BACK
辺りは耳喧しいほどの静寂に包まれている。
終わった……。
僕は溜息と脱力感と共に、そう安堵した。
感情を荒げるあまり、僕はうっかり体をヴァンパイアの血に支配されてしまった。その結果、かつてアカデミー時代にもあった忌まわしい暴走を再び引き起こす事になってしまった。しかも今は、魔術を覚え始めたあの頃とは比べ物にならないほどの力をつけている。よって相対的に、同じ暴走でも被害はより凄まじいものとなってしまう。
けど。今、周囲には何人もの人が横たわってはいるが、全て大小ケガは負ってはいるものの、一人として致命傷を負ったり死んでしまった者はいない。ヴァンパイアの血の暴走はそれ自体があってはならない事なのだけれど、被害の規模がこの程度で済んだのは不幸中の幸いと呼べる。
それにしても、ヴァンパイアの血の暴走が思わぬ奇襲として功を奏してしまった。おかげであの絶体絶命的な状況を、結果だけを見れば極めて理想的な形で打開する事が出来た。死亡者はゼロ、アニスも無傷で奪回する事が出来たのだから。あれほど二度と起こすまいと心に誓っていたにも関わらず、再びヴァンパイアの血を暴走させてしまった自分自身への落胆は隠せなかったものの、結果だけは良かったのだからそれでいいのかもしれない。一番重要だった、アニスを無傷で取り返すという目的は果たせたのだから。
眼下で失神しているブレイザー一家に雇われたバウンサーの男を限り、ゆっくりと立ち上がる。先ほどまで感じていた異様な高揚は嘘のように消えている。全身のクリアな感覚も、普段通りのままだ。
「あ、そうだ……」
僕は踵を返すと、急いでリームの元へ駆けつけた。
リームは地面に伏せったままピクリとも動かない。僕はそのリームの体をゆっくりと抱き上げて仰向けにする。呼吸は正常に繰り返されている。胸に耳を当ててみたが、脈の異常や雑音も聞こえてこない。やはり本当にただ気絶しているだけのようだった。今度こそ僕は本当に安堵する。
夜になったせいか、急激に気温が低下し肌寒くなってきた。僕は上着を脱ぐと、それでリームの上半身をくるむ。こんな所で眠らせ風邪を引かせてはいけない。
「グ、グレイスさん……」
と、その時。ふと背後から恐々とした口調でそう呼ばれた。
そうだ。さっき僕はアニスに、リームの元に行っているように指示したんだったっけ。
「大丈夫?」
そう問い返しながら、僕は背後を振り返った。
が。
「え……あ……」
アニスはどこにもケガを負った様子はなかった。しかしその表情には深い怯えの色が浮かんでいる。
あれ? どうしたんだろう? もうブレイザー一家はこの通り、何も恐れるものはないというのに。
「どうしたの?」
思わず僕は首をかしげて一歩踏み出す。すると、
「嫌ッ!」
突然アニスはそう叫んで踵を返すと、そのまま走り出した。
「ちょ、待って!」
すぐに僕はその後を追った。今、この場に居るブレイザー一家の人間はこのように残らず気絶してしまっているが、この場から逃げていった人間も何人も居る。その全てが村に逃げ帰ったと踏むのは少々安易だ。途中の暗がりで待ち伏せている可能性だってある。僕達の目的はアニスを無事に取り戻す事だ。それは療養所で待っているゴードン氏に引き渡す事でようやく役目を果たした事になる。途中でなんらかの危害に巻き込まれてしまったら、たとえ無事に取り戻せたとしても、ゴードン氏にしてみれば約束を破られたのとさして変わらないのだ。
アニスは狭い歩幅でも懸命に前へ前へと走っていく。こんな暗闇では足元だっておぼつかないはずなのに。僕はヴァンパイアのクォーターだから、多少の暗がりでもはっきりとものは見える。でもアニスはそうはいかないはず。
どうしてアニスはあんなに怯えた様子で逃げるのだろう?
僕には疑問だったが、それよりもまずアニスを捕まえる方が先だ。
子供であるアニスと僕の足の差は歴然としている。僕はリームにはかなわないものの、それは相対的な遅さであり、一般人から比べれば遥かに身体能力は優れている。戦闘に特化した人間と、単に荒事に慣れているだけの人間とは根本的に肉体的な強さが違うのだ。
「アニス!」
すぐに追いついた僕は、走るアニスの手を取った。と、
「嫌ッ! 助けて!」
アニスは半ば泣き叫びながら、僕に握り締められた手を振り解こうと暴れ始める。
どうして?
