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私の目の前には、エルの白い腹部が曝け出されていた。日に当たらない生白さとは違う、肌そのもののきめ細かさとくすみのない色素による健康的な白だ。私達が生まれたニブルヘイムは、世界でも有数の寒冷地帯だ。多少の地域差はあるものの、年間通して凄まじい降雪量と二桁台まで上ることのない年間最高気温が特徴である。寒冷な気候に住む人間は肌が白くきめ細かいと俗説で良く言われているが、ちょうどエルとシルもそれに当てはまっているようだ。
そっとエルの腹部に指を這わせながら、脇腹の辺りによく注目する。そこにはやや色素の沈殿したような、にび色の小さく細い縦線が僅かに伸びている。私はその線をゆっくり静かに指でなぞった。
「痛むか?」
「いいえ、兄様」
ならば今度は、先ほどよりもやや強めに押して圧力をかけながら揉んでみる。
「どうだ?」
「大丈夫です。痛くありません」
エルはそうニッコリと微笑む。どうやら傷は無事に完治したようである。
「よし、どうやら問題はないようだな」
私もまた安堵すると、エルに服を着るよう言う。だがそれよりも早くエルは、ぴょんと飛び上がって隣のベッドにいるシルの元へ飛んでいってしまった。とりあえず、元気である事に越した事はないが。幾つになっても幼さの抜けきらないそんな仕草に、思わず微苦笑する。
エルのこのケガは、今から丁度一週間ほど前のある出来事で出来たものだ。
激しい雨に見舞われたその日、私達はある村の宿屋で、偶然にもアカデミー時代の旧友と再会した。彼らもまた、偶然その村に訪れて雨を凌いでいたという。その時私は、この奇跡とも呼べる巡り合わせと懐かしさに、少なからず喜びを感じていた。
だが。
雨がより激しさを増して風も吹き始め、挙句の果てには竜巻までをも近づいていると聞かされ、私達は村近くの避難場所に一時避難する事となったのだが。その最中、エルは何者かによって刺されたのである。あの傷痕はその時のものだ。
後日、エルにその時の状況を問い訊ねてみたが、やはりエルは何も知らないそうだ。気がつくとナイフが深々と刺さっており、そのまま大量に失血したショックで意識を失った。その後は周知の通りだ。稀代の天才法術師と謳われたセシアの法術により完治に近い状態まで回復し、それから今日までは自然治癒に任せて様子を見ていた。一時は命すら危ういを思われたほど深い傷だったのだが、こうして元気な姿を取り戻せたのは全てセシアのおかげであろう。考えてみれば、私はセシアにろくに礼も言わぬままだった。彼らと離れ離れになった今となっては後の祭りではあるが。
そういえば、あの時。
私はエルを刺した犯人があの場に居た五人の内の誰かだと短絡的に決め付け、我を失って逆上した。その上、魔術を無計画に使用し過ぎたために理性まで失ってしまった。魔術を行使する際には、まず大気中に含有される架空因子『魔素』を体内に取り込む必要がある。その魔素を体内で魔力に変換、そしてそこに術者のイメージを与えて具現化し放出するのだ。だがその魔素には、取り込めば取り込むほど術者の理性を食い荒らすという副作用がある。その性質はいささかアルコールに似ているが、理性を完全に失ってしまった場合のそれは単なる泥酔と比べ物にならない。
理性を失った魔術師は、自らの欲求のままに魔術を際限なく行使する。それは言わば、制御する事の出来ない爆弾のようなものだ。やがて魔力は魔術師自身の許容量を超えて媒体を突き破り、そして行き場を失った魔力と共に自爆的に消滅する。つまり一度暴走してしまった魔術師は、途中で意識を消失させるなどして止めない限り、その先に待つのは死のみなのである。だからこそ魔術師は皆、自らが暴走するという事態を最も恐れ、そしてそうならぬように細心の注意を払う。常に自らの理性、精神力と相談しながら魔術を行使する。これが魔術師として最低限の常識なのだが、あの時の私は不覚にもその配慮を怠ってしまった。言い訳がましいが、それほどまでに私にはエルの負傷が衝撃的だったのである。
そんな時だ。皆が暴走を始めた私を止めようと奮起したのは。そして、中でも最もしつこく最後まで食い下がった奴がいた。
ガイア=サラクェル。
彼は、アカデミー時代は決してお世辞にも優秀とは言い難い、ごく平凡な魔術師だった。当然だが、私と彼とでは魔術師としての技量差はあまりに大きく開いている。彼もそれは十分に自覚していたはず。しかし彼はそれでも私に、少なくとも気迫だけは一歩も引く様子を見せなかった。
一体、どうしてだろう?
