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「ありがとうございます。おかげで助かりました」
この荷馬車群の持ち主である青年は丁重な態度でロイアに礼を述べる。
「いえ、こちらこそ。町まで乗せて頂くのですから」
そうロイアはニッコリと微笑む。
ロイアは偶然、青年の馬車が野盗に襲われていた所に通りかかりそれを助けたのである。相手は数人いたのだが、ロイアは槍術のプロである。素人が武装して幾らかかってこようとも物の数には入らないのである。
ロイアは青年の乗っていた先頭の馬車に乗っていた。偶然にも青年の馬車の目的地がロイアの向かっていた町と同じであったため、青年が一緒に乗っていくように勧めたのである。
「自己紹介がまだでしたね。僕の名前はアレックス=セーウィアスです。この先の町で卸売業を営んでいます。とは言っても、僕の会社ではなくて父の会社ですけどね」
となると、この馬車は仕入れた商品を輸送している最中だったのだろう。
アレックスと名乗った青年は、ロイアよりも一つ二つ歳は下に見えた。だが、その洗練された物腰や毅然とした態度は彼を外見の年齢よりも幾らか上のように印象づけた。大抵の人が彼を好青年と記憶してもおかしくはないだろう。
「私はロイア=リーヴスラシルです。これでもハンターをやっていますの」
「ハンターですか? なるほど、道理でお強い訳ですね」
「ええ。ですから、おかげで体のあちこちが筋張ってしまって」
「いえ、そんな事ありませんよ。とてもお綺麗です」
そう青年は何の臆面もなく微笑む。だが、彼からは少しも下世話な印象は受けなかった。それも彼の人徳なのだろうか。
「ところで、ロイアさんはこの国は初めてですか?」
「二日ほど前に入国しました。ですけど、私の出身は気候がずっと寒い国なので、ここの気候には少々参っていますわ。それで、当分は次の町で静養しようかと思っていたのです」
「あ、でしたら是非我が家にお越し下さい。父にも恩人として紹介いたしたいので。客室もご用意いたします。それならば滞在費もかかりませんよ」
「いえ、そんな。幾らなんでも、あのぐらいの事でそこまで甘える訳にはまいりませんわ」
ロイアにとって、野盗を片付けてしまう事ぐらい大した作業ではない。プロとアマの実力差は大人と子供ほど開いているのだ。大人と子供がケンカしたところで、その結果が明確であるのと同じことである。
「あのぐらいだなんて。今日の荷物は、ほとんどが宝石や金品などの高級品なんです。おそらくそれを知って襲ってきたのでしょう。もしロイアさんがいなかったら、一体どれだけの損失になっていた事か。本来なら、この程度でもお礼し足りないぐらいなんですよ」
どうにもアレックスには引く様子はなかった。時折、相手から受けた恩を二倍にも三倍にも返さねば気が済まない気質の人がいる。それだけ感謝してもらえるのは悪い気はしないのだが、こちらがそれに見合うだけの事をしていない時は、逆に申し訳ない気持ちになってしまう。
本来ならば丁重に断る所だが、今置かれている状況が悪かった。馬車の中に二人、それも向かい合った席に座っているため互いの距離も近い。ここで無下に断ると場の空気が悪くなるのは必須であり、そのまま町に着くまでの間、気まずい気持ちで過ごす事になってしまう。五分程度で到着するならまだしも、町まではまだ時間がかかるのだ。
「でしたら、二、三日だけお言葉に甘えさせていただきます」
仕方がない、とロイアは青年の申し出を承諾した。とりあえずそう言っておき、明日にでも何か急用を思い出したとかで出発すればいい。なし崩し的に更に次の町へ向かわなくてはいけない事になるが、分不相応な接待を受ける訳にもいくまい。
「そうですか! 良かった。では、我が社の恩人として最大限の御持て成しをさせていただきますよ。晩餐は、専属のシェフに腕によりをかけさせましょう」
別にそこまで気合を入れていただかなくても良いのに……。私はベッドさえあれば良かったのですけど。
青年の張り切った様子に、思わず苦笑してしまうロイア。何の下心もなく、ただ反射的に助けただけだというのに。思わぬ大物を釣り上げてしまったようだ。
専属のシェフまでいるなんて、よほどの富豪なのだろう。宝石類のやりとりをするぐらいの会社なのだから、そのぐらいは当然なのかもしれない。ふと両親が、贅沢をしていいのはそれに見合うだけの労働をした時だけだ、と自分に言い聞かせていた事を思い出す。自分は本当にこのような人の持て成しを受けても良いのか疑問だったが、とにかく今はケース・バイ・ケースという事で両親の言葉は胸の奥に追いやる。
「そういえば。そんな貴重品を運んでいる割には警備の方を見かけませんね」
