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『グオオオオオ!』
 オーガの鬼気迫った咆哮が辺りの空気をビリビリと震わせる。だがロイアは鋭い表情を保ったまま微動だにせず、オーガに向けて槍を霞上段に構えている。
 ブリューナクの鑓穂は凄まじい熱を放ちながら赤々と輝いている。常識では考えられない超高温だ。たとえそれが金属だとしても、一瞬で蒸発させてしまいそうなほどの勢いである。ブリューナクは神器であるため、当然の事ながらその材質にはアカデミーが開発した特殊金属であるミスリルが使われている。ブリューナクのミスリルは柔硬の両方の性質を兼ね備えている。原子配列をある程度なら自由にブリューナク自身が組替える事が出来るのである。そして、当然の事だが自身が放つ太陽にも匹敵する高熱にも耐えうるほどの耐熱性も兼ね備えている。
 ロイアの鋭い気配を感じ取ったオーガは、首を向けてジロッと睨みつけてくる。その血走った目は見る者に深い戦慄と畏怖を平等にぶつけてくる。生死の境を迎えた者だけが持つ、圧倒的な迫力だ。
『ガアアアアッ!』
 頭を振り乱しながら、ズシンズシンと石畳を踏み鳴らしてこちらに向かって走るオーガ。口元は焼け爛れた消化器官から逆流してきた血で赤黒く汚れている。厚い胸板も苦し紛れに散々引っ掻き回されたため真っ赤だ。凶暴な魔物とはいえ、あまりにも凄惨で悲哀を感じさせる姿だ。
 ロイアはゆっくりと深呼吸を二度繰り返して心を落ち着け、思考をクリアにする。そしてじっと集中力を高めた。アカデミーでは戦闘技術に限らず、自らの精神をも意のままに操るセルフコントロール法も教えてくれた。それに倣って頭の中に穏やかな清流の流れをイメージすると、気持ちがまるで嘘のように波を引いていく。
 今、自分が集中しなければいけないのは、目の前の哀れな魔物を倒す事だけだ。それ以外の思考は全て自分を妨害する雑念でしかない。オーガのあまりに不幸な境遇も、この瞬間だけは考えてはいけないのだ。
 脳裏に自分の攻撃動作を思い描く。その一挙一動の詳細に至るまで明確に。勝手知った自分の体をイメージし、それを思い通りに動かすのは大した労ではない。普段の集中力が発揮できれば実にたやすい事だ。
「……始めましょう」
 その言葉を合図に、ロイアはブリューナクをより強く握り締めた。
 表情はまるで感情の起伏がないかのように、仮面のような無表情だ。ロイアが戦闘に集中するため、意識して余計な感情や思考を排除しているためだ。しかし、あの悲しげな眼差しだけは隠し切れていない。
 オーガに対して半身に構えていた体の向きを僅かに調整する。そして、霞上段に構えた槍を右手一本に持ち替え、槍から離した左手はオーガに向けて水平に伸ばす。
 狙うは、オーガの首を中心とした頭部から胸にかけての範囲。
 アカデミー時代、教官に最も苦痛の少ない殺し方というものを教えてもらった事がある。苦痛とは、何かしらの衝撃を受けた部位の神経が、それを痛みとして信号を脳に送り、信号を受け取った脳は初めてそれを痛みと認識する。
 これにより、痛みを感じさせない方法は二つ定義される。一つは、神経そのものから伝達能力を奪う方法。主に麻酔や魔術などを用いて麻痺させるのだ。そしてもう一つは、信号を脳に受信させないというものだ。つまり、何らかの方法によって脳を神経からの信号を受信できない状態にするのだ。それは機能の喪失、もしくは存在そのものの消去だ。
 よって、痛みや苦痛の伴わない殺し方の一つとして、頭部そのものの吹き飛ばす方法がある。一瞬で跡形もなく消し飛ばしてしまえば、苦痛も感じる暇もなく死んでしまうのである。
 石畳を揺らしながらオーガが向かってくる。苦痛に耐えかね、既にまともな理性は失われている。あるのは強い生への執着心だけだ。そんな姿にロイアは、自分と似ている、と思った。自分もまた、あのように生に執着するあまり本来人間として大切な事を見失っているのかもしれない。
