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トントン。
深夜。セーウィアス邸の私室にて残っていた実務を片付けていたセーウィアス氏の部屋のドアを何者かがノックする。
こんな時間に誰だ?
セーウィアス氏はふと手を止めてドアを見上げる。
「夜分失礼します。アレックスです」
ドアの向こうから聞こえてきたのは、セーウィアス氏の一人息子であるアレックスだった。
意外だ、とセーウィアス氏は首をかしげた。この部屋をアレックスが訪ねた事は、自分が憶えている限りではこれが初めてなのだ。普段、自分達の間で交わされる会話は基本的にビジネスに関する事ばかりなのだ。それは主に会社か食卓、それ以外ではメッセンジャーを介してのみ行われる。つまり、プライベートな時間での会話というものは一切ないのだ。
静かにドアが開けられアレックスが入ってくる。普段通り紳士然として優雅な立ち居振舞いである。
今日の昼間、アレックスが町に突然現れたオーガに襲われた事を老執事から聞かされて驚いていたのだが、それを感じさせないほどの落ち着きようだ。幾ら外傷はなかったとは言え、精神的なダメージはある程度あったかもしれないのだが。
「どうした?」
「大切な話があるのですが、少々時間を頂けないでしょうか?」
セーウィアス氏の座るデスクの前に立ち真っ直ぐセーウィアス氏に毅然とした視線を送るアレックス。セーウィアス氏はそんなアレックスの表情がどこか強い決意に満ちているように見えた。
「分かった」
アレックスの神妙な様子にセーウィアス氏は俄かに気を引き締め、デスクの上に散らばっていた書類を隅にまとめる。
「実は、セーウィアス社の事業範囲を拡大する企画書を作りました。是非、目を通していただきたいのです」
そう言ってアレックスは一束の書類を差し出した。書類を持つアレックスの指はインクで黒く汚れている。見れば服や袖にも所々黒い染みが見られた。それだけ一心不乱になって企画書に取り組んでいたのだろう。
セーウィアス氏はまたもや驚きつつも、平静を装った顔でその書類を受け取った。アレックスがこういった企画書を自主的に作成し提出した事も初めてなのだ。企画書の作り方自体は教育したのだが、やはり現状の業務をこなすのが精一杯なのかこれまでに一度もそんな素振りは見せなかったのである。今朝まではいつもと何ら変わりがなかったのに。急にこんな事をするなんて、一体どういう風の吹き回しなのだろうか。
表紙をめくり、まずは一枚目に目を通す。二枚目、三枚目、と次々にめくられていく自分の企画書を、アレックスはただじっと黙って見詰めていた。真剣な表情で企画書を読むセーウィアス氏。その様子をじっと見詰めるアレックス。それに伴い、部屋の空気も息苦しいまでに張り詰めていく。
そして。
「駄目だな。これは使えない」
やがてセーウィアス氏は溜息混じりにそう言い捨て、デスクの上に企画書を放り捨てた。
「そうですか……」
初めて作成したもののため、結果がこうなる事はある程度予想していたのだが、やはりアレックスに落胆の様子は隠せなかった。アレックスは自分なりにではあるが、一生懸命に今の自分が出せるベストを尽くして作り上げたのだ。その評価がたった一言、使えない、だ。あまりに残酷な言葉ではあるが、ビジネスとは元々シビアなものを内在させた現実主義の塊だ。商品に関して言えば、売れるか否かの二つしか評価はない。それと同じように、アレックスの企画書も使えるか否かに大きく二分されてしまうのである。
「アレックス、お前の企画書は稚拙で行き届かない部分がまだまだ多いのだが、それ以前に計画の方向性があまりに無謀だ。事業拡大は結構だが、この方向での戦略にはあまりに無理がある。使える企画を提案するならば、まずはそこから修正するんだ」
「いえ、この方向性は変えるつもりはありません」
「なに?」
