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 午前七時半。そろそろ朝食の時間だ。普段もこのぐらいの時間に食事を取るため、習慣化した体もこの時刻になると軽い空腹感を覚える。
 僕達は顔を洗って身だしなみを整えると、部屋を出て下に降りていった。
 やはり朝は多少肌寒い。気がつくと肌に触れる服の冷たさに、思わず腕を擦って温めてしまう。頬にも刺すような感覚が時折走る。
「もう落ち着いてる?」
 ふとリームが僕にそう訊ねてきた。
「うん、大丈夫だよ。少なくとも今日一日はもつと思う」
 リームは明け方前に起こった僕の発作の事を言っているのだ。僕の体にはヴァンパイアの血が流れている。それの影響で、時々僕は無性に人間の血が吸いたくなるのだ。無理に我慢すれば理性を失って暴走し、取り返しのつかない事態に陥る。だからそうなる前に、リームが僕に自分の血を飲ませてくれるのだ。
 月齢十五日。僕の体に流れるヴァンパイアの血が最も活発に動く時期だ。体も比較的人間から魔族よりになるが、幾らか感覚が鋭くなるだけで他は劇的な変化はない。それよりも、普段より遥かに発作が起きやすくなる。しかも発作はいつもより激しい。収まるのに必要な血液の量も幾分か増える。
「んじゃ良かった。さって、ゴハンゴハン。足りなくなった分、食べて取り返さなくちゃね」
 下に降りると、そこには既にアニスの姿があった。小さな体で大きなモップを操り、手際よく掃除をしている。
「あ、おはようございます」
「おはよう。朝から忙しいそうだね」
「お客さんがいなくても、埃は溜まりますから」
 アニスは最後にもう一往復すると、モップと隅にあったバケツを持って奥に向かう。と、 「朝食はもうちょっとかかるけど、先に何か飲みますか?」
「じゃあ、コーヒー二つ」
「はい、かしこまりました」
 笑顔で愛想よく答えると、忙しそうに奥へ引っ込んでいった。
 店にゴードン氏の姿や気配は見当たらなかった。おそらく昨夜のお酒の影響でまだ起き上がれないのだろう。だが、同じ量を飲んだリームは割と元気である。不思議だ。
「それにしても。どうしてここ、客が来ないの? いい酒持ってるんだけどなあ。やっぱ、あのオヤジが客をどつきまわすからなのかな?」
 リームがきょろきょろと周囲を見回しながらぽつりとそう呟いた。まるで初めてこの店に入って来たような素振りだ。昨夜の記憶はほとんど残っていないのだろう。
「そういえば、まだ説明とかしてなかったよね。向かいの店の事とか」
「何かあったの?」
「うーんと……。ほら、昨日の二人組の事憶えてる? リームが追い返したやつ」
「二人組? そんなことあったかな」
 はて、と首をかしげるリーム。
 やっぱり思い出せないか。あの時はリームも酷く酔っていたし、一晩経って昨日の記憶はかなりあやふやになっているだろう。無理もない事だ。
「じゃあ、最初から説明するね」
 僕は昨日アニスに聞いた、この店とブレイザー一家との事を説明し始めた。
 村の近くで金鉱が見つかった事。近々、その発掘のために大勢の人が村に集まること。そしてブレイザー一家は、その客を独占するために同業者を潰している事。
 こういった利権に関する問題というものはやたらグレーゾーンが多く、場合によっては泥沼化する複雑な事態にも発展する。僕は正直あまりこういう事に関わるのは気が進まなかった。クライアントの護衛過程での問題なら、そういったものはクライアントが解決してくれから心配はいらない。僕達バウンサーの仕事は、戦闘や緊急事態等の危険からクライアントを守るという、対極的に考えればただの勝ち負けという単純なものだ。バウンサーは荒事だけをクライアントの命令通りにこなせれば良い。