 そして、雑念を追い払うかのようにブリューナクの刃先の狙いを微調整する。
 ブリューナクは自我を持ち、命令すれば自らの意思で目標を貫く槍だ。今までのブリューナクは誰の命令も聞かず、自らの思うがままに振舞っていた。だが、今のブリューナクはロイアの指示に自らの意思で従っている。時折、カッとなって暴走する事もあるのだが、普段はしっかりとロイアの指示通り大人しくしているのである。そして一度戦闘になれば、自らの力を最大限に生かしてロイアをサポートする。
 今までブリューナクに関わってきた人間は皆、ブリューナクには自我が埋め込まれているにもかかわらず、その人格性を否定し便利な道具扱いしかせず、あまつさえ終いには使い物にならぬと封印してしまった。しかしロイアは、これまでの人間とは違いブリューナクを一個の人格を持った存在として接した。そこには決して他意はなく、あくまでロイアの自然体がブリューナクに対してそうだったのだ。そんなロイアにブリューナクは初めて心を開いたのである。だからブリューナクはロイアの指示には素直に従うのだ。
 ロイアは右手の力は握力だけに集中し、手首から下は力を抜いてリラックスさせしなやかな状態を保つ。赤々と輝くブリューナクの鑓穂は、降り注ぐ雨を一瞬で蒸発させながらも尚温度を上げていく。そのまま、ロイアの手から放たれる瞬間をじっと待つ。
 かざした左手とオーガを比較しながら、じっくりと間合いを計る。事実上、自らの意思で飛ぶブリューナクには有効射程距離というものは存在しないのだが、ブリューナクがどれだけ強大な力を持っているのかを知るロイアは、出来る限りブリューナクの力は使わずに自分の力で戦いたいのである。ブリューナクの強過ぎる力に頼るようになってしまえば、きっと自分は慢心して精進を怠ってしまうからだ。
「あと少し……」
 オーガが射程距離内の寸前まで迫っている。他の槍闘士より投擲が苦手なロイアは射程距離も短い。そのため、オーガはもうすぐ傍まで迫り来ている。だが、まだ射程内に入っていないため構えたまま動かない。
 もう少しだけ、もう少しだけ我慢してね……。今、楽にしてあげるから。
 本当はもっと別な形で助けてあげたかったのだけど。無力な私を許して……。
『ガアアアアッ!』
 オーガの足が射程距離内に踏み込んだ。口からはより多くの血を撒き散らしながら、両腕を苦しげに振り回している。おそらく全身を巡った毒が途方もない激痛を発しているだろう。その激しさに、オーガはとうに正気を失って狂っている。
 それはロイアにとって実に痛ましく、正視し難い光景だった。少しでも早く楽にしてやらなければ。そんな思いが槍を握る手に力を込めさせる。
「行きます!」
 ロイアは後ろ足を力強く内側へ踏み込んだ。その半螺旋運動を膝から腰に淀みなく伝えていく。視線は真っ直ぐに迷いなくオーガへ注がれている。しなやかに保たれた右腕は一瞬硬直すると、次の瞬間爆発的に前方へブリューナクを射出した。
 ブリューナクはロイアの投力のみを推進力にし、オーガに向けて一直線に突き進んでいく。空気の断層を鋭く突き破りながら、上から降り注ぐ雨さえも振り切るほどの速さで宙を駆ける。
 その刹那。
 ぱしゅっ、と小さな破裂音が雨の中にこだました。
 ブリューナクはオーガの頭部を正確に貫いた。その凄まじい高熱により、首から上が一瞬で消失してしまう。胸も半分ほどが円状に大きくえぐれている。
 その光景を、ロイアは目をそらさず淡々とした表情で見つめていた。気持ちを空虚にさせなければ、その光景は見ていられなかったのだ。それでも、そこまでして見ておかなければいけないのだ。
 そして、頭部を失ったオーガの体はゆっくりと後ろへ倒れていった。