BACK
翌日。
昨日までの雨がまるで嘘のように、空は朝から真っ青に晴れ渡り、太陽が我が物顔で地面を照らしつける。
「この町ともお別れですね。随分と長居してしまいましたけど」
ロイアはあの大きなカバンを背負い、右手にはブリューナクが収められた槍袋を携えている。
今朝の未明、昨日まで降り続いていた雨による土砂崩れの復旧作業が終了し、再び街道が機能し始めたのである。それを機に、ロイアも再び旅に出る事にしたのである。
セーウィアス家を後にする時、案の定随分と別れを惜しまれた。引き止められて困った時は、出来る限り素っ気無く別れるのがベストとされる。しかし、世話になっておきながらそんな態度を取るのはあまりに蕪不遜だ。自分ではなくとも大概の人は気が引けるはずだ。
セーウィアス氏、それからあの老執事はいつまでも自分を見送っていた。知らぬ間に随分と感謝されていたようである。だが、見送りの中にアレックスの姿はなかった。無理もないだろう。あんな事が続いた後では、自分と顔を合わせ辛くても当然だ。少し寂しい気もするが。
ロイアは町を南に向かって歩いて行く。次の町へ続く街道がその方角から始まっているのだ。
今回は随分と色々な事があった気がしますわね。
町の風景を眺めながら歩くロイアは、ふとこれまでの事を思い出していた。
峠で野盗に襲われていた馬車を偶然にも救出し、その持ち主であるセーウィアス家にお世話になる事になってしまった。セーウィアスはこの国の流通業界では一、二を争う巨大企業だ。そのためセーウィアス家もまた、まるで城のような途方もない豪邸だった。ロイアにとっては見るもの全てが想像を絶する豪華さで、たった三日間とはいっても夢のように優雅な生活だった。
その中で、セーウィアス社の次期社長でもあるアレックスに求婚された。確かに、何不自由のない優雅な生活は魅力的ではあった。けれど、そこには本当に自分が求めるものはないのだ。自分の心臓の欠陥を永久的に補う何かも、ブリューナクという下手に自我を持たされてしまったため人間界に居場所のない槍の安住の地も。
彼の求婚を断った結果、まさかあんな事になるなんて思ってもみなかった。結末は酷く不本意で遺恨の残るものではあった。せめてもの救いと言えば、直接的な被害は壊された建物だけで怪我人こそいたものの死亡者は一人もいなかった事。そして、この事件の首謀者が、国際的に禁止されている魔物使いと契約を行ったアレックスであることを誰にも知られなかった事だ。
今ではすっかりかつての活気を取り戻している。今は早朝マーケットが終わり、昼前の売り出しに向けての小休止といった所だ。町の一部は酷くオーガに壊されてしまったが、建物は幾らでも直す事が出来る。それに伴い、人々の胸に刻み込まれた恐怖も薄れていくだろう。人間の勝手な考え方に振り回され非業の最期を遂げてしまったオーガの事を憶えている者は誰もいなくなる。それではあまりにオーガが哀れだ。せめて自分だけでもオーガの事は憶えておいてあげようと思う。
人は忘れることで前に進んでいく。辛い過去はただの重い枷でしかないのだ。けれど、その枷があるからこそ間違った道へは二度と進む事がないのだ。表面的な道徳観念に縛られがちな人々はそれを見落としている。今の自分達を成り立たせた先人の命が積み重なる礎、しいては命そのものの価値の軽視だ。
今はまだ、それが表面的になるほどの事態は起こっていない。けれどこのままでは、近い将来必ず人々は荒廃を始める。今は丁度緩やかな下り坂を加速しながら下っている所だ。皆がこの事実に気づいた時、果たして加速は止められるのだろうか? それが心配でもある。
商店街を抜けて町外れまでやってくると、これまで照り付ける太陽熱よりも暑かった人々の熱気はぱったりと感じられなくなってくる。先ほどまでとは正反対に閑散としている。この町を訪れる人のほとんどはこの活気に溢れた商店街が目的でやってきているため、町の近くまで来ればもう一目散に街中へ駆けていくせいだろう。
「さて、もうそろそろ街道ですね」
ここを出れば、いよいよ次の町へと続く街道に入る。再び、この灼熱の太陽の下を地道に歩いていくと思うと、少々気持ちはウンザリしてくるが。
