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「ぐああああああああっ!」
 まるで獣のような雄叫びを上げる自分。
 僕の頭の中は完全にヴァンパイアの血に支配され、圧倒的な渇きと破壊衝動に理性が塗り潰される。そんな自分の姿を、人間の僕はまるで壁越しに居るかのように茫然と見つめていた。
「な、なんだ、急に!?」
 突然叫び出した僕の様子に、僕の周囲を取り囲んで動きを封じていたブレイザー一家の末端達が動揺する。
「っと、動くなよ。これが分か―――」
 すぐさま僕の喉元に当てられていたナイフが強く押し当てられる。が、直後。僕の腕はその頭を鷲掴みにし、そのまま地面に叩きつけていた。
 やめろ! 駄目だ! 冷静になれ!
 意識の隅に追いやられた人間の僕は、自分自身に向かってそうしきりに叫ぶ。けれど僕は留まるどころかいよいよ本格的な加速を始めた。
「な、なんだ、コイツ!? 目の色がおかしいぞ!」
 丁度僕の左隣に立っていた手下の一人が、怯えるあまり震えた声でそうたどたどしく訴えかける。
 今の僕は完全に活動を始めたヴァンパイアの血に支配され、普段の人間としてのディテールが崩れてしまっている。目は人間には決してあり得ない赤に変色し、爪は鉄よりも固く刃よりも鋭く伸びる。そして、何よりもヴァンパイアの象徴である牙が長く生えている。それは口を塞いだ程度では到底隠せないほど大きなものだ。
 全身に凄まじい力がみなぎり、精神が高揚していくのが分かった。それはどこか魔素を吸い過ぎた時の副作用に似ていたが、その時はただの興奮だけで気分は理由無しに心地良いものだった。けれど、今の僕は興奮はしてはいるものの少しも心地良さはない。人間の時に抱いていた怒りがヴァンパイアの血の破壊衝動によって強烈に煽られているのだ。今、人間の僕が感じているのは純粋な心地良さではなく、どうしようもない絶望感と僅かな期待を捨てられずにいる焦燥感だ。
「がああああああっ!」
 僕は雄叫びと共に、特殊な呼吸法で大気中に含まれる架空因子”魔素”を取り込む。それを体内で魔力に変質させながら風のイメージを与え、更に形ある物へと再変質させる。
 抱いたイメージ。それは、僕を中心に周囲へ吹き荒ぶ、あらゆるものを切り裂く竜巻だ。
「ぎゃああああ!」
「な、なにが―――うわあっ!」
「ヒッ、た、助け―――」
 僕を中心に発生した竜巻は、一瞬の内に周囲を取り囲んでいたブレイザー一家の手下数人を叩きのめしてしまった。吹き荒ぶ風の刃に身を切り刻まれた一同は、一瞬で無数の大小の切り傷を全身に刻み込まれ、そのまま吹き飛ばされた先で戦意を喪失し茫然と座り尽くす。
 咄嗟に力をセーブ出来たのか、辛うじて肉塊にしてしまうほどの威力を出してしまわずに済んだ。けれど、僕を支配するヴァンパイアの血は依然として留まる様子がない。
「な、なんだ? 魔術か?」
 そして振り向いた視線の先には、余裕の表情が消え去ったダルヴ氏と、あのバウンサーの男、そして他のブレイザー一家の末端組が、信じられないといった驚愕の表情で僕を見つめる。
「こ、こいつ、一体何なんだ?」
 ダルヴ氏が驚愕と恐怖の目で僕を指差す。それの意味する所、それは、僕が魔術を行使した事ではなく、僕の人間としてのディテールが崩れたこの姿を指している事だ。
 地面に伏したままのリームは完全に意識を失っており、この状況にも一向に目覚める気配がない。そしてその傍で腕と肩を手下に掴まれているアニス。
「グ……グレイスさん?」
 アニスは恐怖より何より、ただただ驚きの表情で僕を見ている。そして、その表情が恐怖に歪むまでさして時間を必要としなかった。
「ガアッ!」
 右手に魔力が集中する。それは鋭く振り上げられる右腕と同時に、一枚の風の刃のイメージを与えられて撃ち放たれた。
 やめろ!