あの時の私は理性を完全に失い、手加減など出来るはずもなかった。そんな私を彼程度の実力しかない人間が止めるなんて、はっきり言って自殺行為に等しい。それなのに、どうして彼は逃げなかったのだろう? 実力差が分かっているならば、そんな無謀な戦闘など避ける事が常識。それはハンターに限らず、もはや自己防衛という人間の本能的なレベルだ。どうしてあいつは、自らの命を危険にさらしてまで私を止めようとしたのだろうか?
あの時のガイアの事を考えると、私は今でも額の奥にまるで鉛のような重量感を感じる。私は、あのガイアの無謀な行動の由縁を理解したかった。しかし私は、アカデミーで四年近くも付き合っていながらガイアの行動をまるで理解が出来ない。自分の価値観、客観的事実、それらと照らし合わせても何一つ答えが出てこないのだ。ガイアの行動は単なる自棄的なそれとしか見えないのである。しかし、ガイアには自棄になる理由がない。たとえ私に対するエルの件での謝罪の意味が込められているならば、おとなしくやられるだけのはずだ。魔術を使って対抗しようとするはずがない。何を考えてあいつは私に立ち向かったのだ? 分からない。
同じ魔術師、同じ男性、しかし私にはとても遠い存在。それが私にとってのガイアだ。
「痕になっちゃったよね、ここ」
「う〜ん、ちょっとだけだけどね」
「でも、ファンデーションで隠せるよ。ちょっとやってみよう」
「ちょっ、やぁだ! くすぐったい!」
バタバタとベッドの上でエルとシルがじゃれあっている。ふと私はその音で思考を中断する。
「こら、二人ともいい加減にするんだ。今夜はもう寝なさい」
そんな二人を私は軽く一喝する。
「は〜い」
「は〜い」
するとエルとシルは素直にピタッとやめ、乱れたベッドを整え始める。昔からそうなのだが、二人は私の言う事には実に素直に従う。それは何故か。私の言う事が全て正しいと思っているからなのか、それとも私に嫌われまいとして盲目的に従っているだけなのか。時折そんな疑問すら抱いてしまうほど、二人はあまりに私には素直だ。
私は席をその隣のベッドから窓際にある簡素なテーブルセットに移す。そして、テーブルの上に置かれている夕食の帰りに買ってきたブランデーボトルを手元に引き寄せた。指で栓を抜き同じくテーブルの上にあった備え付けのグラスを手に取ると、丁度六分目ほどまで注いで、まずは一口、口にする。
「兄様は寝ないのですか?」
「兄様は寝ないのですか?」
そんな私に、エルとシルが寝支度を整えながら問い掛ける。
「ああ、少し考える事がある。灯かりは消していいよ」
読書とは違い、ただの考え事では目などを使用する事はない。考え事で使用するのは脳だけだ。意識さえ覚醒していれば、たとえどんな体勢でも行う事は出来る。最も集中しやすい体勢で行うに越した事はないが。
どうしてだ?! 何故俺達がそんなに信用できない?!
と、その時。不意にそんな言葉が脳裏に蘇る。同時に鋭い頭痛が刹那の間襲い掛かり、思わず額を押さえる。
この言葉は、一週間前にガイアが私に向かって言い放った言葉だ。
信用?