「ですから、僕はこの方向で事業を拡大したいのです」
アレックスの力強い否定の言葉に、思わずセーウィアス氏は目を大きく見開く。これまで自分にこうも真っ向から異を唱えた事もまた初めてだったのだ。
今のアレックスは、自分の知るアレックスと明らかに違っていた。立ち居振舞いはいつもと何ら変わりない。自分が雇った専門家に教え込ませたものだ。企画書も内容はともかく形式は自分が教えた基本を忠実に守っている。けれど、何かが違う。自分の知るアレックスとはどこか違うのだ。
セーウィアス氏は動揺を落ち着け、再びアレックスに問い返す。
「いいか。お前の企画書には、現在の流通ルートへ新たに海路を設け他国に市場を広げるとある。確かにそれが実現出来れば大幅な事業拡大に繋がるだろう。私も考えなかった事ではない。だが、前に私が教えたからお前も知らない訳ではないはずだ。昔から陸路と海路の業者は敵対関係にある事を」
昔から流通の要とされてきたのは、馬車などを用いた陸路、そして船を用いた海路の二つだ。しかし、どちらも互いに利益を競い合って発展を遂げてきたため、これまでは決して互い手を結ぶ事はなかった。他国では海路と陸路は同じ輸送経路というカテゴリーに分けられるのだが、この国に限ってはわざわざそう二つに区別されるのである。
陸路と海路の産業は互いに犬猿の仲だ。そうなる理由は今となっては忘れられ、ただその事実だけが伝統、もしくは陋習として強く根付いているのである。
「分かっています。陸路と海路は互いに関わらないのが伝統である事は。けれど、僕はその伝統を壊してしまいたいんです。この伝統のために我が国の商業の発達が滞り、これだけ豊富な物量を誇っていながらも未だに年間の輸出量は世界でも最低のランクに甘んじてしまっています。これは決してどうしようもない事ではないと思うんです。ただ、今まで誰も手を出さなかっただけで。だから、僕がその開拓者になってみせます」
「そうか。お前の意思は良く分かった。だが、これまでに誰も成し得なかった事に挑戦するのは、どれだけの困難が立ちはだかるのかまでは考えたのか? これまでとは比べ物にならないほど困難な道のりでありながら、必ず先が開けるとは限らないのだぞ?」
未知の領域に足を踏み入れる人間は、概して冒険者という称号が与えられる。どういった結果を辿るのかも分からず、その先に保証すらも約束されていない。そんな場所に好き好んで足を踏み入れる行為は、情熱の外側にいる第三者にとっては単なる冒険行為に他ならない。
セーウィアス氏は、その冒険行為がどれだけ困難なものなのかを身を持って知っているのだ。彼が起こしたセーウィアス社は、全くのゼロから作り上げた会社だ。駆け出しの頃など、それこそ明日も見えぬような迷走の時期が幾度となく訪れたものだ。気の狂いそうな足踏みの連続に不安感を抱かなかった日は一日としてない。それを切り開くには、それこそ並々ならぬ努力が必要だったのだ。けれど、それもまたたまたま運が良くて切り開けただけなのかもしれないのだ。そんな未知の領域に、アレックスが飛び込もうとしている。親として止めずにはいられないのだ。
「それでも意思は変わりません。全て、覚悟の上です」
アレックスの返答は相変わらず力強かった。一片の迷いもない返事だ。こちらを見据えるその瞳も、強い光がありありと輝きを放っている。
「本気なのか?」
「二言はありません」
アレックスは穏やかな口調ながら、非常にはっきりと簡潔に答える。たったその一言が、やけに胸の奥へずしりと響いてくるのが分かった。まだ業務の初歩的な部分にしか携わっていないというのに、一体何を根拠にこれだけの自信が溢れ出てくるのだろう? まったくの未知の領域に踏み込む事への恐怖感はないのだろうか? 自分ですら、長年固執し続けてきた陸路と海路の統合などという無謀な計画に二の足を踏み続けているというのに。
これが、若さというものなのだろうか?
