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「崖崩れですか?」
翌朝。食堂にて、アレックスとアレックスの父、そしてロイアの三人で朝食を取っていたその時。ふとあの老執事が食堂に訪れてそう告げた。
今朝は明け方から強い雨が降り始めていた。この国の雨は長々と降り続く事はないが、その分一度に集中的に降り注ぐのである。そのため町は水はけをよくするための建築技法が使われており、全くとまではいかないものの、雨による被害は深刻ではない。それでも、露店などは店を開けなくなってしまうが。
ロイアは昨夜の事も踏まえ、明け方の雨には少々考えてしまったが、結局はこのままお世話になり続ける事が気まずく、なんとか雨の中の出発を強行するつもりでいたのだが。
「リーヴスラシルさん、やはり今日の出発はおやめになった方がよろしいですよ。この辺りは地盤が緩いんです。迂闊に街道を歩いて土砂崩れに巻き込まれかねませんから、もう一晩お泊まりになって下さい」
そうアレックスの父がロイアに提言する。
自然災害の力というものは、時として誰にも予想のつかないほどの惨事を引き起こす。そこに油断があれば、軽減、もしくは回避出来たかもしれない災害によって大きな被害を出してしまうのだ。
「そうですね……それでは、もう一晩だけお世話になります」
あまり気は進まなかったが、わざわざ崖崩れや土砂崩れという危険が起こる可能性の中に飛び込む訳にもいかない。この国の人間ほど、この雨の恐ろしさを自分は知らない。ならば、この場は己の身の安全のためにも従うのが懸命な判断だ。理想としては、ひとまず屋敷を出て町の普通の宿屋に宿を取りたかったのだが。まさか屋敷の主人の前で、居心地が悪いので町の宿屋に移ります、と言えるはずもない。
「では、私達は出社いたしますので。まあ、この様子ですと仕事になりませんから、早めに帰って来る事にはなると思いますけどね。リーヴスラシルさんは、どうぞごゆっくり御くつろぎ下さい」
アレックスとアレックスの父は馬車に乗り、この雨の中昨日と同じ時間に会社へ出かけていった。セーウィアス社は、主に流通と商品の仕入れや納品を業務として行っている。だが、崖崩れまで併発するようなこの雨では流通はストップし、同時に会社も活動範囲が大きく狭められてしまう。仕事の最も基盤になるのがその流通であるため、商品の売買という流れが途絶えてしまうからだ。帳簿の整理や近隣限定での棚卸などは出来るのだが、それらはほとんど小口の取引だ。極端な話、社長自らの判断を仰がなくとも、社長が認めた実力のある人間ならば独断で行っても構わないである。それでもアレックスの父が出社するのは、現状の把握や被害報告と言った、雨が降った事によるトラブルの確認と対策を指示し、明日からの業務がスムーズに行えるよう整理をするためである。
荷馬車の護衛なら出来ても、ロイアにはそういった専門知識や営業経験を要する仕事は手伝う事が出来ない。昨日は護衛という形でなんとかセーウィアス家にただ世話になっているのではないと自分を納得させる事が出来たが、さすがに今日は何も出来る事がない。掃除やらを手伝おうとしても老執事に止められるのは目に見えているし、そのせいで元々屋敷で働いている人達が仕事がなくなって迷惑し、アレックスの父にも何らかの叱りを受けるかもしれない。
とりあえず、朝食を終えたロイアは部屋の方に戻った。
ざあざあと、まるで空から小石をばらまいているかのような大粒の激しい雨だ。これほどの雨は、自分の生まれたニブルヘイムではまずお目にかかれないものだ。
部屋に戻ったにしても、ロイアにはやる事は無い。出発の準備はもう昨晩の内に整えてしまっている。何もする事がないからと言ってこんな朝から寝る訳にもいかず、かと言って部屋の中で槍を振り回しトレーニングに励む訳にもいくまい。この屋敷にあるものは、全て高級品と言っても過言ではない。うっかり壊してしまったりすれば、とても自分の手持ちだけで払い切れる額とは思えない。
だったら、風呂にでも入ろうか? いや、退屈するたびに風呂に入っては体がふやけてしまう。第一、退屈しのぎで水を使うのもおかしな話だ。
「あ、そういえば」
と、その時。ふとロイアは何かを思い出し、一度荷造りの済んだはずのカバンを再び開けた。中から取り出したのは、携帯用の小型の薬箱だった。蓋を開けてみると、ちらほらと空スペースが目立つ。薬があまり入っていないのだ。
この国に入ったばかりの時、胃の調子を悪くしたので持っていた薬を飲んだのだが。その時に全て服用しきってしまっていた。その前にも色々と使ったまま、今日まで買おう買おうと思いながらも結局買わないでしまっていた。薬は旅の必需品である。自分は医療の専門知識も法術も使えないのだ。いつ必要になるか分からないのだから、補充出来る時に補充しなければ。
外傷はすぐに治るとしても、体調の管理に服用薬は必要なものである。それは自分のためだけではなく、たまたま薬を持っておらず体調を崩した人に出会った時も分け与え助けてあげる事が出来る。薬の使い道は意外にも用途が多いのだ。あって困るものではない。
「今日の内に足りないものを買い揃えておきましょうか。せっかく物が豊富な町に来ている事ですし」