けれど、そういった旅独特の刺激はとても心地良いものだった。住み慣れた自分の国もいいのだが、それだけでは得られない別の刺激や感覚はこの世には無数にある。見聞を広めるというのは、ある種限られた人生を楽しむ一つの手段である。もう少し欲を言えば、その見聞を広める事が目的のための副産物でなければ尚良かったのだが。
流転は変化の繰り返し。今は決して変わらぬ自分の宿命にも、いつかは必ず変化が訪れる。不変的なものはこの世には存在しないが、何らかのアプローチをかけることでそれを早める事は出来る。自らの足で前に進み、多くのものを見て、多くの人と出会い、多くの経験をする。今回の出来事もそんな経験の中の一つなのだ。
願わくば、また新たな出会いがあらんことを。そして、いつかは目的のない純粋な旅が出来るように。
そしてロイアは町を一歩踏み出した。
と。
「ロイアさん」
その時、聞き覚えのある声にロイアは呼び止められた。
「アレックス……さん?」
振り返ったその先にはアレックスが立っていた。走ってきたのだろうか酷く息を切らせている。
「お別れを言いに来たのですが……少しだけ時間を頂けませんか?」
「ええ、構いませんわ」
どこか気後れしている様子のアレックスにロイアはそっと微笑んだ。もう二度と顔を合わせることはないのだろうかと気にかけていたのだが、こうして再び合い見えられた事をロイアは喜んだ。
「あの、これを。餞別の品、と言うと少々変な感じですが」
アレックスは手にしていた紙袋をロイアに手渡す。
「旅に必要そうな薬が一式入っています。質は我がセーウィアス社の誇りにかけて保証いたしますよ」
そういえば、昨日買った薬は放り出したままにしていた。危うく、うっかり忘れたまま旅に出てしまうところだった。アレックスの心遣いにロイアは感謝する。
「それと、もう一つあるのですが……」
アレックスはそっと上着の中から一つの小さな缶を取り出した。
「これは僕が見つけてきた、とある小さな村で栽培している紅茶です。まだ市場に出回っていない品なんですよ」
そう言って向けられたその缶をロイアは受け取る。赤い色の小さなその缶は、蓋が閉められたままでもほのかに良い香りが漂ってきた。
「実は、僕はまだ自分だけで商品をプロデュースした事がなくて。これは本当はもっと前に見つけていたのですが、怖くてずっと二の足を踏み続けていたんです。けれど、ようやく決心がつきました。それで、最初の商品はロイアさんに受け取って欲しくて」
「光栄ですわ」
ニッコリと微笑むロイア。するとアレックスも、ややぎこちなかったがようやく笑みを浮かべて見せた。
「ロイアさんは、これからも世界中を回るんですか?」
「ええ。いつ終わるのかは分かりませんけど」
「そうですか……」
アレックスはロイアの旅の目的はあえて訊ねなかった。直感的ではあったが、ロイアが自分の想像を遥かに越えた重い十字架を背負っている事を感じ取っていたのだ。ロイアが求めるものを自分は与えてやれないことも。だから、たとえ自分と一緒になったとしても、一生幸せにはなれないのだ。今、自分に出来る事は、こうして黙って見送ってやる事だけだ。
「現在、セーウィアス社はこの国だけを市場としているのですが。僕は、近い将来、市場を世界展開しようと考えているんです。もちろん、そこにはどんな苦難があるか分かりませんし、失敗することだってあるでしょう。けれど、何か一つでも成し遂げられたら、それはきっと気持ち良さそうですから」
アレックスに昨日までの異様な目の輝きはなく、初めて出会った頃と同じ紳士然とした態度を取り戻していた。しかし、今の彼はその頃よりも遥かに力強く輝いて見えた。未だ精神的に未熟とはいえ、まるで別人のような頼もしさを感じさせる表情だ。
「もし、旅先でセーウィアス社のロゴを見つける事が出来たら。僕が頑張っているのだと思って下さい」
それが自分の決めた道を順調に歩んでいる事の証明である、と。ここで別れたら、次に顔を合わせるのはいつになるのか全く分からない。けれど、少なくともロイアはアレックスが道を踏み外さずに進んでいる事を間接的にではあるが窺い知る事が出来る。
「それでは、お元気で。頑張るのは良い事ですが、体はくれぐれも大切にして下さいね」
「はい。あなたもお元気で」
そっとアレックスが手を伸ばす。ロイアはしっかりとその手を握り返した。