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「あー、お腹空いたなー」
 そろそろ夕方になろうかという昼下がり。リームはテーブルの上にだらしなく突っ伏したまま、そうやけに覇気のない声で愚痴る。
「晩御飯まで、まだ時間はあるよ」
「分かってるわよ。ただお腹が空いたから言ってみただけだもん」
 ふん、とふて腐れたかのようにリームは突っ伏したままそっぽを向く。そんな子供っぽい仕草に、僕はやれやれと苦笑を浮かべた。昼食の時は、ローストチキンを三羽、食パンを三斤、キャベツ三つ分のサラダ、他多数。それだけ食べたのに、もうお腹が空いただなんて。僕も旅をするようになってから体力を使う機会が多くなり、アカデミー時代よりも食は随分と太くなった。けれど、リームはその軽く倍以上の量を食べてしまう。野宿が続くような時は先の事も考えてそれほど食べたりはしないのだが、食べる時は本当に驚くほどの量を食べる。この体のどこにそんな量が収まるのか不思議で仕方がないが、もしかするとリームの小柄な見た目にそぐわない腕力の源はこの食欲にあるかもしれにない。
 そういえば。前に野宿の際、あまりの空腹に耐えかねて山奥に獣を獲りに行った事があったっけ。死ぬ気で探せ、と言われて何か手頃な獲物がいないか探させられたんだけど、結局二時間ほど経ってからリームがイノシシを一頭捕まえてきた。そしてたった一晩で僕らは一頭丸々普通、イノシシなんて素手で捕まえられるような動物ではないのだけど、リームが捕まえたそれは一撃で首の骨を折られていた。どうやって捕まえたのかは今更明言する必要もないだろう。アカデミー時代には、熊すら捕まえた事があるのだし。
「ったく、あー退屈ぅ。連中サッパリやってこないし。今日あたり、総力戦でも仕掛けてくるかなあって予想してたんだけど」
「それは予想じゃなくて、自分の願望でしょ?」
「アンタ退屈じゃない訳?」
 僕に図星を刺され、ぶう、と拗ねた表情で問い返すリーム。
「退屈なのは良い事だよ。平和の現れだもの」
「腑抜けてるわね」
 ふう、とがっかりだといわんばかりの表情を向けるリーム。
 とにかくリームは活発的な性格で、同じ所にいつまでもダラダラと大人しく留まっている事を酷く嫌う。だからこうして一つの場所に定住せずあちこちを回る旅は、そんなリームの性格にはぴったりだと言える。けれど今回は、幾ら退屈だとしてもこうして定住せざるを得ない。今までやってきた仕事は、ある目的を達成するか、もしくは契約した期間を満了すればそれで終わりだ。だが今回は、事実上無期限の護衛が仕事の内容だ。仕事が終わる時は、ブレイザー一家がこの店に手を出さないというはっきりとした確証が取れた時だ。それまでは否が応にもここに居続けなくてはいけない。
「グレイスぅ、お小遣い。おやつ買ってくる」
「駄目だってば。暇になるたびに食べてたら太るよ」
 僕達の間で金銭の管理はほとんど僕が一元的に行っている。別にリームが計画性なしに使うからという訳ではなく、単にリームが細々して面倒な事を全て僕に押し付けているからだ。だから、仕事の契約や報酬の交渉、交通の確認や必需品の管理、果ては宿屋探しといったものは全て僕の仕事だ。
「だったら、ちょっと相手してよ。本気で打たないからさ」
 ぎゅっと握ったこぶしを僕の頬にぐりぐりと押し付けてくる。組み手をやろうと言うのだ。格闘師が魔術師に言うセリフではない。
「どこでやるの? 店の中だときっと物が壊れるし、店の外だとみんなが変な目で見るだろうし」
「じゃあ何をしろってのよ。食べるのも駄目、トレーニングも駄目。やることなすこと駄目ばかりじゃん」
「じっとしてようよ……」
 人間、年齢を重ねればそれ相応に落ち着きや風格というものが自然と備わってくる。これが一般的な通説だが、やはり通説は通説、あくまでごく一部の例にしか過ぎないのだ。リームは初めてあった時から今日まで全く変わっていない。いつも明るく朗らかで、何事も恐れず積極的。好奇心旺盛で、新しいものや興味を持ったものには飛びつかずにはいられない。格闘技に対する姿勢はいたって謙虚で、日々修練を怠らず、少しでも前に前にと踏み出す貪欲さを持っている。そして、かなり自己中心的。ことごとく僕とは正反対の性格だ。そんなリームを見ていると、まるで僕の弱い所を鏡に映し出されているような気持ちになってくる。だからリームの天真爛漫な性格が羨ましいと感じる事がそう少なくはない。
 ようやく観念したのか、ふう、と溜息をついて再びテーブルの上に突っ伏した。
 これでしばらくおとなしくしてくれるだろうか?