幾らお金があったとしても、物が不足していて買い物すらままならない町だってある。だが幸いにも、この町はセーウィアス社の影響力で品物に関しては不足どころか種類が実に豊富にある。つまり良質な薬が安価で手に入るのだ。それだけ目移りしてしまいそうではあるが、どうせ他にする事もない。ウィンドウショッピングも兼ねて買出しに出かける事にしよう。
そう決めると、すぐさまロイアはサイフを持ち部屋を出た。気分転換と、この居るだけで気まずくなってくる屋敷から抜け出すためには良い口実である。
下へと向かう階段を目指し、長い長い廊下を歩く。床は深紅の絨毯が敷かれており、踏むたびに足音が飲み込まれていく。
ふと歩きながら窓越しに外を覗く。外は明け方から降り続いていた雨により、空はどんよりと曇り、庭の木々は濡れて光っている。湿度も上がって蒸し暑くなるかと思いきや、体感温度が下がったため割に過ごしやすくなった。
まずは傘を借りて来ませんと。このまま外に出かけてもずぶ濡れになるだけですから。
ロイアは防雨用のマントは持っていたが、それ以外の雨具は一切持っていない。雨具の最も代表的なものと言ったら傘が第一に挙げられるが、傘は手軽だがその性質上かさばるために持ち歩かないのである。
「あの、すみません」
使用人の待機室に向かっていたロイアだったが、偶然にも一階に降りた時、あの老執事がたまたま通りかかった。
「何か御用でしょうか?」
「所用で出かけたいと思いまして。傘を貸していただけないでしょうか?」
「かしこまりました。少々御待ち下さい」
一礼して老執事は奥へと姿を消す。ほどなくして、老執事は柄のない非常にシンプルなデザインの赤い傘を手にして戻ってきた。
「どうぞ、お使い下さい」
「ありがとうございます」
ロイアは借りた傘を差し、屋敷の正面門から町へと出かけていった。
老執事は玄関で深々と頭を下げてロイアを見送る。ロイアの後姿が小さくなったのを確認すると、老執事はくるっと踵を返して屋敷の中に戻る。
老執事は使用人の待機室へと向かった。待機室には人の姿はない。それぞれが現在仕事中なのである。誰もいない事を確認すると、老執事は壁に整理してかけられているカギの中から一つのカギを手にしてポケットの中にしまう。そして再び周囲を警戒しながら待機室を後にした。
そのまま老執事は普段通りの何気ない表情を浮かべながら廊下を歩き、そして階段を上っていく。
屋敷の使用人がすれ違い様に会釈をしても、老執事は普段通りの平静さを装ってやり過ごしていった。だが、誰も気づきはしなかったが明らかにその挙動には不審な点が見られた。額には薄っすらと汗が浮き出ている。暑くてかいた汗ではない。冷たい嫌な汗だ。
やがて彼が着いた先は、ロイアが滞在している最上階の客室だった。老執事はもう一度周囲を念入りに見回し、誰もいない事を確認する。この階には誰もいない事を確かめると、ポケットからあのカギを取り出してカギ穴へ。それを僅かに捻ると、カギをかけていたドアはあっさりと開いた。カギをまたポケットの中にしまい込むとドアを開けて迷わず部屋の中へ入る。
部屋はまるで誰も使っていないかのように綺麗に整頓されていた。ロイアの性格が大きく出ている。
老執事はきょろきょろと辺りを見渡しながら部屋の中を歩き回る。何かを探しているようだ。部屋の中には他に人影は無く、老執事はリビングに目的の物がないと知るや否やはばかる事無く寝室へ足を踏み入れる。
「……む」
寝室に入った途端、老執事の視線がベッドで止まった。視線の先のベッドの上にはロイアが背負っていた大きなカバンと、そして細長い槍袋に入った槍の姿があった。
老執事は静かにベッドへ歩み寄り、ベッドの上に置かれていた槍袋へ手を伸ばす。どうやら彼の目的はロイアの槍のようだ。
が。
ふと老執事の僅かに目を伏せ、物憂げに思慮を巡らし始めた。ここに至るまで何の迷いもなく進んできたのだが、急に目的の物を目前にして迷いを生じさせてしまっていた。そもそも、老執事が何のためにロイアの槍を盗みに来たのかははっきりしないが、少なくともこの様子を見る限り、決して本心から行っているようには見えない。
しばらく悩み続ける老執事。だが、やがて何らかの決断を下したらしく、急に思い詰めた表情を払拭させると、ベッドの上の槍にそっと手を伸ばす。そして重さを確かめながらゆっくりと持ち上げた。
ドクン
「ッ!?」
と、その時。老執事は冷静だった表情を驚きに歪ませ、パッと持ち上げかけた槍をベッドの上に落とした。
突然手にした槍から、まるで人間の心臓の鼓動のような音が聞こえてきた気がしたからだ。その確かな振動も掴む手にしっかりと伝わってきたのだ。幻聴の類ではない。
いや、そんな事があるはずがない。今、感じた鼓動は、きっと自分の後ろめたさがそうさせただけなのだ。罪悪感に苛まれるあまり、僅かな手の痺れか何かをそう錯覚しただけに違いない。槍から鼓動を感じるなんてあるはずがないのだ。こんなものは所詮金属の塊にしか過ぎないのだから。
老執事はもう一度槍袋に手を伸ばし、しっかりと握り締める。今度は何の音も聞こえてはこない。やはり思っていた通り、先ほど感じた心臓の鼓動のようなものは自分の錯覚だったのだ。
そして槍袋を持ったまま、老執事はこの客室を足早に出て行った。
だが。部屋を出て行くその時。老執事は初めて疲労に満ちた後悔のため息を漏らした。