私はその言葉を一笑に付した。信用など、確たる証拠があってこそ成立するものだ。私とガイアの間に信用が成立するものであれば、そこには何らかの証拠があるはず。だが私は証拠能力のあるものの存在を知らない。所詮は、長く付き合っただけの関係から来る情緒的な言葉のあやだ。ガイアが私を信用するのは勝手だが、私はガイアを信用した事は一度もない。私がこの世で自分以外に信用するのは、エルとシルだけだ。他にこちら側で何か弱味を握った人間ならば、ある程度の信用は出来たかもしれないが。
まさかガイアは、その程度の曖昧な確信で私を止めようとしたのだろうか? 私がガイアを殺さない保証、その根拠が私とガイアに信頼関係があるからだと。
いや、違う。あの時のあいつの目は、そんな安易なもの感じさせなかった。それこそもっと生きる事に必死な、少しも斜に構えた所のない生死の境に立つ人間の目だ。
少なくともあいつは、自らが死ぬ事を良しとはしていなかった。だが、理性の失われた私を相手にする事がどれだけ無謀かを知らないはずはない。自殺行為と知っていながら、生き延びる覚悟を決めて挑む? あまりに矛盾した行動だ。勇気と無慮は似て非なるものだ。蛮勇で自らを鼓舞して挑んだところで、圧倒的な実力差を埋める事は出来ない。あいつは分かっているはずだ。精神論では何も変わらない事ぐらいは。
一体、どんな気持ちであいつは私に立ち向かったのだろう? 死を甘受していない、現実から目を背けていない、自らを偽っていない。何のために私を止める? 殺すのではなく。私を止める事だけを目的に、そんな矛盾だらけの決心で挑んだとでもいうのか? 否……。それこそ―――。
「兄様、苛ついてませんか?」
「兄様、ピリピリしてませんか?」
と。
不意にエルとシルがそう私に向かって問い掛けてきた。
「もしかして、明日もお仕事をする予定だったのですか?」
「そうでしたら、私達は明日もお仕事します」
どこか不安げな様子のエルとシル。私は思わず口元を綻ばせる。
「いや、そんな事はないさ。少し思い出せない事があってね。私が苛ついているように見えるのは、そのせいだよ。思い出せたらすぐに私も眠る。そして明日は久しぶりに羽を伸ばそう」
そう、努めて優しい笑顔を浮かべて見せる。すると途端に二人は不安げな表情を一変させ、普段通りのにこやかな表情に戻った。
「はい。それじゃあ、おやすみなさい」
「はい。それじゃあ、おやすみなさい」
そして二人は私の元へちょこちょこと駆け寄ると、そっと頬に口付けしてベッドに戻っていった。それから部屋の灯かりが消され周囲が闇に包まれる。しかしカーテンを閉めていない窓からは月の淡い光が差し込み、テーブルの上のブランデーボトルを微かに照らし出す。
苛ついている、か。
今、二人に指摘された自分の様子。私は自分でもそれを理解していなかった。
どうして私は苛ついていたのだろう?
あの時、頭の中にあったのはガイアの事だ。ガイアは邪眼の持ち主であり、その邪眼によってエルを傷つけたから? いや、違う。邪眼の力はあまりに強大でコントロールが難しく、力を抑えるだけでもかなりの労である事を前に古書で読んだ事がある。邪眼が力を行使するその引き金となるのは、怒りや憎しみといった負の感情だ。エルとシルも日頃からガイアをからかっていただけに、あの件も不可抗力だったのかもしれない。さすがにあの時はそこまで自分を冷静にする事は出来なかったが、今考えてみれば、何もガイアだけが悪い訳ではないのだ。
そう私は自分を納得させ、これ以上ガイアの事についてはこだわらないつもりだった。だからこそ、私が今更ガイアの件で苛立つ理由はない。
私は一体、ガイアの何に苛立ちを憶えていたのだろう?
ガイアが、しきりに私との間にあるはずもない信頼関係を主張した事?
力の差も省みず、無謀にも立ち向かってきた事?
いや、力の差はもしかするとほとんどなかったのかもしれない。ガイアの魔術は大したレベルではないが、あいつには邪眼がある。もしあれを行使されたら、その力の詳細が未だに解明できていない以上、私にも防ぐ手立てはない。私を黙らせるならば、その力を用いる事がもっとも手っ取り早い方法ではなかったのではないだろうか?
そうだ……あの時、どうしてあいつは私に邪眼を使わなかったのだろう?
殺す事ではなく、止める事が目的だから?
しかし、私は少なくともあの時はガイアを本気で殺すつもりだった。死を甘受していないならば、本気で殺されそうな状況に陥った時に我が身を守るために邪眼を使ってもおかしくはないはず。私を殺せば、当初の目的こそ達成は出来ないが我が身の安全は得られる。
何故、邪眼を使わなかった?
……ガイアは、我が身の安全よりも、私を止める事を優先した?
何のため?
どうして私を止める?
何故、自分より私を―――。
「あり得ない……!」
私はグラスに注いだブランデーを一気に飲み干した。焼け付くような感触が喉から先を焼いていく。しかし、私の苛立ちはそれ以上に胸を焼き焦がしていた。
分からない。
そして、そのままがっくりと項垂れた。
静寂が、耳に痛い。