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『ファリニス、ファリニス! 待ってよ!』
俺のすぐ前を、ファリニスが小さな体ですばしっこく駆け抜けていく。もう少し早く走れば追いつけるのに、幾ら力を出してもうまく走れない。走っても走っても、ファリニスの姿はすぐ目の前にあるのに、俺はちっとも前に進まない。
ファリニスは時折振り返っては、俺を急き立てるかのように短く吠える。それに応えるためにも一生懸命俺は走るが、追いつくどころかファリニスとの差が見る見る内に開いていってしまう。
『待って! どこに行くんだよ!』
俺が幾ら叫んでも、ファリニスは振り向きもせずどこかへ駆けて行った。
俺は無我夢中で走った。とにかくファリニスに会いたかった。
ギャァァウン!
その時、この世のものとは思えぬ凄まじい悲鳴がどこからか聞こえてきた。
ファリニスだ。
俺はファリニスの姿を求めて走った。すると今度は何故か、俺が走っている以上に前に進む事が出来た。まるで飛んでいるようだ。
『ファリニス!』
声の聞こえた方に向かうと、そこには大柄で筋肉質の男と、その足元には血まみれになって転がっているファリニスの姿があった。
『畜生の分際で、人間様に触んじゃねえ!』
ぐしゃっ、と男はとどめと言わんばかりにファリニスを踏みつける。男は唾を吐きかけ、まるで汚らわしいものを見るような目つきで一瞥して去っていく。
『ファリニス!』
俺は半泣きになりながらファリニスの元へ駆け寄り、その小さな体を抱き上げた。ファリニスの血がべっとりと手につく。体にはまだ温かさ残っているが呼吸がなく、目は虚ろに宙を見つめていた。
『嫌だ! ファリニス! しっかりしてよ!』
涙と血で顔をぐしゃぐしゃにしながら、ひたすら泣きじゃくる俺。
『許さない! 絶対に! お前なんか死んじゃえばいいんだ!』
やめろ……。それ以上は駄目だ……。
すると、男はゆっくり振り返った。
『なんだ、このガキ! 大人に逆らうんじゃねえ!』
自分の倍以上もある男が俺を凄まじい剣幕で睨みつける。だが俺は臆することもせず、真っ向から睨み返した。深い深い憎しみを込めた目で、俺は男を睨み続けている。
やめろ! 駄目だ! もうやめろ!
『死んじゃえ! お前なんか大嫌いだ!』
より一層怒りを込め、俺は男を睨みつける。
まるで人を殺す時のような目で。
やめてくれ! それ以上続けたら―――!
「ガイアッ!」
と、突然激しい言葉に俺は揺り起こされた。目の前にあったのは、セシアの心配そうな顔。
意識が夢うつつから急に現実に引き戻され、俺はちりじりばらばらになった記憶の断片を集め整理する。そしてようやく俺は、これまで自分が眠っていた事に気づく。
「俺は……?」
「夕食の時、無理に飲んだせいで酔い潰れて眠っちゃったのよ。憶えてないの?」
そういえば、微かにそんな気がする。確かヴァルマ達に強制されたんだ。
「うなされてたわよ……? もしかして、あの夢?」
その問いに、俺はこっくりうなずいた。
甲で額の汗を拭いながらゆっくり上体を起こす。思ったよりショックが大きかったようで、それだけの事でもやたら体がだるい。
「まさかこんな所で逢うなんて思ってなかったからな……思い出してしまったのかも」
自虐的な笑みを浮かべ、溜息をつく。
「ガイア……」
そんな俺を、セシアがスッと抱きしめた。心地良い感覚に俺は目を細め、身を委ねる。
あの夢。
それは、俺が生まれて初めて人を殺した時の夢だ。
殺したのは俺。
殺されたのはあの男。
当然の事だが、子供だった俺があんな大柄な男を相手にまともにやって勝てるはずがない。
俺があの男を死に追いやったのには理由がある。
俺の目が、『邪眼』と呼ばれるものだからだ。生まれつきの異常体質である。
邪眼には凄まじい力が与えられている。
それは『呪い』だ。
俺は、相手の死を願いながら睨む事で用意に人を殺す事が出来る。睨むだけ。たったそれだけだ。
殺すとまではいかなくとも、僅かでも悪意を込めて睨めば、その相手には様々な厄災が降りかかる。
自分の力に初めて気づいたのはその時だった。それ以来、俺は自分の目を酷く忌み嫌った。この目を本気でえぐり出そうとしたのは一度や二度ではない。簡単に人を殺せる力を持った目。しかも自分でも制御しきれないほどの力だ。だから俺は、視線はいつも下向きにするクセがついている。そうすれば、うっかり人を呪う事もないからだ。
俺のこの体質を知っているのは、この世ではただ一人、セシアだけだ。俺の両親だって知ってはいない。俺が知られないように隠しているからだ。
セシアは俺の体質を知っても忌み嫌ったりしない。それどころか逆に受け入れ、支えてくれている。セシアのおかげで気持ちが救われた事なんて数え切れない。もしセシアがいなければ、とっくに俺は目をえぐるか孤独のまま死を選んでいただろう。
「お風呂入ろっか? 汗だくよ」
「……ああ」
その返事にセシアは微笑み、早速仕度を始めた。
「なあ、あのさ……」
「なあに? また別れるなんて言い出すつもり?」
カバンの中から着替えを出しながら、深刻な口調の俺とはまるで正反対の明るい口調で答える。
「だってさ、俺の目、いつセシアを良くない目に遭わせるのか分からないんだぞ?」
「それも聞いたわ。大丈夫よ。私の事、あなどってない? 伊達に天才なんて呼ばれてた訳じゃないんだから。呪いなんて効かないわ」
「でもさ、必ずしもそうとは……」
「第一、散々人をもてあそんでおいて、今更別れようなんてムシが良過ぎない?」
「も、もてあそんでなんかないって」
と、慌ててそう言った俺に、セシアは愉快そうに微笑む。
「ガイアって、あの夢見るたびこんな事言うんだから。私がいなくちゃ何にも出来ないクセにさ」
「そんな事ない。大体、俺がいなかったら、朝は誰が起こすんだ?」
朝、起きるのは俺が先だ。セシアが時間通りに自分で起きた事など一度もない。
「そういう事よ。ほら、早く」
バスルームの前で、おいでおいでと手招きするセシア。普段は決してやらないおどけた仕草だ。
どうやら、また一人で勝手にネガティブになってたようだ。すぐに自虐的になるクセこそまだ直っていない。
「はいはい、今行きますよ」
苦笑交じりにそう答え、ベッドから降りた。
TO BE CONTINUED...