 前に本で読んだ事があるのだけど、歴史上名高い格闘家達の写真は皆、落ち着きのあるどっしりとした風格の漂うものばかりだ。身の上について読んでみると、かなり厳しい禁欲生活を送っていたり、はたまた人間嫌いという訳でもなく山に閉じこもり、禅と荒行の末に悟りを開いたという人までいる。格闘家達は独自の精神文化を築き上げている。それは自然と一体化する自然思想、質素を旨とする自然回帰思想、自分の精神世界に飛び込み新たな扉を開くスピリチュアル思想、等々。どれも非常に高度な精神修練に結びついた難解なものだ。けれど、こう言っては悪いが、リームにはその内のどれも当てはまらない。自分の欲求には非常に忠実だし、禅を組んで自分と対面するなんて事もしないし、物静かな所も苦手だ。あくまで自分の道を貫き通す所は同じかもしれないけど、それは言い換えればただのワガママであるし。
 リームは最強というものに人並以上にこだわりを持っている。相手がなんであろうと立ち向かい、そして勝利する。それがリームが最も理想とする格闘スタイルだ。そのスタイルはきっとほとんどの格闘技を志した人が同じだろう。けれど、そこに辿り着くまでに歩む過程で選んだルートが、リームは周囲とは少々異質なのだ。
 と。
「そうだっと」
 おとなしくなってから一分と経たず、またすぐにリームはテーブルから起き上がると、まるで飛び上がるような勢いでイスから立ち上がった。そのままリームは隣の席のテーブルへ向かって行った。そしてキョロキョロとなにやら物色し始める。
 何をするつもりだろう?
 リームが唐突な行動をするのにはもう慣れたが、一度として安心して見ていられた事はない。リームの閃きの大半は、あまり喜ばしい事ではないのだ。
「うん、イイカンジ」
 そう言ってリームは手近にあったイスを二つ手に取った。そしておもむろに一つを大胆にも頭上目掛けて放り上げる。
「あ!?」
 驚きのあまり思わず声を上げてしまう僕。けどリームは続けてもう一つのイスを放り上げた。そのイスが放り上げられた頃、最初に放ったイスが手元に落ちてくる。それをリームは難なくキャッチすると、また放り上げる。そして同時に次に放ったイスが手元に戻っていき―――。そんな永久運動を繰り返す。
「ちょ、お店のもので何してるんだよ!」
「ん? ほら、これで筋力トレーニングと暇潰しが出来て一挙両得」
 慌てる僕に、リームはさも当然のように平然と答える。
「ねえ、これって三個いけると思う?」
「今すぐやめて! 壊したりしたら、怒られるのは僕達だよ!?」
「ちぇっ」
 しぶしぶとイスを元の位置に戻すリーム。一体何をするかと思ったら、まさかイスでジャグリングを敢行するなんて。
 それにしても、ゴードン氏とアニスが買い物に出かけていて本当に良かった。こんな所を見られたら、ゴードン氏に叩き出されても文句は言えないのだから。
「最近、少し口うるさいぞ」
 つかつかとリームが歩み寄ると、僕の頬をぎゅっと左右に引っ張った。一応本気でやってはいないようだけど、それでも痛い事に変わりはない。僕は何とかリームの腕を一つずつ頬から離した。
「リームが落ち着きないせいだよ。いちいち言われるのが嫌なら、もうちょっと大人しくしてよ」
「フンだ。どうせ私はガサツで落ち着きのない女よ」
「いや……そこまで卑下しなくても」
 と、その時。
「ごめんください」
 突然、店の中に一人の男性がやってきた。アイボリーのコートをきっちり着込み、頭には同じアイボリーの帽子、首には白いマフラーを巻いている。一見すると都会の道路を歩いていそうな紳士然とした姿だ。
 お客さんだろうか。けど、今はこの店の人はどちらも留守にしている。
「あ、すみません。今、お店の人は留守にしているんですけど」
 すると彼はアイボリーの帽子を脱ぎながら静かに微笑んだ。
「いえ。私はあなた方に用事があるのです」
 そう表情の持つ静けさ同様の落ち着いた動作で軽く一礼する。
 僕達に用事?