ふと、そう思い浮かべた時、セーウィアス氏は自分の胸の中に寂しげな風が吹いたのを感じた。かつての自分も、ゼロから会社を興してみせる、と情熱に満ち溢れていた時期があった。だが、会社の発展に反比例してその情熱は段々と失われていった。今では、ある程度の保証がある事にしか手をつけなくなっている。それほど自分は、どんな事にも挑戦するというバイタリティを失い、そして年老いてしまったのだ。
よく見れば、アレックスはかつての自分によく似ていた。ろくに技術も経験もないくせに、大きな計画を立ててそれに体当たりで挑んでいた。そうする事でしか未来を切り開けない、不器用だが充実した時間を過ごしていた頃。アレックスもまた、人に与えられた業務をこなしていくだけでは充実感を得られなくなってしまったのだろう。それは、一つの人間的な成長を意味する。まだまだ未熟で危なげではあるが、確かにかつて自分が歩んだ道のスタートラインから一歩踏み出したのだ。
「何かあったのか?」
「はい?」
「いや、まさかお前の口からこんな言葉が聞けるとは思ってもいなかったからな」
そう苦笑するセーウィアス氏。アレックスはそれにつられ、自分もそっと口元を綻ばせた。
「お前は昔から出来る子だった。何をやらせても完璧にやり遂げて見せたからな。しかし、言われた事以外は何もしない人間でもあった。だから私が会社をお前に任せる時まで、せめて現状の維持だけは出来るようにお前を教育するつもりだったのだが。どうやら、もうその心配はないようだな」
知らぬ間にアレックスは、親の庇護を必要としないまでに成長していた。本来なら喜ぶべき事なのだが、親としては自分の一部が欠けてどこかに行ってしまったようで、そこはかとなく物悲しい。
「少しだけ、自分の視野が広がった気がするんです」
「視野?」
人間の視野や価値観とは、何かに固執しないよう自由に保っているつもりでも必ず何らかの固定観念に縛られている。物事の見方が変わるというのは、時にはそれまで歩んできた人生を百八十度転換するほどの事態にもなりうるほど重大な出来事だ。それらは主に、何か身命に関わるような事件に直面したり、これまで考えもしなかった価値観を持つ人間を出会う事で起こり得る。
そうなると。
「リーヴスラシルさんの影響か?」
「そんな所ですね。彼女は僕とさして年齢は変わらないのですが、心は遥かに大きな方です」
将来の決まっているアレックスとは違い、あの槍使いであるロイア=リーヴスラシルという人間はその日暮のハンターだ。非常に不安定な生活を送る、アレックスとは正反対の世界に生きる人間だ。そんな彼女と逢い見えたのは二日前。アレックスが峠で野盗に馬車を襲われた時、偶然彼女が通りかかって救出したのである。常に死と隣り合わせの人間に、アレックスはこれまで考えた事もない考え方を教わったのだろうか。なんにせよ、アレックスにとってそれは実に良い刺激となったようである。
「あ、それと。僕は明日の見送りには顔を出しませんので。もしロイアさんに訊ねられたら、仕事で既に出かけたとでも言って誤魔化してください」
「何故だ? 別れぐらいは言ったらどうだ。彼女は我が社にとっても恩人なのだぞ」
はて、とアレックスの不可解な言動に首をかしげるセーウィアス氏。すると、
「その……僕一人で別れを言いたいので。先に町の外で待っているつもりなんです」
アレックスは視線をばつの悪そうに落とした。いつも毅然としているアレックスが思わず覗かせたそんな様子に、セーウィアス氏は思わず口元を綻ばせた。
「なんだ、そういう事か。構わん。邪魔はしないさ」
「恐縮です」
アレックスの胸中を汲み取り、セーウィアス氏は笑いながらそれ以上の詮索は打ち切った。アレックスはアレックスなりのやり方で別れを告げたいのだろう。それを邪魔して良い法律はない。
「そうだ、アレックス。今の仕事が一段落したら少しの間仕事を休んでどこかに遊びに行かないか?」
「構いませんが、急にどうしたのです?」
突然のセーウィアス氏の言葉に、アレックスは僅かに目を見開きながら問い返す。するとセーウィアス氏は、どこか照れたような笑みを浮かべながら小さな声で早口にこう答える。
「お前が仕事に情熱を持ち始めたのは良い事だが、お前がその企画を本格的に進め始めたら、もはや休みなど取れないだろう? 今の内に、社長ではなく父親として接しておこうと思ってな」
なるほど、とアレックスも笑った。
考えてみれば、昔から父子というよりも社長とその部下という関係だった。そんな風に一般的な親子の対話も遊んだ事もほとんどない。だから、こうして親子という立場で接し談笑するのは初めての事だ。未だぎくしゃくと不自然な部分はあったが、それはまだこれからいくらでも埋める事が出来る。
その晩、二人は仕事の事など忘れて酒を酌み交わした。
それは、セーウィアス氏にとっては久しぶりの、アレックスにとっては初めての楽しい酒だった。
アレックスが踏み出した、小さな小さな第一歩目。その道のりは果てしなく険しい。だが、アレックスの揺るがぬ決意には微塵も臆す様子はなかった。ただ、ひたすら突き進んでいくだけ。それが分かっていれば十分なのだ。
そして。
今後のアレックスの経緯は、まだ語るべき時ではない。