僕は訳が分からなかった。僕とリームはそもそもここにはアニスを助け出すために来たのに。それにアニスだって、僕達を店のボディーガードとして雇ったではないか。
どうして?
アニスはそう訊ねる事がはばかられるほど、必死で僕の腕から逃れようとする。僕はただただ唖然としながら、けれど離してしまう訳にもいかず、その場に立ち尽くす。
と、その時。
「アニス!?」
突然、暗がりの向こう側からそんな叫び声がこだました。ほどなくして大柄な人影がこちらに走り向かってくるのが見えた。
「お父さん、助けて!」
その影は、やはりゴードン氏だった。腕は今もなお痛々しく固定されたままだが、あのバウンサーが言った通り深刻なケガはそれだけのようで、足取りはしっかりとしている。
しかし。
アニスはゴードン氏に向かって、助けて、と叫んだ。ますます僕は困惑する。どうしてそんな事を言うのだろうか?
「ゴードンさん、ケガは―――」
「アニス! お前……この野郎!」
―――。
次の瞬間。猛然と立ち向かってきたゴードン氏に、僕は思い切り殴り飛ばされた。
え……? どうして?
アニスの事だけでも随分混乱していたのに。ますます訳が分からなくなった。するとゴードン氏はそんな僕へ畳み掛けるように、
「このバケモノが!」
僕に吐き捨てた。
……え?
僕は地面に座ったまま、今の出来事が理解できずに思わず茫然としてしまった。アニスは心底震えながらゴードン氏に抱きつく。その小さな体をゴードン氏は優しく抱きとめた。
「行くぞ、アニス!」
そしてゴードン氏はアニスの手を引きながらこの場から走り去ってしまった。まるで僕から逃げ出すかのように。
一人取り残された僕は、そっと自分の手を見た。
僕の手は返り血で真っ赤に染まり、指先からは人間のものではない鋭く硬い爪が伸びている。更に、血まみれなのは手だけではなかった。口元を拭ってみると、そこもまたべっとりと血がこびりついている。暴走していた時、何人かに噛み付いた際に付着したものだ。
そっか……まだ、完全に元に戻れてないんだ。
ようやく僕は、アニスやゴードン氏の態度の異変の理由に気がついた。僕の体は人間の血とヴァンパイアの血が共存している。普段は人間の血が支配しているため、姿形は人間のものだ。けれど、一度ヴァンパイアの血が表面化すると、人間としてのディテールが一時的に崩れてヴァンパイアのものに近くなる。それは、たとえヴァンパイアの血が収まったとしてもすぐに元に戻るものではないのだ。きっと今の僕の姿は、目が赤く光っているという無気味なものになっているだろう。そんな姿を目の当たりにすれば、誰だってああも言いたくはなっても仕方がない。
ゆっくり立ち上がると、僕はリームの元へ戻った。
リームは未だにこんこんと眠り続けていた。その顔には深く苦渋の色が刻み込まれている。
さて、僕達も戻ろう。
僕は静かにリームの小さな体を背負い上げると、村に向かって歩き出した。村に戻る頃にはこの姿も元に戻るだろう。とっくにヴァンパイアの血は落ち着いているのだから。
夜の街道は人気が全くなく、限りなく透き通った静寂に包まれている。昼にはない独特のその空間は、僕には非常に心地良かった。元々、あまり騒がしい所が得意な性格ではないだけに、こういう静かな空間に来ると体がリフレッシュしていくような心地良さで体が満たされていく。
このバケモノが!
