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大変だ……。
青年はとにかく焦っていた。足は既に棒になっているかのように疲労し、呼吸の苦しさも限界まで来ている。けれど、まだ立ち止まる訳にはいかなかった。一刻も早くこの事を伝えなくてはいけないからだ。
額を伝う汗を拭う暇も惜しみ、ひたすら前へ前へ。
が。
ふと、その時。突然背後から一つの影が青年へと伸びる
「―――え?」
「ふう〜。ゴチソウサマ」
正午過ぎ。
僕達は普段通りに昼食を当たり前のように食べる。ゴードン氏は相変わらず出かけたままだったが、普段から店の料理はアニスがやっていたようで、僕も多少手伝いつつ、昼食は無事に用意し終えた。もっとも、アニスの年齢に似つかわぬ手際の良さから考えれば、僕の手伝いはあまり必要ではなかったようだが。
満腹になったリームは心底幸せそうな顔で食後のお茶を満喫している。普段は、食料は持ち歩ける中での限られた量しか食べる事が出来ないため、見た目に寄らず一般人よりも容量の多いリームは満足のいくまで食べる事が出来ない。だからこそ、気兼ねなく食べられる事が限りない幸せなのである。
「ほら、リーム。くつろいでないで少しは片付けを手伝ったらどうなの?」
「はあ? こっちは客よ。なんで手伝わなきゃいけないってのよ」
その傍らで、アニスが小さな体で大きな皿を何枚も重ねて慎重に運んでいる。確かに言っている事は正しいんだけど、この光景を見ても何も感じないのだろうか? 大抵の人間は、思わず手伝ってやろうという気持ちになると思うのだけど。
とにかくリームに期待しても仕方ないようなので、僕だけでも手伝おうと皿やカップを片付けやすいようにまとめ始める。
と。
「あ、いいですよ、グレイスさん。私がやりますから」
そうアニスはニッコリ微笑むと、皿を持ったまま厨房へ向かう。見た目にも重そうな皿の束を抱えているのだが、割と足取りはしっかりと安定している。
「分かった? さっきもそうだけど、アンタのそれはただのお節介って事なのよ」
このまま手伝ってもいいのかどうか迷う僕に、リームがビシッと言い捨てる。
「……僕は良かれと思って」
「それがタチ悪いっての。相手に悪意があるなら”ザケんなバカ野郎”で済むけど、好意で迷惑な事をやられると断りにくいっしょ? 自分がこうすれば相手は喜ぶんじゃないかな、って考えるのはいい事だけど、実際の行動に移すならば相手の事も考えないとね。割と相手に本当に喜ばれる事をするのって難しいのよ? 単なるお節介になるんだったら、やんない方がましだっての」
リームの指摘は正確に的を射て、僕に反論の余地を与えなかった。
確かにその通り、親切とお節介は非常に良く似ていて一歩間違えればどちらにでも転ぶ背中合わせのものだ。僕はいつもみんなに親切にしようとしているあまり、自分でも気がつかない間に余計なお節介をして逆に迷惑をかけている事もあるだろう。リームはそれを差して僕を『神経質』と呼ぶ。とにかく困っていると思ってしまうと、何が何でも手伝わなくては気がすまないのだ。そんな僕の姿にリームはあきれているのである。
「なんか時々マジメなこと言うね」
「時々って何よ。私はいつもマジメなつもりだけど」
その割に余計なトラブルが絶えないのは気のせいだろうか……?
失言すると首を締められるので、その言葉はあえて飲み込んでおく。
「ま。アニスのようなチビッ子にもプライドってもんがあるのよ。それを自分の都合で妨害すんなって事」
見た所、この店はゴードン氏とアニスの二人で切り盛りしているようだ。ブレイザー一家がやってくる前はどれほど繁盛していたかは分からないが、アニスがああも料理に慣れている所を見ると随分忙しい毎日だったようである。アニスの中には、自分は父親であるゴードン氏と同じほどの仕事が出来るという自負があるのだろう。それを僕が子供扱いしてあれこれ世話を焼かせられたら良い思いをするはずがない。
これ以上出過ぎた真似をする訳にも行かないだろう。
僕はアニス一人に片付けさせる事にして、自分もリームと同じように食後のお茶をゆっくりと飲む事にした。
「良い勉強したでしょ? これを機に、もう少し私にうるさく言うの控えなさい」
「僕がリームに口を挟むのは、誰かに迷惑がかかりそうな時だよ。それと、体を壊しそうな暴飲暴食をしている時」
「まるで私がしょっちゅう余計な事をしているような言い方ね」
「事実だし」
すると、リームは突然僕の両頬を掴んで引っ張り始めた。
「グレイスのクセに生意気だぞ」
「どういう生意気だよ。とにかく、痛いから放してってば」
それから再び気だるい時間が流れ始める。
いや、正確には気だるいのはリームだけで、僕とアニスはどうやってゴードン氏を説得するのか、今後ブレイザー一家にはどう対応すればいいのか、そういった建設的な事について話し合っていた。昨日、あれだけ派手に暴れておきながらブレイザー一家がこのまま黙っているはずはない。時期的にもそろそろ金鉱の工夫が集まり始めてくる頃だ。近い内に何らかのアクションを起こすと考えてほぼ間違いない。それについて、事前に予測出来るだけの事にはあらかじめ対策を講じておく必要がある。相手の出方が分からないため後手に回ってしまうのは否めないが、こちらはこちらで万全の準備を整えておけば決して攻め切られる事はないのだ。
