だけをそれぞれ按摩してもらいながらも、実に気持ち良さそうに身を寄せ合っている。ケンカもする事はするのだが、二人は基本的に仲はいい。私達はお互いの間に鋼よりも強固な信頼関係を築いている。いや、それは信頼というよりも愛情と呼んでも構わないだろう。だが、これまでに一度もケンカをした事がない訳ではない。エルとシルだけでなく、私ともケンカをする事はある。確か初めて二人とケンカしたのは、アカデミーに入ってから数ヶ月した頃だった。理由は憶えていない。それほど些細な事からだったのだ。そして和解したのも、その日の本当に間もなくの事だった。どちからともなく折れたのである。その後も何度か同じような事はあったが、後々までに怨恨を残すような事は一度たりともなかった。全て、三人ともが納得した上での和解だったのだからだ。そして、こういった小さな決裂と和解を繰り返していく内に、私達はこれまでよりもより強く結びついた。それまでも長い間、私達は同じ時間を共に過ごして来たのだが、それでも相手の言動を完全には理解する事が出来ないのである。人間とはそれだけ複雑怪奇なものなのだ。たとえ肉親といえども、完全に価値観を等しくする事は出来ないのである。まして、私は男であるが、エルとシルは女だ。それだけでも価値観には大きな相違が生まれる。しかし、ケンカという形で一旦距離を置く行為はその溝を埋める効果があるのだ。どういった心理作用が及ぶからなのか、その詳細まで私は知らないが、過去の実績から考えてもそれはまず間違いないと言っていい。
そういった経歴を踏まえ。私とエル、シルの関係は非常に親密で強固、日常の些末事ならばいちいち言葉を交わさずとも理解しあえるほどのものだ。私達にとって言葉はほとんど意味を持たず、お互いの心内は言葉にしなくとも十分に理解出来るのである。ただ、それではあまりに無味乾燥であるから、戯れる意味も踏まえて言葉を終始交わすのである。そう、たとえばこのようにだ。
「ほどほどにな」
「大丈夫です。ライオンが狩りを行うような真似はしません」
「大丈夫です。ライオンが狩りを行うような真似はしません」
稽古とは言っておきながら、本当は単にイジメ一歩手前の行為で憂さを晴らしたいだけなのだ。騎士達も一応は貴重な戦力だ。戦い前から過酷なトレーニングで足腰が立たなくなってしまっては意味がない。
しばらくの間一通り戯れた後、朝の身だしなみにかかる。顔を洗って髭を剃り歯を磨く。私がするのはそのぐらいのものだが、エルとシルは更に時間をかけて髪を整え、そしていつも飽きずに買い揃える化粧品で薄地ではあるが化粧を施す。それすらも女である二人にとっては楽しいようである。いつも嬉々としながら鏡に向かう二人は、まるで早朝に見かける鳥達のそれを連想させる。
二人が終わると、今度は私の番になる。私までも化粧を施す訳ではないが、エルとシルは私の髪型やらの容姿を必ず自分達で決めなければ気が済まないのだ。私は二人とは対照的に、あまり自分の身形に執着やこだわりというものがない。それが二人には許せないのだろう。ならば自分達が、とばかりに、朝のこの時間、私は二人の着せ替え人形になる。私はおちおち自分の見立てで服も着れない。そんな事をすればすぐに二人が機嫌を損ねるのだ。今日はこれ、明日はこれ、一体どんな基準で定めているのかは分からないが、この問題に関しては逆らわない事が無難なのである。
「では、行ってきます」
「では、行ってきます」
やがて私が二人の満足の行く所に仕上がると、ようやく私は着せ替え人形から開放される。そしてエルとシルは自らの所持する神器の内の片方、羅刹の伐剣と閻魔の伏剣を携えると嬉々として出かけていった。ここは共同住宅地のようなものであるため、食事の用意は大勢の分を一気に作る。そのため食事の時間は遅いのだ。少なくともあと半時以上経過しなければ始まらないだろう。
「うむ。気をつけてな」
戯れで軍隊式の敬礼した後、矢のように外へ飛び出していくエルとシル。今日もまた普段と変わらず元気で朗らかである。
昔はどこへ行くにも私と一緒でなくてはいけなかったほど臆病な二人が、今では随分と朗らかで何事にも積極的になったものだ。本当に、見知らぬ人間に話し掛けられるだけで泣き出してしまいそうになる、それほどまでに臆病だったのだ。