ふと、耳の奥で先ほどゴードン氏に言われた言葉が反復される。
ショックと言えばショックだった。たとえ責任がこちらにあったとしても、僕達は真剣に命がけでアニスを救出に向かったのだ。お礼を言って欲しい訳でもなかったし、恩に感じて欲しい訳でもなかった。ただ、あんな言われ方をされ、そして殴られた事が辛かったのだ。
僕は、自分では自分を人間というカテゴリには入れている。けれどそれはあくまで精神的なレベルの話で、実際に僕は人間の仲間に入れていない事を自覚している。僕はヴァンパイアのクォーターだ。人間でもなく、魔族でもない。そんな、非常にグレーゾーンな存在。だから僕には、そのどちらに徹する事も出来ないのだ。
そして、僕は人間として生きることを選んだ。理由を聞かれると、少し返答に悩む。ただ、僕の父がヴァンパイアのハーフでありながら人間として生きている姿に惹かれたからかもしれない。しかし、僕のような存在が人間社会で生きていくのがどれだけ大変な事であるかを、父と母から何度も言い聞かされた。人間は、自分達と違う存在に対しては酷く嫌悪を抱く。だから、極力人間社会には関わらない方がいい。けど、それでも実家を飛び出してアカデミーに入ったのは、少しだけ自分の可能性を信じられていたからというのもある。
完全に素性を隠し通すのが不可能な事は初めから知っている。もし僕の素性が知られたとしても、どう罵られ、けなされ、拒絶されようとも、自分を保っていられるぐらいの覚悟は出来ている。だから僕は、ゴードン氏の言葉もアニスの態度にもそれほど取り乱しはしなかった。普段の自分をしっかりと保てている。けど、自分を保てるのと何も感じないのは違う。少しは胸が痛かった。これまで親切にしてくれた人が、突然態度を裏返すのだから。
やがて、街道の途中にあった小川に差し掛かった。僕はそこで一度リームを降ろし、汚れた手と顔を洗い流す。
川には中天に浮かぶ月が映っていた。僕は体がざわつくので月の光があまり好きではなかった。けれど、今は純粋にそれが美しいと思えた。
夜の村は酷く静かだった。まだ宵の口だというのに、誰一人として外に出るものはいない。やはり皆、ブレイザー一家の事を恐れているため、夜のような危険な時間の外出は控えているのだろう。
まずゴードンさんの店に向かおう。少し行きづらいけど、僕達の荷物がまだ置きっ放しなのだ。それを取って来なければ旅を続ける事が出来ない。
きっと明日からは、ブレイザー一家もこれまでのような影響力を与える事は出来ないだろう。一家のほとんどの手下は僕が散々に打ち倒してしまった。もしかすると、あの場から逃げた何人かは店に戻って来ないかもしれない。ダルヴ氏の力は、その組織力だ。組織力とは自分の意になる人間の数、それが激減してしまえば結果的にダルヴ氏の力は無に等しくなる。
ブレイザー一家の力が衰退していけば、この村もきっと元の活気を取り戻すだろう。やがて金鉱の工夫が村に溢れる。一度はブレイザー一家に閉店に追い込まれた店だって十分に建て直せるチャンスだ。ここまで来れば、もう僕達の出番はない。
―――と。
ゴードン氏の店の傍まで来たその時、店の前に一つの大柄な人影が見えた。それは僕達のほうに向かって仁王立ちし、まるでここにくる事を待っていたかのようである。
「……よう」
それはゴードン氏だった。
どこか気まずげな表情を浮かべているゴードン氏。その彼の手には僕達のカバンがそれぞれ握られていた。
「さっきは悪かった。俺もさ、アニスの事で頭がいっぱいだったんだ」
「いえ、別に構いませんよ」
そうか、とうなずくゴードン氏。
「それといきなりで悪いが、今すぐこの村を出て行った方がいい。お前さん達はアニスと、それに店の恩人だ。けど、ここは狭い村だ。悪い噂はすぐに広まる」
ゴードン氏が言っているのは、僕のヴァンパイアの姿を見たブレイザー一家の手下達によって、あの時の事が村中に広められてしまうことだ。そうなれば立場的に悪くなるのは、そんな僕達を雇っていたゴードン氏達である。だからこそ僕達はこのまま村を後にする必要がある。僕達がいなくなってしまえば、自分達は知らなかったのだと言って周囲を納得させる事も出来る。
「はい、そのつもりです。御手数かけてすみませんでした」
僕はゴードン氏からカバンを受け取り、そしてもう一度リームを背負い直す。あまり言葉は交わさない方がいい。情が移るとか、そういう変な言い方にはなるけど、やはり印象が薄いままの方が弁明する時にはやりやすいだろうから。
最後にもう一度、軽く一礼してから僕は踵を返した。と、
「グレイスさん!」
その時、背後から聞こえてくるもう一つの声。
振り返るとそこには、アニスの姿があった。
「あ、あの、先ほどは……その」
「いいんだよ、別に。僕は気にしてないから」