 彼のその言葉に、僕達はハッと緊張する。来たばかりのこの村に、フリーバウンサーである僕達と繋がりのある人などいない。ましてや訪ねて来た彼は全くの見ず知らずの人間だ。にもかかわらず、僕達に用事があると来たという事は。考えられるのは……。
「まさか……ブレイザー一家の?」
「ええ、御察しの通り」
 半信半疑の僕の問いに、彼はそう微笑みながら答えた。
 今度は僕達に用事が?
 ブレイザー一家が用事があるのは、この店の所有者であるゴードン氏だけだと思っていたが。それが今度は僕達に用事があるなんて。一体何が目的なのだろうか? おそらくブレイザー一家は昨日のリームの件の事から考えると、きっと僕達を自分達の目的を妨害する邪魔者と思っているはず。だからここにやってきた理由は、僕達に対してなんらかの攻撃を仕掛けに来たと考えるのが一番妥当だけど……。
「グレイス、やっちゃっていいんだよね?」
 ぱあっと嬉しそうな笑顔を浮かべ、リームがコキコキと指を鳴らす。ブレイザー一家を悪者と認識しているため、ブレイザーの言葉に反応したのだ。
「っと、すみません。私にはあなた方とやりあう気は毛頭ありませんよ。今日は、お二人をご招待しに参ったのです」
 すると彼は一歩下がりながら苦笑する。僕の月齢十五日目の鋭い感覚が、彼がどうやら本当にやりあうつもりはない事を感じ取る。
 けど。
 招待?
 予想しなかったその言葉に、僕は思わず首を傾げた。邪魔者であるはずの僕達をわざわざ招待するなんて。
 とにかく、ブレイザー一家のボスが僕達と接触を図ろうとしている事は予想できる。けどそれは必ずしも、一緒に食事をして和やかに楽しみましょう、なんて穏やかなものではない。きっと何らかの形で僕らを引き抜くつもりなのだろう。成功すればそれで良し、出来なければ生きては帰さない。そう考えてほぼ間違いないだろう。間違いなくこれは罠だ。
「招待ってことは、何か食べさせてくれる?」
 しかし。リームはそんな僕の意図とは裏腹に、まるで彼の言葉を鵜呑みにして目を輝かせている。
「ええもちろん。シェフが腕によりをかけた料理をご用意しております」
「よし、乗った!」
 元気良く答えるリーム。完全に彼の申し出通り、向かいに建つブレイザー一家の店の元へ本当に行くつもりでいるのだ。そこに待ち受けるのは僕達を排除するための罠とも知らずに。
「では参りましょう」
 彼はリームの色よい返事に満足げな笑顔を浮かべると、アイボリーの帽子を被り直してコートの襟を正す。そして店の外へと歩き出した。
「ちょ、リーム!?」
 僕はすぐさま彼の後をついていこうとするリームの肩を掴んで止めた。このまま何も知らずについていっては、相手の罠に見す見すはまるようなものだ。そんな危険を冒す訳にはいかない。
 けれど。  リームは振り返ってウィンクし、人差し指を口に当てて見せた。静かに、何も気がついていない振りをしろ、という意味だ。
 そして、どこか悪戯っぽい含みのある笑顔。面白いから誘いに乗ってやろうじゃない。そんな挑戦的な笑みだ。
 リームは僕が危惧するまでもなく、相手の目的についてはとっくに気がついているようだ。しかし、相手が罠を用意して待ち構えていると知りながら、あえてリームは誘いに乗ろうというのだ。面白そうだから。それをほんの退屈しのぎにしか思っていないのだ。
 やれやれ……やっぱりこうなるか。
 好き好んで危険に飛び込もうとするのもリームの悪い癖だ。仕方がない。なんとか僕がフォローしてやらなければ。