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セシアは深い溜息をつきながら芝の上に寝転んだ。
額にはおびただしい量の汗が浮かんでいる。だが、今はそれを拭う事すら煩わしいほど体が疲労していた。池に落ちたせいで服は濡れているため体にべっとりと張り付いてきて気持ち悪いが、それすらも気に止める余裕がない。辛うじて出来たのは、横たわる場所を気持ち焚き火よりにするぐらいだった。
呼吸も荒く、激しく肩と胸が上下している。顔色はやや色艶を失い、目からも覇気が失われている。回復には時間がかかる。そうセシアは自分の体を診断した。とりあえず立ち上がるまでに十分ほどは必要だろう。
「セシア、兄様は!?」
シルフィがすぐにセシアの元へ駆け寄ってきた。表情は相変わらず暗く、精神的な余裕が微塵も感じられない。緊張に張り詰めた表情だ。
「ええ、終わったわ。もう大丈夫。すぐに目が覚めるはずよ」
芝の上に寝転んだまま、そうニッコリと微笑んで見せる。だが法術治療を集中的に行った事による疲労のため、その笑顔は実に力強さに乏しい。
「少し休ませて。見張り、お願いね」
「うん、後は任せてて」
シルフィもようやく笑顔を浮かべ、また再びヴァルマの傍に戻って座り込んだ。そしてヴァルマの手を取って両手で握り締め、額に当てて何かに祈り始める。
ヴァルマは前よりも落ち着いた呼吸で静かに横たわっていた。顔色も悪くなく、容態は極めて落ち着いている。しかし、幾ら完璧な治療を施されたとは言え、その直後に意識を取り戻す訳ではない。ヴァルマは常人ならば即死してもおかしくはないほどの衝撃に見舞われたのだから。
パチパチと薪の弾ける音だけが辺りには響いている。セシアもシルフィも、共に一言も言葉を交わさない。セシアには体力的な、シルフィには精神的な余裕がないからだ。
セシアはうっかり眠ってしまわぬよう、目だけはしっかりと開いて空を見つめていた。
雲一つない澄んだ空だ。風も気温も実に心地良く、どこかに出かけたくなるようないい天気だ。こんなにも良い日柄にこうしている事が惜しく感じられる。
後宮に向かったガイアとエルフィはどうしているだろうか? ガイアは肝心な所が抜けていて危なっかしいし、エルフィもシルフィと同じでヴァルマの事になると意外と頭に血が昇りやすい気質だ。そんな二人だけであの鮮血の騎士を追っていったのだから、どうしても気がかりになってしまう。ならば早く後を追えばいいのだが、法術を使い過ぎた直後の体はどうにも言う事を聞いてくれない。疲労もここまで来ると、精神論で何とかなるというものではない。
早く体が回復しないだろうか。
ただその事だけを考えながら、じっと横たわって回復を待つ。時間はゆっくりと音もなく刻まれていく。
と―――。
「む……」
治療を終えてから十分が経過しようとしたその時。今まで静かに横たわって眠っていたヴァルマの体が僅かに動き、煩わしそうに唸る。
握り締めていた動かない兄の手が反応を示した途端、ハッとシルフィの表情が変わった。握り締めていた手を額から下ろし、そっとヴァルマの顔を覗き込む。ヴァルマはまぶたを強弱をつけてつぶり、首を僅かに左右に動かす。深い所に沈んだ自分の意識を引き上げようとしているのだ。
「セシア!」
思わずシルフィはそう叫んだ。
「どうしたの?」
「兄様が、起きそう!」
「え?」
セシアは思わず体を起こした。見ると確かにヴァルマは自分で目覚めようとしている。
治療が終わってまだそれほど経っていないというのに。これも、ヴァルマの体を強化している神器、魔宝珠の力の賜物なのだろうか。
自分もヴァルマの元へ向かうべく、ゆっくりと立ち上がった。ずしっと疲労感がのしかかってくると思っていたが、意外にも体はずっと軽い。どうやら体はかなり回復しているようである。
「兄様! 大丈夫ですか!?」
シルフィの訴えが聞こえたのか、やがてヴァルマは唐突に目を見開いた。そしてゆっくりと体の感覚を確かめるように上体を起こす。だが頭には微かに痛みが残っていたらしく、起こしたその反動で口元を僅かに歪めて頭を押さえた。
「ここは……」
「兄様!」
状況の把握も出来ぬままきょろきょろと辺りを見回すヴァルマ。だがそれも構わずにシルフィはヴァルマに抱きついた。
「シル? そうか、無事だったんだな。良かった」
先ほど橋から落とされた時、ヴァルマは身を呈してエルフィとシルフィのクッションとなった。そのおかげでエルフィとシルフィは無傷に済んだが、ヴァルマは地面との激突の角度が悪く、このような大怪我を負ってしまった。幾ら神器で体を異常なほど強化していたとはいえ、落下の衝撃に加え人間二人分の重力を頭部に受けてしまっては無事で済まない。辛うじて即死は免れたものの、セシアがいなければ今頃最悪の事態に陥っていただろう。
シルフィはヴァルマの胸にぴったりを顔を埋めて震えていた。そんなシルフィの頭を、ヴァルマは優しく撫ぜる。
「思ってたよりも早く目覚めたわね。どうやら回復力も強化されてるみたいだけど、普通の医者がこんな所を見たら間違いなく驚くわよ」