まだどこか怯えが残る表情。けれど僕はいつもと同じように、そうニッコリ微笑んで見せる。
「あの、これ。パンとか干し肉とかの詰め合わせです。私、グレイスさんとリームさんを雇う、なんて言っておきながらこんなものしか用意出来なくて、その……」
「ありがとう」
素直にそれを受け取る。僕の手は冷たい小川の水で洗ったためいささか赤らんではいたが、あの異様な爪も消え、ごく普通の人間のそれに戻っている。
「それじゃあね。これからも頑張って」
僕はすぐに踵を返し、その場を足早に後にする。
あまり別れは惜しまない方がいい。僕達はもうこの村にはいない方が良い人間だ。ずるずると残り続けていても、面倒こそ起こりはするものの良い事は一つもない。ただでさえゴードン氏には迷惑ばかりかけてしまったのだ。これ以上心労を重ねさせるような真似はするべきではない。
村を出て、初めに予定したルートに戻るため、二日前にリームと走るようなペースで歩かされた道を歩いて行く。あの時のリームは久しぶりにお酒が飲めると随分嬉しそうにはしゃいでいたっけ。僕は僕で、今度こそ体を壊してしまうのではないかと気が気ではなかった。どうせ飲むなと言っても聞いてくれる訳がないから、どうやって限界前に押さえようか毎回頭を痛ませた。
月明かりが僕の足元を丁度照らし出してくれる。普段は、僕の体に流れるヴァンパイアの血をざわつかせる不快な光。それが先ほどからずっと美しい光に見えた。どうしてだろう? よく分からない自分の心境の変化に、一人そっと微苦笑する。
「ん……」
と。
僕の背中でリームが唸りながらもぞもぞと動く。
「……グレイス?」
「気がついたね。大丈夫?」
記憶が飛んでいるのか、どこかボーっとして会話が続かない様子のリーム。おそらく最後の記憶は、あのバウンサーとの決闘辺りだろう。それが気がつけば、こうして山道を僕に背負われて歩いているのだから。驚きは多かれ少なかれあるだろう。
「ねえ、あれからどうなったの?」
「大丈夫。アニスも助けたし、ブレイザー一家も当分は動けないはずだよ」
「そっか……グレイスが全部やったの」
悔しげな口調のリーム。
考えてみれば、今回の事でリームは僕以上に責任を感じていた。原因を作ったのが自分であるだけに、自分自身の手で解決したかったのだろう。ただ、その気負いがかえって悪い方向に空回りしてしまった。何より結果を出せなかった事をリームは悔しがっているのだ。
「しょうがないよ。状況が状況だったんだからさ」
「そういう問題じゃない! 結果的に私は負けたの! それがムカツクのよ! あんな程度で手も足も出なくなる自分に!」
リームは世界で最強になる事をリアルな夢として目指している。そして、自らの流派タチバナ流を最強の流派として世界に証明するのである。最強を冠する流派を習得しているからには、リームは己自身にたとえ一度たりとも負ける事を許していない。勝ち続ける事が最強の証明に必要な条件の一つである。その言葉を深く重く自分に刻み付けているのだ。
「ごめん……少し、背中貸して」
そう言ってリームは僕の背中に顔を埋める。俄かに押し殺したようなくぐもった嗚咽が聞こえてきた。僕はあえてそれは聞こえない振りをした。
「絶対、もっと強くなってやる……。そしたら、グレイスなんか一生飯炊きやらせるから」
涙声ではあるが、普段の強気な口調と言葉で僕の肩をぎゅっと掴む。
分かったよ
僕は口には出さず、そんな意味を込めてリームの背中を軽く叩いた。
努力すればどんな事でも絶対に叶う。よくそんな事を言われてはいるけれど、現実にはどんなに努力した所で叶わない事はこの世に幾つもある。その一つが、世界で最強になる事だ。最強になることを夢見ているのはリームだけでなく、世界中に大勢いる。その人達が皆一様に努力しても、最強になれるのは一人だけだ。最強とは同時に何人もがなれるものではないのだから。
けど。
大丈夫、リームはきっと強くなる。それも、誰にも負けないほどに。だって、たった一回負けただけで、こんなに悔しがるんだから。今日は世界レベルで見ればそれほどではないかもしれない。でも、明日は今日より一歩、明後日は更にもう一歩、毎日少しずつではあるけど強くなっていく努力をリームは惜しまない。だから途中で投げ出したりしない限りは大丈夫だ。それに、リームが一度決めた事を途中で投げ出す事自体がありえない事だ。
夜空には依然として煌々と月が輝いている。そろそろ月齢は十七日目に入る。また一回り、ヴァンパイアの血の活動力が弱まる。
月が綺麗だ。
ふと、僕はそんな言葉を思い浮かべた。それは生まれて初めて思い浮かべた言葉で、自分でも驚いてしまった。けど、本当に月が綺麗だった。僕はその月を眺めながら、ひたすら歩き続けた。次の目的地である港町を目指して―――。