二人をそうも臆病にさせていた原因の一つは、エルとシルが一卵性双生児という事実だ。教養の薄い地域では、まるで鏡に合わせたかのようなほどそっくりな二人は禍々しい存在として忌み嫌われる。何の根拠も無い推論。馬耳東風と言っても過言ではないだろう。一卵性双生児が出来る理由は、単なる受精卵の偶発的な分裂であり、さして驚くほど珍しい事でもない。しかし二人は生まれて間もなく、私を除いた周囲のありとあらゆる人間に忌み嫌われ続けてきた。中には露骨に不快感を示し、視線をくれただけで石を投げつけるような輩さえいた。おかげで二人は愛情というものと無縁に生きる事を余儀なくされ育った。もしも私という存在がいなければ、世間に対して斜に構えた人間になるか、とうに世に悲観して自らの命を断っていただろう。
人とは違う。
そのあまりに強烈な幼児体験が、二人に何事にも一歩以上退くスタンスを作ってしまったのだ。今では名実共に自分自身に自信が持てるようになったため、このようにいつも明朗快活に振舞っている。二人を支える自信、これもまた何者にも決して屈する事のない力に他ならない。子供の頃は、常に誰か自分達を忌み嫌う人間に危害を加えられやしないかと怯えていた。だから自然と私の背中に隠れるようにして歩いていたのである。だが今の二人には、そんな危害を安々と跳ね除ける力がある。もう、子供の頃のように泣いて怯えるだけの生活は露と消えてしまったのだ。言うなれば、剣技という力が二人に、思い通りに人生を謳歌する自由を与えてくれたのだ。
ソファーもないこの部屋、私はベッドにそっと腰を降ろすと、枕元に数十冊ほど積み上げていた書物の一冊を手に取って開いた。これらは団長に請求し、この駐屯基地に向かう途中で仕入れてもらったものだ。読書からはしばらく無縁であったため、このように積み上げられた本の様はまさに爽快である。
朝食が始まるまでにはまだ時間がある。私は荷物の中からそれまでの繋ぎにと干肉の入った缶を取り出すと、二束ほどつまみ出して口にくわえる。それから開いたページに刷られている文字に視線を落とし、しばし没頭する。
人は極度に集中すると、時間の感覚というものが極度にずれてしまう。それは時間の流れが速く感じる場合と遅く感じる場合の両極端だ。主に戦闘など、一瞬の瞬間に集中する場合は時間の流れが極度に遅く感じる。だが読書などのリラックスした状態で挑むものには時間の流れはとても速くなる。単なる嗜好の差なのだろうが、同じ集中でこうも時間の感覚が変わるのは非常に面白い事でもある。
かつて、アカデミーの書物庫に通い始めた頃。私は食事はおろか時間すら忘れて、手当たり次第の本という本を読み漁った。朝の早い時間に入ったにもかかわらず、気がつくと自分の目の前には本の山、そして日が傾いているなんてことはザラにあった。それほどまでに時間の流れも忘れて読書に没頭していたためである。
そういえば。初めてエルとシルとケンカした理由はそれだった気がする。私があまりに日々読書ばかりに熱中するようになり、構ってくれないエルとシルが機嫌を損ねてしまったのだ。さすがにアカデミーは戦闘のプロを養成する機関であるだけに、その所有する書物は目も眩むばかりの量と質を誇っていた。あの頃の私にとっては、それこそ同量の宝石ほどの価値があっただろう。だが、そのためにエルとシルに寂しい思いをさせてしまった事は未だに海より深く反省している。自らの事でエルとシルの存在を忘れてしまうなど、兄としてあってはならない事なのだから。
―――と。
「兄様〜!」
「兄様〜!」
読書を始めてからどれほど経っただろうか。極度の集中状態のため、自らの体の感覚すら薄れていたその時。突然、私の耳にエルとシルの焦りきった声が飛び込んできた。
「……ん?」
ふと顔を上げる私。そして今の声に僅かに遅れてドアが開き、部屋の中にエルとシルが血相を変えて飛び込んでくる。それはまさに、”逃げるように”という表現がぴったりだった。
「どうしたんだ? そんなに慌てて」
何事が起こったのだろう。私は小首を傾げながら、読みかけの本に栞を挟んで枕元へ戻す。
「じ、実は……」
「そ、その……」
が。
エルもシルも、慌てて戻ってきた割にはすぐに話し出そうとはせず、なにやらもじもじと躊躇う様子を見せている。いや、それは躊躇うというよりも照れているといった雰囲気に近い。
そして、そうしばらく逡巡した後、二人はいつものように声を揃え、ほぼ同時のタイミングで告白した。
「ちょっと、やり過ぎちゃいました」
「ちょっと、やり過ぎちゃいました」
照れ笑い。
……まったく。
私は思わず深い溜息をついた。元気なのは良い事だが、このように箍を外して不祥事を招く事はあまり喜ばしい事ではない。それは被害の大小に関わらずだ。
「それで、一体どの程度なんだ?」
「見張り台一つ」
「見張り台一つ」
えへへ、と再び照れ笑い。
やれやれ……。
私は微苦笑しつつ、また深い溜息を続けてついた。