 咄嗟に僕は自分を押さえつける。けれど魔術を留める事は出来ず、風の刃は真っ直ぐに走っていく。その刃が向かう先には、
「……え?」
 ピッ、と鋭く小さな音がくすぐったい刺激と共に、アニスを捕まえていた手下の男の右腕から聞こえる。男はおそるおそる自分の右腕を見てみる。すると男の右腕は、肘から先の肉がべろんと半分ほどこそげ落ちていた。
「う、うわあああ!?」
 一瞬の状況理解の間を置き、男は自らの右腕の異変に驚愕の叫びを上げる。そして思い出したように遅れて赤黒い血が溢れ始めた。
 手下の叫びに一同の注目がそこへ一身に集まった。僕はその隙を見逃さず猛然と踏み込んだ。
 ヴァンパイアの血に支配された僕の体は、普段とは比べ物にならないほどの運動力を発揮した。あまり体術が得意でないはずの僕だが、その踏み込みはまるで風のような恐ろしい速さで加速する。そして僕の体は次の瞬間にアニスと、アニスを捕まえていた男の前に移動していた。
「失せろ!」
 そのまま、自分の負ったケガに動揺している男を僕は殴り飛ばした。男の体は意外なほどあっけなく後ろへ吹き飛んでいく。じんわりと殴った拳が痛んだ。けれど、その痛みも急速に消えていく。ヴァンパイアの血によって全身の細胞が活性化しているため、少々の打撲傷などは一瞬で治癒してしまうのである。
「グ、グ、グ、グレ―――」
「……向こうに」
 そして、男から開放されたアニスに向かって、僕はなんとか理性を振り絞ってそう指示する。けれどアニスは事態を飲み込めず、周囲の人間と同様に半ば錯乱しかけていたため足を踏み出す事が出来ない。いや、そもそもこんな状況に置かれていながら今まで理性を保てていた方が不思議なくらいなのだ。とても子供に耐えられるような状況ではなかったのだから。
 とにかく、僕がアニスを守りながらリームを連れてこの場を去ってしまおう。人間の僕はそう冷静に最善策を思いついた。今は周囲には突然の事で大きな動揺が走っている。このチャンスを逃す手はない。
 しかし、ヴァンパイアの僕は、この好機など一向に構わず、ただ己が内を突き上げる衝動のままに破壊一色の活動を続ける。
「ガアアアアアアッ!」
 僕はそのまま、手近にある人間という人間に襲い掛かった。頭を掴んで引き摺り回し、体を蹴り上げ、本能のままに魔術を放ち、そして時には首筋に噛み付いて新鮮な血をすすった。逃げ惑い戦意を失っている人間にも僕は容赦をしなかった。とにかくこの場に居る人間全てを打ちのめす事しか考えられなかった。見る間に辺りは阿鼻叫喚とでも言うべき、この世のものとは思えぬ血生臭い空間に変わり果ててしまった。どれだけ残虐な嗜好の持ち主であろうとも、これほどの状況をまともに直視出来る人間は少ないだろう。だが、人間には不快な血生臭さも、血を好むヴァンパイアである僕にとっては歓喜を呼び起こす興奮剤でしかない。
 幾ら理性を奮い立たせたとしてもヴァンパイアの血の暴走は止められない。幾ら満月ではないとはいえ、まだ月齢は十五日を過ぎたばかりだ。ヴァンパイアの血は普段より強く活性化し、そんな僅かな理性の力では到底抑える事は出来ない。
 止まれ!
 止まれ!
 止まれ!!
 僕の必死の呼びかけにもヴァンパイアの血に支配された体は一向に留まる様子がなく、逆に僕の僅かな理性すらも赤く塗り潰しにかかってくる。なんとかまだ僅かに体に残る制御力で殺さない程度に加減は出来るものの、この体を支配する圧倒的な破壊衝動を完全に抑え込む事は出来なかった。僕はただ、リームとアニスを攻撃の目標にしないようにするだけで精一杯だった。簡単に人を殺す事が出来る力を、僕達戦闘のプロフェッショナルは持ち合わせている。そんな僕が理性を失い、善悪の分別もつかぬ状態でその力をふるったらどうなるのか。子供でも分かりそうな簡単な問題だ。今の僕は落としただけでも爆発する導火線のない爆弾のような存在である。自分にも抑えられない力を誰かに抑えてもらおうという方が無理な相談だ。
「バ、バケモノ!」
 僕の目の前で誰か人間が怯えきった様子でそう叫ぶ。
 バケモノ?
