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さて、と……。
朝食も綺麗に食べ終わり、わざと時間をかけてゆっくりと飲んでいたコーヒーも底を尽いた。
イスにいつまでも座ってくつろいでいる理由もない。いよいよこれからゴードン氏の元に僕は向かわなくてはいけない。なんとか昨日の件についての許しを貰い、ここにもうしばらく滞在する許可を得なくてはならないのだ。
今、僕達がこの村から出て行ってしまったら、ほぼ間違いなく近い内にブレイザー一家がこの店を休業に追い込むため、何らかの裏工作、もしくは直接的な行動に出てくるだろう。村の近くで見つかったという金鉱を発掘するための工夫が集まってくれば、評判や体裁の問題もあるためそういった露骨な攻撃に出ることが出来なくなる。そこまで持ちこたえる事が出来ればこちら側の勝利だ。けれど、時期的に考えればブレイザー一家が最後の追い込みに出てくる頃だ。もうそろそろ手段どうこう選んでられなくなってきているはず。ゴードン氏がその事についてどれだけ認識しているのかは分からないけど、とにかく今は、普段ならば躊躇ってしまうような手段にも躊躇なく出てくる危険な時期だ。そこに僕達が更に拍車をかけてしまっている訳でもあるし、現実的な戦力面を考慮した上でも、今、僕達が村を離れるのは決して賢明な選択ではない。たとえ知り合って間もない人だとしても、そういったトラブルに巻き込まれて不幸になるのは夢見のいいものではない。それもあるし、何よりも僕達は人を守るプロであるバウンサーであるからこそブレイザー一家からこの店を守らなくてはいけない。戦闘に関してはプロである僕達は、そう滅多な理由でクライアントを見捨ててはいけない。事情はあれにせよ、僕達のクライアントがアニスである事実はまだ変わっていないのだ。
「じゃ、じゃあ、そろそろ行ってくるね」
「おう、行ってこい。アニス、コーヒーもう一杯ちょうだい」
そんな強い決心とは裏腹に。僕の声は情けないほど震えている。リームは僕に向かって一言素っ気無く答えると、傍らのアニスに空になったカップを突き出した。すぐにアニスはコーヒーポットからリームのカップに注ぐ。僕がどうなろうと、あまり興味はなさそうである。別に期待していた訳ではないけど。どこか突き放されたような、寂しげというか落胆というか、そんな気持ちになった。
駄目だ駄目だ。こういう期待と称して人に甘える考え方が、僕の気弱で勇気に欠ける性格がいつまで経っても好転しない原因になっているのだ。ここは一つ、ビシッと気合を入れていかないと。リームがいつも口癖のように言っているじゃないか。気合があれば何でも出来る、と。
「あの、大丈夫ですか? グレイスさん」
と、アニスが僕に心配そうな表情で訊ねてくる。
「な、なんとか……多分」
自分よりも一回り年下の子供に心配され、助けて下さいなんて弱音を吐く訳にもいかない。けれど、本音では今すぐにでも助けを請いたいぐらい気持ちが切迫していた。正直言って、とてもあのゴードン氏の迫力を前に終始冷静でいられる自信はないのだ。本当はリームかアニスについて来て貰った方が精神的には楽ではあるのだけど、それを胸にしがみついているプライドが良しとしない。そのプライドはプライドで、僕に『それでも男か!?』と盛んにリームみたいな口調で捲くし立ててくる。本音では助けを請いたくても、それをプライドに邪魔をされてしまう。そんな状態の中で僕は、表面的には普段の平静さを装いながらも、その胸中は今にも倒れそうなほどの不安で破裂しかけている。
「私も一緒についていきましょうか? 私がいれば、お父さんもそんなに暴れたりしないと思うから」
暴れるの!?
アニスの言葉に、思わずそんな叫びを上げそうになった。何とか寸前で飲み込んだものの、動揺は先ほどにもまして大きくなってしまった。頭の中で理性が一人、大変だー、と駆けずり回っている。
「だーいじょうぶだって。なよなよっちく見えて、実は結構肝が座ってるから。ね?」
フォローしているつもりなのか、そうリームが笑顔を向ける。今度こそ本当に思っているらしく、先ほどのような投げやりな様子が見られない。けれど……
「ハハハ……うん。まあ、何とかなるよ」
リームには悪いのだが、それでは逆にプレッシャーになってしまう。とにかく表面的な落ち着きだけでも維持しようと、そんな普段滅多に使わない根拠の乏しい言葉でぎくしゃくと微笑み返す。しかもそういう時に限って、何が何とかなるだ、と理性が冷たい突っ込みを入れる。この理性だけはいつも冷静沈着で、僕にズキッとくる鋭い指摘を皮肉交じりに入れてくる。この冷静さが、少しでも普段の僕にあればどれだけ楽な事だろうか。
どうしてこんなつまらない意地を張っているのだろう? 駄目そうならそれで、ちゃんと素直に助けを請えばいいのに。大事なのは自分のプライドを守る事ではなく、ゴードン氏とアニス、そしてこの店をブレイザー一家から守り抜けるかどうかなのだが。
また例の理性がそう冷たく指摘して来はしたものの、僕は依然として意地を張り続けた。絶対に自分一人でなんとかしてみせる。その熱い見栄は、そう信じて止まないようだ。
