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昼下がり。
雨は未だに勢いを留める事無く、ざあざあと通りの石畳や建物の屋根を容赦なく激しく打ち付ける。けれど、商店街はそれでも人の勢いは減る事はなかった。この町は商品の供給が十分に行われているため、それだけ商品の流れが速い。より良い物を安く買いたいのであれば、一日たりともボーっとしている余裕はない。極端な話、まさに一分一秒でも速く店に向かわなければ手に入らないような商品もあるのである。全てはセーウィアス社の恩恵であった。
一台の馬車がセーウィアス家の門をくぐる。その音を聞きつけた老執事はすぐさま表に傘を持って出迎えた。正面玄関の前に水を跳ねぬようにゆっくりと馬車が止まる。老執事は馬車の戸を開け、玄関の天蓋と馬車の間に傘をかざす。その馬車の中からゆっくりと姿を現したのはアレックスだった。
「お帰りなさいませ」
本日のアレックスの業務は既に終了している。元々、雨の日は出来る事が少ないため帰りはいつも早い。
アレックスが降りた事を確認すると、馬車は静かに裏手にある倉庫の方へ走っていく。馬車から降り立ったアレックスはつかつかと玄関から屋敷の中へ入っていった。その後ろを老執事は追っていく。
「ロイアさんはどちらに?」
「町の方へお出かけになりました」
ロイアは朝食を食べ終えた後、町へ薬を買いに出かけている。この通り早朝から雨が降っているため、老紳士に傘を借りる際にその旨を伝えたのである。
「そうですか。では、あれはどうしました?」
あれ。
暗に何かを含めたその言葉に、老執事の表情がはっきりと動揺の色が浮かぶ。だがすぐに普段の自分を取り戻し、冷静な表情を取り繕う。
「御命令通りに」
アレックスは、そうか、と満足げにうなづくと、ふと足を止めて振り返った。
「ならば、それをここに」
と、真っ直ぐに老執事を見据える。
「アレックス様……」
アレックスの意図する事に、思わず老執事は口を挟んだ。普段、使用人である彼はこの屋敷の住人に進言する事はまずない。そんな彼がつい異を唱えたくなるほど、アレックスの指示した事は常軌を逸していたのだ。
「早くしてください」
しかし、アレックスの有無を言わせぬ強い口調が老執事の二の句を塞ぎ込む。仕方なく老執事は一度奥へ引き返していった。程なくして、細長い槍袋を手にし戻ってくる。それは老執事がロイアの部屋から無断で持ち出したロイアの槍だ。あの老執事の盗人のような行為は、全てアレックスの指示だったのである。一使用人である彼に、屋敷の住人であるアレックスの命令を無視する権利は無い。
「アレックス様、もう一度お考えを―――」
「ご苦労でした」
老執事の言葉などに耳を貸さず、アレックスは老執事の手から槍袋を毟るように奪い取った。そしてそのまま、つかつかと入ったばかりの屋敷から出て行く。
外は雨が激しく降り続いている。だがアレックスはその中を傘も差さずに歩き始める。傘を差すのも煩わしいと言わんばかりに、何やら事急いている。明らかにその様子は普段とは異なっている。
「アレックス様!」
すかさずその後を追う老執事。だがアレックスには老執事の言葉に歩を止める様子など微塵もない。ただひたすら、前へ前へと雨を掻き分けて突き進む。
あっという間に凄まじい勢いで降り注ぐ雨が、傘も差さずに石畳の上を歩く二人をずぶ濡れにする。しかし、二人は共に濡れる事を一向に構わない。アレックスは目の前を、そして後を追う老執事はアレックスの背中しか見えていない。
「お待ちになって下さい! アレックス様!」
必死に訴え掛ける老執事。しかし、その声はアレックスには届いていないのか、もしくはこの雨にかき消されてしまったのか、一向にアレックスは歩みを止めない。
アレックスはそのまま庭の隅にある小屋へと入っていった。そこは庭の手入れをするための道具をしまっておく場所である。普段は専属の庭師以外まず立ち入る事はない場所だ。
「アレックス様! 何故にこのような真似をするのです! この事がお父上に知れたら―――」