 誰が?
 僕が?
 そして、男は僕の振り上げた腕に激しく吹き飛ばされた。そこでようやくその男が、ブレイザー一家を束ねるボスのダルヴ氏である事に気がついた。
 化物。
 その言葉がやけに痛く胸に突き刺さった。僕はヴァンパイアのクォーターでありながら、人間として人間社会で生活をしている。魔物と人間の共存なんて本来ならば決してありえない事だ。人間にとって魔物は唯一自らの生活を脅かす存在であり、人類にとって最後の天敵なのだ。それが同じ世界で生きるなんて事自体が無謀なのだ。それでも僕は人間として生きることを選んだ。理由は様々ある。けれど、それを決心し踏み切らせてくれたのは、リームの”アンタは人間よ”という一言だった。そう、僕を人間として認めてくれる人が居る。それが僕にとっての原動力なのだ。そして同時に、僕が人間として認められているという誇りの現われでもある。
 けれど。
 今のこの姿は一体なんなのだろう? ヴァンパイアの血に支配され、欲望のままに己の力をふるっている僕。その姿は人間として生きているという誇りなどどこにも見当たらない、まさに下衆としか言いようのない見苦しい姿だ。それは分かっている。けれどヴァンパイアの血の支配力の前に僕は、幾らそう考え恥じ入っていても、元の自分の体に人間の血の支配力を戻す事がしたくとも出来ない。それだけヴァンパイアの血が生まれ持つ本能とは強いものなのだ。
 ハアハアハア……。
 気がつけば、ほとんどの手下達を僕は打ちのめしていた。何人かは村の方に逃げ帰ってしまったかもしれない。とにかく、喜ぶべきなのか否か、周囲には底知れぬ静寂が取り戻った。
 激しい息切れが僕を襲う。しかし、それでも僕は未だに内側から次々と湧いてくる破壊衝動に突き動かされ止まる事をしない。体は疲れを忘れたようにやたら高揚している。通常であればこんな状態はまず考えられない。疲れれば、それ相応の時間の休息を取らなければいけない。だが今の僕は、本当に一、二分ほどの休憩だけで元の体力を回復させてしまう。明らかに人間にはあり得ない、ヴァンパイア特有の症状だ。
「お、お前は……」
 そして聞こえる、恐怖に満ちた声。
 まだいるのか?
 すぐにヴァンパイアの僕が、そう黒い衝動を孕ませながらそちらを振り向く。
 頼む……もう止まってくれ。
 止まる事を知らない自分の暴走に、もはや絶望感すら覚え始めてきた。けれど、その絶望感もあっという間に赤く塗り潰されてしまう。
「くっ、化物が! 死ね!」
 最後の一人は、あのバウンサーだった。
 急に全身がより激しくざわつき始める。そしてただの破壊欲求だったそれは、はっきりとした強い殺意に変わっていく。
 こいつは、リームを卑怯な手で散々いたぶった。誇り高い精神に泥を塗り、タチバナ流の名前までをも汚した。生きるに値しない、最低最悪のクズだ。殺してしまう他ない。そうだ、殺せ。こいつはリームをあんなに酷く痛めつけたヤツなのだ。殺せ。殺せ。殺せ。殺せ。殺せ……。
 辛うじて残っていた人間の僕が、不覚にもヴァンパイアの僕と僅かに同調してしまった。
 そして、その瞬間。しん、と風が止まった。
 男は爆音と共に踏み込みながら、あの鋭い飛び蹴りを放つ。常人には計り知れない素早い体術。しかし、僕にはその一挙一動がはっきりと見えていた。男の一つ一つの動作から呼吸の具合まで、全てがスローモーションに見えるのである。
 そして、僕は感情のままに男の頭を逆に掴むと、そのまま地面に叩きつけた。
「がっ……かっ」
 男が苦しげに呼気を吐きながら身悶える。けれど僕は男の頭を離さず、地面に押し付けたままみしみしと握り締め続ける。苦しさのあまり男は僕の腕を掻き毟りしがみつくが、僕の腕はまるで鉄のようにびくともしない。
 と、そこで突然、ヴァンパイアの本能に飲まれていた僕の理性が回復する。
 本当に殺してしまっていいのだろうか? 今更ヒューマニティだとか人権だとかを尊重するつもりはさらさらない。けど、このまま殺してしまうのはブレイザー一家と同じ事をやっているだけに過ぎないのではないだろうか?