僕は重い足を引き摺りながら、ゴードン氏のいる厨房へ向かう。立ち止まろうにも、背中を見栄が盛んに小突いてくるので止まる事が出来ない。もう、こうなったら。自棄は起こさないけれど、自分の力を信じて真っ向からぶつかっていくしかない。どうせ、幾らゴードン氏とは言っても同じ人間だ。それを考えたら何一つとして恐れるべき要素はないのだ。
とにかく低姿勢で臨むことにしよう。理屈よりも誠意を見せない事には始まらない。
「し、失礼します」
恐る恐る厨房へ足を踏み入れる。まるでオバケ屋敷や熊の巣にでも入るかのように、僕は酷く緊張して額には嫌な汗を浮かべている。幾ら気を強く持とうとしても、元来の自分は如実に生理反応として現れている。
厨房は窓を開けて外から日光を取り込んでいたため、ほとんど食堂と変わらない明るさだった。アニスがちゃんと毎日片付けているためか、厨房は初日の夜にアニスと入った時と全く変わらず綺麗に整頓されたままである。
僕は恐々ではあったけど、早速ゴードン氏の姿を探す。
―――と。
「勝手に厨房に入るな!」
突然、厨房の奥から雷鳴のような怒鳴り声が飛んできた。僕は思わず姿を確認する前に逃げるようにして厨房から飛び出した。そしてそのまま、今度は中に入らぬよう入り口にぴったりとへばりつき、もう一度恐る恐るゴードン氏の姿を探す。
「厨房ってのはな、客が勝手に入っていい場所じゃねえんだ。ガキじゃねえんだから、そんぐらい憶えておけ」
ぬっと奥の暗がりから姿を現すゴードン氏。その表情は先ほどと同じく不機嫌で、それが相変わらず迫力に満ちた容姿に一層の凄みを与えている。
「何の用だ? 青ビョウタン」
「あ、あの、実は少々お話が……」
ずかずかとゴードン氏がこちらに向かって歩み寄ってくる。我を忘れて逃げ出しそうにはならなかったものの、出来ればすぐにでもこの場から退散したい気持ちは相変わらずだった。もしこの場に幼い子供がいたら、一目散に逃げ出しているはずだ。こんなに大柄な成人男性が、凄みを利かせた表情で不機嫌そうにずかずかと歩いてくるのだ。子供にしてみれば恐怖の対象以外の何者でもない。
「実はですね、その、今後の事なんですけれども」
「邪魔だ、退け」
と、ゴードン氏は話に耳を傾けようともせずにずかずかと歩きながら僕を押し退けて厨房を出る。
「おい、アニス。俺ぁちょっと出かけてくるからな。店番しておけよ」
「うん。いってらっしゃい」
ゴードン氏は唐突にそうアニスに外出を告げる。アニスはまるであらかじめ予測していたのか、それともいつもの事なので慣れていたのか、特にこれといった詮索もしないままゴードン氏をあっさりと見送る。
僕はその後ろを追いかけようか追いかけまいか、情けないことに心底悩んだ。本当は足止めし、ちゃんと説明と釈明と弁解をするべきなのだろうけど。その思いとは裏腹に、このまま行かせてしまえば怖い思いはしなくて済むぞ、と不謹慎な言葉が頭から離れようとしない。そして、そのどちらとも決めかねず立ち往生している間にもゴードン氏は店の入り口の寸前まで辿り着いてしまっている。
「ん? そうだ」
ふとゴードン氏は入り口の前で来てから足を止め、おもむろにこちらを振り返る。その視線の先にあるのは、僕と、コーヒーを優雅に楽しんでいるリームだ。
「お前ら、俺が帰ってくる前にさっさと出て行けよ。本当は叩き出してやるところだが、あいにくと俺はいちいちお前らの相手をするほど暇じゃねえんだ」
そう早口で吐き捨てると、今度こそずかずかと店から出ていった。
助かった……。
何故か、まずその言葉と同時に安堵の溜息が出た。自分はゴードン氏を説得しなくてはいけない立場にあるというのに。それに失敗しておきながら安堵するなんてどういう事だろう? それは言うまでもなく、ゴードン氏が怖かったからだ。そして、それを冷静に判断していながらもあえて行動に移さない自分に自己嫌悪を覚える。
「何? あれ。えっらそうにさ。どうせ客なんか来やしないってのに、何が忙しいよ」
目の前にアニスがいるというのに、何の遠慮もない言葉でぼやくリーム。幾ら事実とはいえ、そういう不名誉な事は通常は慎むものなのだけど。
「なんとか……もう少しいられそうだね」
はあ、と安堵の溜息を漏らすアニス。
「お父さんって、あんまり素直な性格じゃないからね。きっと夕方ぐらいまでは戻って来ないと思けど、そこから先は分かんないよ」
「じゃあ、その間に何か良い作戦を考えよう。ゴードンさんが帰ってきたら、多分今度こそ追い出されると思うし」
こっくりとうなづくアニス。
今回は失敗、というよりもアタックすら出来なかったが。いい経験は出来た。合い向かった時、一体どれだけの威圧感の中に立たせられるのかを知ることが出来た。これだけでもかなりの心の準備が出来る。後はもう一度、どういう風な言葉を用いて説得するのかを再度考え直せばいい。
「あ! いいアイデア思いついた」
突然、リームがカップをテーブルの上に置きながらそう嬉しそうな声を上げた。
「どんなの?」
「入り口とか窓とか、全部釘で打って固定するの。これで帰って来れなくなるわ」
やっぱりそんなもんだね……。
確かに帰って来れなくはなるけれど、それは全く方向性と意味合いが違う。第一、そんな事をしても余計にゴードン氏の機嫌を損ねるだけだと言うのに。がっくりと肩を落とすのと同時に溜息を漏らしてしまう。
「あのね、締め出したってしょうがないでしょ?」
この調子のままでは、追い出されるのも本当に時間の問題だ……。