BACK
最悪だ。
まず頭に浮かんだ言葉は、そんな短絡的に現状を揶揄するものだった。
ゴードン氏の凶報に続き、まさかこんな事にまでなってしまうなんて。とにかく、今は過ぎた事を嘆いても仕方がない。僕達がやらなければいけない事。それは―――。
「んにゃろうが! こすい真似しくさってからに!」
ドン、と悔しげに床を踏み鳴らすリーム。そのあまりの激しさに、まるで地震でも起きたかのように足場が縦に微振動する。普段ならば『床が壊れるよ』と注意するのだが、正直今の僕もリームと同じように何かに八つ当たりしたい気分だったので出来なかった。まさか、こんな簡単な手にまんまと引っかかるなんて。バウンサーでありながらクライアントを窮地に立たせてしまうとは、自分の愚かさに腹が立って仕方がない。
「い、一体どういうことなんだ……?」
一人、傷だらけの青年は、僕達の只ならぬ様子に困惑の表情を浮かべながら弱々しく首をかしげる。彼はゴードン氏の事を知らせる思いで一杯だったため、今のこの複雑かつ最悪な状況を知らないのだ。
「実は……つい何時間前にも、ゴードンさんの事を伝えに来た人がいるんです」
「なんだって!? そんな……俺は療養所から一人で……じゃ、じゃあ、アニスちゃんは……」
アニスの行方。
その事について、僕達は苦い表情のまま顔をうつむけるしか出来なかった。
おそらく、事の流れはこうだろう。
まず、朝、偶然にもゴードン氏が一人で出かける所を見つけたブレイザー一家の誰かがボスに報告し、それを聞いたボスはすぐさまゴードン氏を集団で痛めつけさせた。そしてわざと人目につく場所へゴードン氏を転がしておく。ケガで動けなくなったゴードン氏を見つけた誰かは、すぐさま療養所に運んでいくはずだ。そしてこの事をアニスの元へ知らせに向かう人間が現れるのをどこか近くで待ち構えておく。やがて現れた使いの人間、おそらくそれがこのケガをしている青年だろう。ブレイザー一家は彼も痛めつけ、そして他の人間が使いに成り済ます。そうすることで何の違和感もなくアニスを店から連れ出す事が出来るのだ。わざわざこんな回りくどい手を使ったのも、途中で僕達に計画を勘付かれないようにするためだろう。いわば確率犯罪の応用だ。途中でしくじっても、ある程度のリターンが得られる。ゴードン氏を負傷させれば、それだけ今後は攻撃しやすくなる。精神的なダメージもだ。もしも連れ出した時に僕達のいずれかが同伴してしまったとしても、その時は何食わぬ顔で療養所に案内しそれから自分は逃げればいい。
「とにかく! もうグダグダ言ってられないわ! もうテッペン来た! 私はやるからね!」
と、急にリームは店を凄まじい勢いで飛び出していった。
「あ、ちょっと!」
僕の制止などとっくに遅かった。リームの姿は既に店の中から消えてしまっている。思い立ったら迷わず突き進むリームらしい。だがそれは、方向性を見誤れば非常に危険な事でもある。だからこそ、これまでにもリームは何度も突っ込まなくてもいいトラブルに首を突っ込んでしまった事がある。
「俺の事はいいから、行ってくれ」
「すみません!」
青年の配慮に僕は軽く一礼すると、すぐに矢のように飛び出していったリームの後を追った。
ドォン!
店から出た直後、丁度向かいに建つブレイザー一家の店の方から凄まじい轟音が響き渡った。ハッと見ると、観音開きの入り口の扉の右側が外れて地面に転がり、左側も今にも外れてしまいそうだった。何か強引にこじ開けたような痕跡である。
こっちか!
すぐに僕もブレイザー一家の店の中に飛び込んだ。
さっきも言ってたじゃないか……こんな事をしたって仕方ないって……!