「うるさい!」
なおも食い下がる老執事に、アレックスは珍しく乱暴な口調で言い返した。そして小屋の中を引っ掻き回しながら何かを捜し始める。
「全部、ロイアさんのせいなんだ! 僕をこうさせたロイアさんが悪い!」
「アレックス様……!?」
思わぬアレックスの言葉に、老執事は驚きに目を見開く。
アレックスの言葉は、まるで何かに取り憑かれたかのようなパラノイア的な妄執をはらんでいた。目は赤く血走り異様なまでにギラギラを輝いている。
やがてアレックスは薄汚れた箱の中から一本の長いワイヤーを引っ張り出した。高い樹木を強風から守るため支えるのに使うものだ。アレックスは傍にあった鎌を研ぐための大きな研ぎ石をワイヤーで槍袋に縛りつけ始める。薄汚れたワイヤーは瞬く間にアレックスの手を黒く汚す。しかし、それでもアレックスはより一層の力を込めて、強く槍袋に巻きつけていく。
「彼女は自分の力で何でも思い通りになると思い込んでいます。しかし、それは大きな勘違いだ。幾らハンターだとしても、より大きな力の前にはかなわない。所詮、彼女は槍がなければ何も出来ない。それをこうして思い知らせてやるんだ」
口の端に薄ら笑みを浮かべながら、血走った目でワイヤーを巻き続けるアレックス。そこに普段の紳士然とした表情はなく、妄執に駆られた全くの別人がいた。姿形はアレックスかもしれないが、その中身は別人、もしくは何か悪い霊でも取って代わったように思われるほどの変貌を見せている。
「一体何をお考えに……」
「どけ!」
初めて見るアレックスの乱心した様子に戸惑う老執事を押し退け、再び外へ飛び出す。そしてつかつかとどこかに向かって早い足取りで歩いていく。その後を老執事は不安げな面持ちですぐさま追いかける。
「いいですか!? ロイアさんが幾ら強いのだとしても、それは槍を使わせたらの話です! 槍がなければ、彼女はただの女性だ。ただの女性には、戦う力も、困難に立ち向かう勇気も存在しない」
不気味な笑みに雨が強く降り注ぐ。雨の音が強く耳に鳴り響くが、その中でもアレックスの妄執に満ちた声は高く響き渡る。濡れた髪が張り付いたその顔は、どこか幽鬼を連想させる凄惨さがあった。老執事は、これは何かの間違い、もしくは悪い夢で欲しいと、心の中で切に訴えた。ふと何かの拍子で現実に帰るものだと。しかし、雨の冷たさがより五感を研ぎ澄まし、これが現実であると嘲笑する。
「僕が如何なる障害からも守ってやれる事を証明してみせます。これから間もなく……」
にやりと不気味な笑みを浮かべる。
変わり果てたアレックスの姿に老執事は言葉を失った。一体、アレックスの身に何があったのだろうか。何か悪い憑物でも乗り移ったに違いない。そうでなければ、あの心優しいアレックスがこのような常軌を逸した暴挙に出るはずがないのだから。
やがて駆けるような足取りで歩いていたアレックスが唐突に立ち止まる。その前には、降り注ぐ雨によって幾つもの波紋を浮かべる人工池があった。アレックスの父が、観賞用に幾つか庭に作らせたものの一つである。外周はおよそ15メートルほどだろうか。規模としてはそれほど大きいものではないのだが、水深は軽く10メートルはある。歩みもままならない幼子や泳ぎの心得がないものがうっかり落ちようものならば、誰かに気づいてもらえない限り確実に溺れ死ぬ深さだ。
「ロイアさんに、こんなものは必要ない!」
アレックスは何の躊躇いも無く、重りのついた槍袋を池の中に叩きつけるように投げ込んだ。槍は大きな飛沫を上げ、池の中に吸い込まれていった。その様をアレックスは異様にギラついた目で満足げに見下ろしていた。
「僕が守ってみせるからね」
アレックスは一度高らかに笑うと、そのまま屋敷の方へ戻っていった。老執事はその後姿を雨に打たれながら茫然と見やっていた。
こんな事、現実ではない。悪い夢だ。
しかし、無情に降り注ぐ雨の冷たさは思考を過剰なまでにクリアにし、老執事に現実と夢の境界線をはっきりと見極めるだけの判断力をもたらす。
どうあがこうとも、これがまぎれもない現実なのだ。