ロイアが現場に通りかかった時は、馬車の周囲を野盗が包囲している所だった。通常ならば、馬車の中なり外なりに待機していたガーダーと戦闘でも始まっているはずの場面である。しかし、周囲にはそれらしき人影は一切見当たらなかった。ガーダーが一人もいないだなんて、幾らなんでも宝石類を運ぶにしては無用心過ぎる。
「一応、町を出る時に何名か荒事に慣れている男達を雇ったんです。ですが野盗が出た途端、あっさりと逃げてしまったんですよ。まったく、僕は一体何のために高い金を払ったのやら……。所詮、チンピラはチンピラですね。今度からは多少割高になっても、ちゃんとしたプロを雇う事にしなければ」
アレックスの顔にはどこか苛立ちの色が覗いていた。
ロイアは、これまでは終始紳士然としていたアレックスから何やらドス黒いものが覗いた事に気がついた。商人は皆、利益を重視する冷たい顔と、お客に感謝を忘れない温かな応対の顔との板挟みになっているため、期せずして二重人格になってしまうのは職業病なのだそうだ。確かに彼はお金を払って雇った用心棒にあっさりと裏切られ、殺されてもおかしくはない目に遭わされたのだから憤りを感じても当然だ。ただ、これまで見せていた爽やかな表情とは少々ギャップがあったため、余計に目立ってしまっただけだろう。
「あ、っと失礼。今更そんな事はどうでもいいですね。ところでアイスティーでも如何ですか? これも我が社でしか取り扱っていない商品なんですよ」
青年は傍らに置いてあった大きな箱を取り出す。蓋を開けると、中からひんやりと冷たい空気が飛び出して来た。箱の中には無数の氷と巧妙な細工が施されたガラスコップ、そして小さなティーポットが入っている。どうやらこの箱は、温度を一定に保てる仕組みになっているようだ。
「ちなみに、この箱も保冷用には最適なんですよ。我が社の取り扱い商品です」
「保温には使えるのですか?」
「保温ですか? それはちょっと分かりませんね。なんせ、この国では保温の必要は皆無と言っていいですから」
そう微笑みながら、アレックスはコップにアイスティーを注ぐ。ガラスコップは、箱から取り出すや否やふつふつと表面に水滴が浮かび始めた。空気中の水蒸気が冷たいコップに冷やされて結露したのである。この国の湿度が高い証拠だ。
「どうぞ」
コップに注がれた琥珀色のお茶が差し込んだ日光を浴びて馬車内に同じ琥珀色の影を作る。
軽く一礼してから差し出されたコップを手に取り、アイスティーを口にする。冷たい感触が喉を流れて胃に染み渡るまでがはっきりと感じられた。お茶自体の風味はよくあるタイプのものだったが、今はどんな冷たいものでもおいしい。
「それにしても、この国は本当に暑いですね」
「僕は生まれた時からこれですので、気に留めた事はありませんが。体が慣れているからでしょう」
ロイアはまだ額にじんわりと汗が浮かんでいるが、青年はきっちりとスーツを着ているにも拘わらず、暑がるどころか汗一つ浮かべていない。これが生まれた環境の違いというものだろう。
「でも、逆に雪というものをまだ見た事がないんですよ。文献では多少知っているのですが。ロイアさんの国では雪は降りますか?」
「それはもう、文字通り掃いて捨てるほど。雪下ろしを怠ったばかりに、家が潰される事だってありますわ」
ニブルヘイムの降雪量の多さは、世界でも有数のものである。ピーク時には、たった一日で、平均的な雨季の総雨量に換算した値と同程度の雪が降る。どの地域もそうとは限らないのだが、比較的少ない地域でも何らかの降雪対策を行わなければならない。
それだけの量が降ると、無論外出する事もままならず、行動を著しく制限されてしまうため完全に日常そのものがストップしてしまう。やる事と言えば、屋根の雪下ろしぐらいだろう。一応、屋根は雪が自然に落ちやすい構造にはなっているものの、それでも湿った雪が降った場合は構造とは無関係に降り積もり屋根に負担をかけるため、どうしても人間の手によって雪を下ろさなくてはいけないのだ。
「家がですか? またまた、ご冗談を。幾らなんでも雪ぐらいで建物が潰れる訳がないでしょう」
そうアレックスはロイアの言葉に噴出した。
彼の言う雪とは、せいぜい地面を白く塗り潰す程度のものだろう。ニブルヘイムの実体は文献には載っていなかったようだ。
「あら、本当に潰れるんですよ。なんせ、一晩に何メートルと積もる事だってあるんですから。だからどこの家も上に高く建てられているんです。雪の中に埋まってしまわないように」
二階から出入りする事もさして珍しくなく、一階と二階の両方に玄関を作るという開き直ったデザインの住宅も増えてきている。アレックスのような雪など一生降る事のない国に住む人間にとっては想像もつかないことだが、ニブルヘイムに住む人間にとっては日常の一部でしかない。
「うーん……なんだか想像できません。世界には色々な国があるんですね」
眉間に皺を寄せながら、必死に頭の中に何メートルと降り積もる雪をイメージするアレックス。その姿に、ロイアは思わず口元に微笑みを浮かべてしまった。