今、ブレイザー一家に踏み込んだって何のメリットも得られるどころか、逆にこちらの首を締める結果になりかねないというのに。基本的に治安機関関係は買収されブレイザー一家の味方だ。ゴードン氏や先ほどの青年の件だって、はっきりと目撃者がいなければブレイザー一家の仕業であると証明する事は不可能だ。だからこのまま乗り込んだ所で、僕達は逆にただの犯罪者として捕まりかねない。アニスの件が表沙汰になれば別だが、きっとそうなった時点でアニスは―――。いや、むしろこうやって襲撃する事で逆にアニスの身が危険にさらされる。とにかくこの襲撃はどう転んでも僕達にとってはマイナス要素以外に働かない。
「うっさい! いいからボスを連れて来いっつってんのよ!」
店の中に飛び込んだ瞬間、リームの怒声が店内中に響き渡った。既に店は荒らされ、テーブルが幾つか嵐でも通り過ぎたかのようにひっくり返っている。リームは店の真ん中で鬼のような形相で一人の男の襟を掴み上げていた。店には数人ほどの部下らしき人間がいるが、昨日リームの実力を見せ付けられているためか全員が萎縮し助けに入ろうとする者は一人もいない。
「い、いや、ボスは……」
「はあ? なに? はっきり言えっつってんじゃない!」
リームの怒りに任せた傍若無人極まりない行動に、その場にいた誰もが何も出来ずにただただオロオロと事の成り行きを諦観している。リームの小さな体から放たれる迫力のような威圧感は、通常は危険とされている猛獣が放つそれとほとんど大差がない。こういった荒事に本当に日常的に関わって慣れている者でなければ、この状況で冷静な対処をする事は難しいだろう。
「リーム! それは駄目だって!」
「何がよ!? ゴードンのオッサンやったのもアニス連れ出したのもこいつらなんでしょうが! 悪者ブッ飛ばして何が悪いってんのよ! ほら、さっさとボス連れて来い! どこにアニスを連れてったのよ!」
リームはギリギリと男の襟を掴み上げたまま前後に激しく揺さ振る。その力の前に男はただただ苦しげにもがきながらリームの腕を掴み、顔を鬱血させている。当然だが、呼吸が満足に行えていないせいだ。
「こんな事したってしょうがないだろ!? すぐにやめてここから出るんだ!」
「ふざけんな! ここまでされて黙ってろっていうの!? アンタはいつもいつもそうだ! あれは駄目だこれは駄目だって、だからいっつも損ばっかりしてんじゃない! いいからここは引っ込んでろ!」
轟と獣の如く叫ぶリーム。その声は圧倒的な威圧感に満ち、僕に向かって質量を伴いながらぶつかってきた。思わず僕は胸を締め付けられるような息苦しさを感じてしまった。普通なら、ここで僕はリームに迫力負けしてたじろいでしまう。けれど、今はそんな見っとも無い事をしている場合ではない。リームは今、取り返しのつかない事態の一歩手前まで行ってしまっているのだから。
「ほら、とっととボスを連れて来い!」
「ボ、ボスは今、私情で出かけている……」
苦しげな表情で何とか男はそれだけを答える。その言葉が真実かどうかはともかく、それだけでリームが納得するはずがない。それどころか、こういった誤魔化そうとする言葉はかえってリームの怒りに油を注ぐ結果に繋がる。リームは口先小手先の小細工をこの世で最も嫌がるのだ。
「あー、そうですか。だったら喋りたくなるようにしてやるわよ!」
そう言って、リームは右のこぶしをぎゅっと固く握り締めた。本気を出せば、そこら辺に転がっている岩を割ったり、オーガなどの巨大な魔物すらも一撃で倒してしまう破壊力を持つリームの拳だ。そんなもので殴られてしまったら、普通の人間に助かる見込みはない。いや、そんな事よりも。本当に危ないのは、あの男を殴ってしまうという事実が知れ渡る事の方だ。これだけの目撃者の前でケガをさせてしまったら、リームは立派な犯罪者になってしまう。
まずい!