「は、放せ! がっ、あがが……」
 男は苦しげに顔を真っ赤に鬱血させながら身悶える。
 止まれ! もうやめろ! 本当に殺してしまう!
 僕はゆっくりと左手を振り上げる。そこには見る間に風の刃が集まっていき巨大な渦を形成していった。これを生身の体で受ければ、ほぼ一瞬にして人間としての形がズタズタに崩れてしまうだろう。
「や、やめ―――た、助け……」
 そして、僕に強く締め付けられるがあまり、遂に男は耐え兼ねて目がぐるんを上を向いた。男の四肢がぐったりと力を失って動かなくなる。
 さあ、これでいよいよやりやすくなったぞ……。
 そんな嗜虐的な声が頭の中に響き渡る。
 駄目だ! こんな事は間違っている! 殺すに値する理由なんて、何一つないだろうが!
 ヴァンパイアの本能に辛うじて塗り潰されない僕が、そう必死で訴え掛ける。けれど左手に集まっていく刃の渦はより規模と密度を増し、男を文字通りこの世から消し去ってしまおうとせんばかりの勢いである。
 もう駄目なのだろうか……? 僕はまたヴァンパイアの血に負けて―――。
「駄目ッ!」
 と、その時。
 突然、風の止んだ周囲の静寂を、一条の叫び声が切り裂く。
 ハッ、と僕の体が動きを止めた。すぐさま僕は最後の理性を振り絞り、全霊をかけてヴァンパイアの血にブレーキをかける。しかしヴァンパイアの血は予想通り激しく抵抗をし、僕の体を明け渡す事を拒んだ。それでも僕は怯まず、ヴァンパイアの血の抵抗を押し切ろうと更に強く強く奥へ押し込める。
 やがて。
「がっ……。はあ、はあ、はあ……」
 唐突に全身の感覚がクリアになり、ドッと重苦しい疲労感が肩に圧し掛かってくる。
 どうやら、何とか僕は自分を抑え込める事が出来たようだ。先ほどまで荒れ狂っていたヴァンパイアの血も、今ではもう嘘のように静まり返っている。絶望的かと思われたが、どうやら満月時ほど活動が活発ではなかったため、何とか抑え込むことが出来たようである。けれど、以前体の奥では再び表に出るタイミングを見計らっているような動向があった。鎮まりはしたがまだ完全に眠ってしまった訳ではなく、僕の人間のディテールも崩れたままだ。とりあえずは押し込める事は出来たが、まだ油断は出来ない。
 僕の眼下にはバウンサーの男が白目を向いて失神していた。
 あの時、僕は確かにこの男を殺してしまおうと、ヴァンパイアのそれとは別にはっきりと決意していた。この男はリームを徒に傷つけた、僕には心底憎い人間だ。一時の感情とは言え、殺してしまう事を良しとしていた自分はあまりに非人間的で野蛮だ。それは僕の理想とする人間性とは対極に位置するものである。そんな感情に支配されていたなんて、自己嫌悪以前に情けなさすら込み上げてくる。
 リームを傷つけた事は到底許せるものではない。けれど、それを同じように暴力を持って償わせる事は間違っていると僕は思う。人間も法律で仇討ちを厳重に禁じているように、それはおおよそ道徳観念からかけ離れたものなのだ。たとえ意気地なしと嘲笑われても仕方がない。僕は必要以上の暴力は揮いたくはないのだから。ヴァンパイアの血に体を支配され、ここまで暴れた後で言うセリフではないかもしれないが。
 そして、
「満月の夜じゃなくて、命拾いしたな……」
 そう僕は、眼下に横たわる男に向かって呟いた。