「少し休憩にしましょう。私、コーヒー淹れてきますね」
食べ終えた昼食が大分こなれてきた頃、僕達は話し合いを一旦止めて休憩を取る事にした。会議において、こういう途中休憩は必要である。長い時間一つの事に凝り固まってしまうと、知らぬ間に柔軟な発想が出来なくなり意見が堂々巡りを始めてしまうからである。
「リーム、参加しろ、とは言わないけど、時折意見入れるぐらいしてたらそんなに退屈しないと思うけど」
やる事もなくダレ始めてきたリームにそう忠言する。すると、
「んじゃ、私からのアドバイス。ブレイザーに関係するヤツラは見つけ次第やってしまえ」
「……もうちょっと現実的な意見はない?」
「タチバナ流活殺術を習う。世界最強だから、チンピラ如きは瞬殺必至」
「さっきより遠のいた」
でも、確かにゴードン氏とアニスがリームの半分ほどの強さを持てば、僕達が居なくても十分に店を守る事ができるはずだ。買収などである程度権力を掌握してはいるようだが、基本的には古典的な嫌がらせと暴力手段がブレイザー一家の武器だ。それならば逆により強い力で対抗する事で簡単に撃退できる。もっとも、ゴードン氏はともかく、年端もいかないアニスにそれを求めるは幾らなんでも無茶な事なのだけど。リームだって、生まれつき今のように強かった訳ではない。今に辿り着くまでには、毎日毎日地道な努力をたゆまず重ね続けてきたのだ。強くなる事に近道はない。努力なくして精進はない。タチバナ流は確かに強いけれど、それは長年の修行によりその神髄を会得したらばの話だ。一朝一夕で出来るものではない。今、必要とされているのは、一朝一夕で出来るブレイザー対策なのだ。
―――と。
「おい! 誰か!」
突然、入り口から男の叫び声が飛び込んできた。
視線を向けると、そこには一人の青年の姿があった。激しく息を切らせ全身に滝のような汗をかいている。何か尋常ならぬ事が起こったらしく、青年は酷く慌てた様子である。
「ブレイザー……のヤツじゃないっぽいけど」
「うん。村の人かな?」
ブレイザーの事を除いては、いたって平穏な様子の村なのだけど。一体何が起こったというのだろうか?
とにかく話を聞かなくては始まらない。僕はそっと席を立って青年の元へ向かいかけた。と、
「どうしたんですか?」
その時、今の青年の声を聞きつけ、厨房からアニスがパタパタと出てきた。
「あんたがアニスか!? 大変なんだ! ゴードンさんがブレイザー一家にやられて、ついさっき療養所に運ばれたんだ! 酷いケガをしている!」
なんだって!?
青年の思わぬ言葉に、僕達はその場に一瞬硬直する。場の空気が急激に下がったような気がした。つい何時間か前まではゴードン氏はあんなに元気だったというのに、それがブレイザー一家によって……? 突然の凶報に僕は深い動揺を抑える事が出来なかった。
「とにかく、これから一緒に来てくれ!」
アニスは驚きと動揺を噛み殺しながらも、なんとかこっくりとうなづく。まだ幼いというのに。その気丈さが逆に胸に痛く響く。
「あの、すみませんが留守を任せてもいいですか?」
「うん、分かった。こっちは心配ないから、すぐに行ってあげて」
「助かります」
アニスは深々と一礼すると、そのまま青年と一緒に店を飛び出していった。
そして、二人残った店の中は急にしんと静まり返った。静寂が耳にやかましく、徒に不安感を煽り立てる。騒がしい事はどちらかというと苦手な性分だが、今はこの静寂がすぐにでもかき消したくて仕方なかった。
「……にゃろう、今度はそう来たわね」
リームは苛立ちと殺気を放ちながら、そう静かで重い口調でつぶやく。静かでありながら、その内には燃え盛る炎のような怒りが秘められている。リームがブレイザー一家のやり口にどれだけ不快感と怒りを覚えているのか、言葉にしなくともひしひしと伝わってくる。
「リーム」
「分かってる。今、殴り込んだってしょうがないもの」
昨日は招待された上での出来事だったから、まだ他の人間に説明はつく。けれど、今ブレイザー一家に殴り込みをかけてしまったら、それはただの犯罪行為としか見られない。ゴードン氏の件があったとしてもだ。ほとんどの国では仇討ちや報復に関する行為は一切禁止している。そのため、たとえどちらにしても僕達が罪を問われる事は避けられない。それにブレイザー一家も、これまでの事を考えればおそらく証拠となる痕跡は残していないだろうし。今、僕達が動いたとしても得をするのはブレイザー一家の方だ。
それにしてもゴードン氏は大丈夫なのだろうか? その不安は拭ってしまえるほど軽いものではなかった。いつまでも油のように粘着質に、僕の胸中にべったりと張り続ける。
今はただ、ゴードン氏の無事を願って待ち続けるしかない。
僕は何度も自分にそう言い聞かせながら、必死で浮き足立つ自分を押さえつけた。