次の瞬間、僕は何も考えずとにかくリームの元へ駆けた。
ここでリームに男を殴らせる訳にはいかない。僕の中にあったのは、ただそれだけであった。ここでリームが男を殴り、その事実が発覚すればただちに治安機関によって捕縛の対象とされてしまう。そうなってしまったら喜ぶのはブレイザー一家だけだ。目的を妨害するバウンサーの片方がいなくなってしまうのだから。
襟をしっかりと掴まれて逃げるに逃げられない男は、恐怖のあまり歯をしっかりと噛み締め目を閉じた。昨日は大の大人数人がたった一撃でまとめて吹き飛ばされたのだ。その威力をまともに浴びて無事でいられるとは到底思えないのだ。
頼む、間に合え!
握り締めた右拳が振りかぶられ、狙いを男の顔に定める。
そして、拳は放たれた。
ガツンッ!
そんな鈍い音が頭の中で響いた。それと同時に、一瞬方向感覚が完全に消え失せ、まるで自分の体が水の中に浮いたような浮遊感に襲われる。数秒遅れて衝撃が背中にじんわりと広がる。それで僕はようやく床の上に背中を強かに打ちつけた事を認識した。
リームが男を殴ろうとした瞬間、僕が強引に間に割って入ったのだ。そのため、男を殴るはずのリームの拳は代わりに僕の頬に当たり、そして僕はそのまま背中から床に倒れこんだ。あまりの衝撃に意識が激しく揺れ、ここまで思い出すのに随分と苦労した。
「グ、グレイス!?」
思わず慌てたリームは、すぐに男を投げ捨てて何とか立ち上がろうとしている僕の元へ駆け寄ってくる。僕は何とか立ち上がろうと、まずは上半身を起こした。しかし、すぐに世界が揺れるような平衡感覚の喪失感に見舞われる。
「なにやってんのよバカ! 急に割り込んできたら危ないでしょう!?」
うっかり僕を殴ってしまった事に珍しく狼狽の表情を浮かべるリーム。普段は多少の事では動揺しないリームも、さすがに今の事には平然としていられないのだろう。
けれど。
僕はそんなリームの頬を、すぐさま平手で打った。
パンッ。
静まり返った店内に、そんな乾いた音がやけに響き渡った。
「え……?」
まさか僕にそんな事をされるとは思ってもいなかったのだろう。リームが唖然として僕を見ている。それでも僕はそれで止まらず、更に追い打ちの言葉を続けた。
「バカなのはリームの方だ。こんな事をしたってしょうがないだろう? 少し頭を冷やして考えようよ」
そして思い出したようにリームが僕に張られた頬を手で触れる。まるで本当に僕にぶたれたのか、それを確かめるような仕草だ。
「ほら、行くよ。早くここから出るんだ」
僕は出来るだけ素早く立ち上がると、茫然としているリームの手を引いて店を後にした。
軽い脳震盪はあったものの思ったよりダメージはなかったようで、意外にも足取りがしっかりとしている。僕はリームの手を振り解かれないように強く握り締め、足早に店を後にした。これ以上ここにいてしまっても騒ぎが拡大するだけだ。
リームはすっかり黙り込み、驚くほど素直に僕に連れられている。普段からは想像もつかぬあまりに静かなリームの様子に、僕は少しやり過ぎたかもしれない、と罪悪感を感じた。けれど、あの場はああでもしなければリームは止まらなかったのだ。最悪の事態が起きてしまったら、もっと後悔する事になるのだから。
と。
「あれ?」
丁度ブレイザー一家の店を出て、ゴードン氏の店との間の路上に差し掛かった瞬間、突然膝が何の前触れもなしに崩れた。僕は思わずへなへなとその場に座り込んでしまった。すぐに立ち上がろうとするものの膝はまるで言う事を聞いてくれず、僕はそのまま地面の上でうんうんと唸る。
「ほら」
するとそんな僕に、リームがスッと横から肩を貸してくれた。僕はリームに肩を貸してもらいながら足を引き摺るようにしてゴードン氏の店の中へ戻る。