 けれど、それは裏を返せば、バウンサーは戦闘以外の事に関してはまるで無力という事の現れでもある。確かにブレイザー一家の行っている事は違法行為であるが、それを法的に告発し白日の元にさらすには、弁護士のように法律全般に通じていなければいけない。無論必要なものはそれだけではないのだけど、少なくとも戦闘以外に能のない僕らに何とかなる問題ではないのだ。かえってとばっちりを受けてしまう危険性だって十分に考えられる。触らぬ神に祟りはないのだ。
「……という事態なんだけど。分かった?」
「何よ、人をアホみたいな言い方してさ。ちゃんと分かったってば」
 ぶう、と不機嫌そうに唇を尖らせるリーム。
 さすがに本人の前では言いにくいのだが。特にこういう込み入った事情がある場合、リームの理解力は御世辞にもあまり芳しくはない。これまでも仕事内容の説明は僕が聞いて、後からリームに分かりやすく説明し直している。ちゃんと仕事内容を把握せず、リームがとんでもない勘違いをして取り返しのつかない事になってしまったら、うっかりでは済まされないからだ。
 さすがに敵味方の区別がつかないほど理解力に乏しい訳ではないけど、とにかく細かい事にこだわらないせいで依頼内容が精密さを要する場合に、ひやりとするような事が度々あった。確かに戦闘において、時には豪胆さや勇猛さも必要だ。けれど、リームのは直進性に優れている分、方向性を誤り易い。だから僕が正確な方向指示をしなくてはいけない。
 とは言っても、僕達は性格も何もかも正反対だが、そのためうまく互いの欠点をフォローし合うことで歯車を綺麗に噛み合わせて動かせる。僕は昔からそうなのだが、いざという時に頭が真っ白になったり、敵に対して臆してしまう事がある。生まれ育った環境が過保護だったせいか、とにかく自分でも情けなくなるほど臆病なのだ。だから戦闘中でも普段のままに振舞えるリームは、僕をただ突っ立っている事がないようにうまく引っ張ってくれる。自分でも素晴らしいコンビネーションワークだと思っている。こんな僕らだからこそ、これまでに目立った失敗も犯さずにうまくやっていっているのだろう。
「要するに、連中が悪者で、ここに嫌がらせしてるんでしょう?」
 自信たっぷりの笑顔で答えるリーム。ほぼ間違いなく、件のブレイザー一家を壊滅させれば事は解決すると思っている。無論、壊滅するというのは物理的にだ。
 確かに間違ってはいないが……。なんというか、あまりに大雑把だ。
 やはりもう一度説明し直した方がいいだろうか? 既に向こうは僕達の事を知っているかもしれない訳だし……。
 そこへ、
「お待たせしましたーっ」
 パタパタとアニスがお盆を手に厨房からやってきた。お盆の上には、コーヒーカップが二つ、温かそうな湯気を立てて並んでいる。コーヒーの香ばしい香りが鼻をくすぐる。
「はい、どうぞ。こちらがお砂糖です」
 僕達の前にそれぞれカップを静かに置き、最後に白いシュガーポットを置いた。
 今の僕には朝も夜もあまり関係ないのだが、やっぱり寝起きの時間に飲む飲み物は温かいものがいい。なんとなく一日が始まったという気持ちにさせ、温まった体が本格的に活動を始めるような気がするからである。
 コーヒーに砂糖をスプーンで四杯ほど入れ、ぐるぐるとかき回す。僕はあまり苦いものは得意ではないので、普通の人よりも少し多めに砂糖を入れる。そういえば、あの人はコーヒーを飲む時は砂糖は全く入れなかったっけ。どうしてあんなに苦いものを普通に飲めるのだろうか。とても不思議である。
「あんたも大変ねえ」
 ふと、その時。リームは砂糖を入れぐるぐるとスプーンでコーヒーをかき回しながらアニスに向かってそう言った。
「何とかしてくれないの? 自警団とかさ、そういうの」
 初めアニスは、一体何の事を言われているのか分からずきょとんとしていた。しかし徐々にリームの言いたい事に気づき始め、どこか表情に影を落とし始める。
「ちょっ、リーム」
「ん? 何か間違ってた?」
「そうじゃなくてさ……デリカシーの方が」