どうやらリームに殴られたダメージは全くのゼロという訳ではなかったようだ。バウンサーという特殊な仕事柄、半端に体が打たれ強くなっていたためダメージが後から襲い掛かってきたのである。とりあえず、意識を失わなかっただけでも立派なものだ。
リームの助けを借り、僕はゆっくりとイスに座った。殴られた頬はじんと熱く痛み、膝も先ほどからずっと震えっ放しだ。格闘師の拳は文字通り武器と全く大差がないと言われるが、こうして身を持って実感してみると『確かに』とうなづけるものがある。あれがもしも本気だったら、僕は今頃どうなっていたのかと考えるだけでも身震いがする思いだ。
「何か冷やすもの持ってこようか?」
「大丈夫だよ、これぐらい。すぐに収まるから。今、十六日目でしょう?」
頬を腫らした僕に、リームが申し訳なさそうな重苦しい表情でそう訊ねる。うっかり僕を殴ってしまった事がショックだったのか、僕がぶたれたのがショックだったのか。何にせよ、見ていて決して心地良い表情ではない。再びぎゅっと罪悪感が僕の心臓を握り締める。
今は月齢十六日目。本当に僅かだが、活性化したヴァンパイアの血によって人間の時よりも回復力が幾分か高まっている。決してかすり傷と呼べるほど軽いものではないが、通常よりも遥かに早くケガは回復する。既に切れた口の中のぴりっとする痛みも和らいできている。
「あのさ……その……ごめん」
僕とは目を合わせず、ただただ申し訳なさそうに視線を落とし、消え入りそうなほど小さな声でそう謝罪の意を示すリーム。
「いや、僕の方こそごめん。いきなりぶったりして」
するとリームは少しだけ微苦笑を浮かべ、そして頭を横に二、三度振る。
「私、ついカーッと来ちゃって。何にも周りが見えなくなってた。本当にごめん。グレイスの言う通りだった。あんな事してもしょうがないよね」
「もういいよ。それよりもさ、これからの事を考えよう? ブレイザー一家がどこにアニスを連れ去ったのか。ゴードンさんの事はどうしようもないから、僕達が今すべき事はアニスの捜索と救出だ」
最初にやってきた使いの青年は、ほぼ間違いなくブレイザー一家の手先と考えて間違いないだろう。となれば、アニスはどこかに連れ去られたと判断していい。おそらくブレイザー一家はアニスを人質にし、それと引き換えに店の権利書を渡すよう求めて来るのだろう。ゴードン氏は大怪我を負わされているだけに、おそらく気持ちも弱くなっているはずだ。そこに更に実の娘であるアニスを引き合いに出されてしまったら、これまでのように自慢の大声で一喝するような真似は出来ない。こうしてブレイザー一家は、やがて集まってくる金鉱の工夫による営利の独占を達成してしまう事になる。そうなってしまったら僕達の負けだ。たとえどんな事になろうとも、それだけは避けなくてはいけない。一度雇われた以上、クライアントを守るのはバウンサーの最低保守義務なのだから。
「うん、分かった」
こっくりと素直にうなづく。そんな仕草がどこか可愛らしく思えた。
リームは先ほどまでとはまるで別人のように落ち着きを取り戻している。ようやく、今、自分達が最優先しなくてはいけない事が見えてきたようだ。リームは神経質で心配性な僕に比べたら行動力と実践力には遥かに優れている。けれどそれだけに、目的や方向性を見誤りやすいのだ。それを指摘し修正するのが僕のコンビとしての役割である。リームは正しい方向性を理解した。後はそれに向かって突き進むだけである。
―――と。
「あの……何があったんですか?」
その時、店の奥からそんな声が聞こえてきた。僕達は不意をついてきたその声に思わず全身をビクッと震わせて声をした方を向く。そこには傷だらけではあるが、休んだためか先ほどよりは幾分か生気を取り戻したあの青年の姿があった。
そういえばこの人の事、すっかり忘れてた……。
思わずリームの方を見ると、リームも僕を見ながら苦笑していた。どうやら僕と同じだったらしい。