 リームは基本的に嘘や誤魔化しが大嫌いだ。非常に表裏のない性格で一本気な所は誰からも好感が持てる性格だとは思うのだが、その反面、根があまりに正直過ぎるため時として意図せずデリカシーに欠ける発言をしてしまう。本人には何ら悪気はないのだが、悪気があろうとなかろうと言われた方にとってしてみれば、不愉快になる事に何ら変わりない。
 しかし。 「大丈夫だもん。うちのお父さん見たでしょ? あの調子ならなんとかなるわよ」
 アニスはそう元気一杯に答えて微笑んで見せた。
 強がってる。
 満月で感覚が鋭敏になっていなくともそれは十分に窺い知れた。アニスの表情はどう見ても無理に意識した作り笑いだ。犯罪まがいの行為を当たり前のように行う集団に狙われているのだ。幾ら父親が強くともそれは絶対的なものではなく、この先も必ず大丈夫だという保証はない。アニスはそれを憂いているのだ。わざと平気な振りをして。本当はどうしようもないほど不安で不安で仕方がないはずだ。
「とりあえず、あと一ヶ月くらいかな? この村に金鉱で働く人達が集まってくるまでお店を守れたらこっちの勝ち。さすがに人が大勢いる中では、これまでのように露骨な嫌がらせは出来ないはずだもの」
 確かにそれはその通りだが。今の調子ではとてもそれまでもちそうもない気がする。あの手の集団は、基本的に目的のためには手段を選ばないのだ。金に訴えても駄目、暴力に訴えても駄目、だったら今度は、何か弱味をつくような卑劣な手段に出る事も辞さないだろう。もしかすると、建物に火をつけて燃やしてしまうようなことをするかもしれない。そんな不安に日常的にアニスとゴードン氏はさらされているのだ。その心労は僕なんかには計り知れないものがある。
 と―――。
「ねえ、グレイスさん。バウンサーって雇うのどれぐらいかかるの?」
 突然、アニスがそんな事を訊ねてきた。
「どうしたの? 急に」
「んっとさ、その……。私、お父さんのこと助けてあげたいの……。やっぱりさ、このままじゃ不安だから……」
 アニスは僅かに涙を浮かべていた。
 やはり不安で仕方がなかったのだ。無理もないだろう。アニスはまだ幼い子供だ。こんな小さな子供が、父親と店の事を心配していれば否が応にも神経は磨り減っていく。これまで気丈に振舞えただけでも十分に驚嘆に値する。
 僕は返答に悩んだ。心情的には即答してあげたい。だけど、僕達はバウンサーである。危険からクライアントを守る仕事はよくやっているが、こういう建物や土地に関してはまるで役に立てそうもない。出来るのは、向こうの実力行使を防ぐぐらいだ。一応、相手は合法と違法との境界線を熟知した上で、捕まらない程度、たとえ捕まったとしても軽犯罪で済むような程度に攻撃してくる。明らかに違法性をはらむ攻撃に対しては正当に反撃は出来るが、そうでもない事に関してはまるで無力だ。だから、たとえアニスを助けてあげようとしたとしても、決して事態が好転するという保証はしてやれないのだ。
 が。
「じゃあ、なんとかしたげよっか?」
 返答に悩んでいたその時。僕よりも先にそう口を開いたのはリームだった。
「要はその連中を潰せばいいんでしょう?」
「いや、それは犯罪だって」
 幾らなんでも、向こうが悪者だからと言って一方的に襲い掛かり潰してしまったら、それはただの犯罪行為だ。野盗と同じレベルである。こういう事情があったとしても、犯罪は犯罪だ。法というものは、善人も悪人も平等に裁き、そして保護するのだから。
 やっぱりそういう認識なんだね……。今度のはそんな単純なものじゃないのに。
「ま、何とかなるっしょ? 任せておきなさいって」
 ケラケラと笑うリーム。僕にとってそれは不安感を煽る以外のなにものでもなかった。
 そして、こういう展開になるんだね……。
 僕は溜息をつかずにはいられなかった。けど、アニスのどこか安心したような笑顔を見ていると、さすがにそんな事は出来なかった。
 仕方がない。こうなったらやるだけやろう。これも人助けの内に入る訳だし。