「それもそうだが、あいにくと強化してから医者にかかったのは君が初めてでね。今後はあまり過信せぬように気をつけるさ」
「どこか体におかしい所はない? 腕とか足とかは診察しなかったんだけど」
「ああ、極めて良好だ。特に問題はないが、私の怪我はどれほどだった?」
「頭蓋骨亀裂骨折、ってところね。頚椎も少しやってたわ。念のため言っておくけど、頭蓋骨は完全にはくっついていないわよ。普通に生活する分には問題ないけど、完治するまでにはもう二、三日はかかるわ」
常人ならば昏睡状態に陥る重傷だ。それがこうして普通にいられるのは、セシアに天才的な法術の力と、ヴァルマ自身の生命力のおかげだ。
「このぐらいなら問題はない。世話になったな。おかげで命拾いしたよ」
そう言ってヴァルマは微笑んだ。
セシアもヴァルマ達の微妙な変化に薄々気づいてはいたが、ヴァルマのこういった何気ない仕草にも、以前のような陰気さと人を跳ね除ける壁がなくなっている事が実感できる。
「ところでエルはどうした? ガイアもいないようだが」
「後宮の中に向かったわ。鮮血の騎士を追って」
「そうか」
シルフィは僅かに嗚咽を漏らしながらヴァルマにしがみついている。ヴァルマにもしもの事が起こってしまうのがよほど恐ろしかったのだろう。その恐怖に耐えていた緊張感がようやく切れたため、感情の奔流を抑える事が出来なくなっていた。
そんなシルフィを、ヴァルマは優しげな目で見つめながら肩を優しく抱き締める。
「シル。ほら、いい加減に泣き止むんだ。私はもう大丈夫だから」
「……はい」
顔を上げて涙を拭うシルフィ。ヴァルマはそっと頭を抱き寄せて口づける。
セシアはそんな二人の様子に、気恥ずかしさのあまり思わず視線をそらしてしまった。ヴァルマ達のこれは今に始まった事ではないのだが、いつもはエルフィも一緒にいたため、辛うじて不道徳な想像をせずに済んでいたのだ。これでは兄妹というよりもまるで恋人同士のようである。この兄妹にとっては、そういった定義はほとんど意味などないのだが。
「さて。我々も向かうとするか。二人だけではいささか心配だ」
「あまり動かない方がいいわよ。まだ治療したばかりなんだし」
「とは言っても、やはりエルが心配でな。じっとしている訳にもいくまい。な?」
「はい。早くエルの所へ行きましょう」
そう問われたシルフィも、まったく異存はないという表情で答える。
幾らヴァルマの回復力が驚異的でも、つい十分ほど前は死にかけていた人間が戦いに赴くなんて、医者が聞いたら怒り心頭してしまうほど無謀な行為だ。セシアも医者の一端には違いないのだが、ヴァルマに寝ている事を強要する気にはなれなかった。案じながら休んでいたところで、体に決して良い訳はない。それに、自分にとって大切な人間を助けに行くという意思は仲間として尊重すべきである。
「それじゃあ行きましょうか」
セシアはゆっくりと立ち上がった。やや足元がふらついたが、しっかりと芝の上に立てる。ベストな体調にはほど遠いが、戦闘に参加するには十分だ。
「君の方こそ大丈夫なのか? 治療の後で体は相当疲弊していると思うが」
「大丈夫よ、もう。キャパシティには自信があるんだから」
だがそれはほとんど痩せ我慢である。あれだけの治療をした後なので、本当は今すぐにでも眠りたいほど疲れている。だがそれを気力で抑え込むのも、法術師という職柄、慣れてしまっていた。だからある程度まで回復してしまえば、動く分には問題はないのである。
セシアは焚き火にかざしていた自分の上着を取る。すっかり乾いたようだったので、中の服は湿ったままだが袖を通した。ガイアの上着もそのままになっていたので、一緒にそれも持つ。
「よし、では行こう」
三人は出発の準備を整え、早速後宮に向かう事にした。後宮の入り口は三人がいた場所からは目視できるほど近くにある。ここからは大雑把に一直線だ。
と。
背後から何者かの足音が聞こえる。三人はそれをほぼ同時に聞きつけ、ぴたっと足を止めた。
静かに目配せをして、今聞こえた音がみんなも聞こえたのかを確認する。そして改めて注意を背後に向けると、そこには確かに何者かの気配が感じられる。距離にして、およそ十メートル強。
「まさか……」
三人の間に緊張が走った。鮮血の騎士の登場は、これまでも急に自分達の前に現れる唐突なものだ。それを考えれば、この状況もそうであると考えても決して的外れではない。
「兄様は下がっていて下さい。ここは私が」
「油断はするなよ」
「はい」
シルフィは静かに深呼吸を二度繰り返す。そして最後にもう一度大きく息を吸い込み、その直後、くるっと踵を返して駆け出した。
それと同時にセシアとヴァルマも振り返った。セシアはガンバンテインを構え、ヴァルマは右手に魔力を集中させて障壁を展開する準備を取る。
「うわっ!?」
二、三歩ほどでシルフィは十メートル強の距離を駆け抜けていた。だが、途中でそこに立っていたのが鮮血の騎士とはまるで違う人物に気づいたシルフィは剣の柄から手を放し、そのままザーッと音を立てて地面を滑りながら止まった。
「人違い……?」
「そのようだな」
そこにいたのは、一人の中年の男性だった。この建物内に自分達以外でいる人間は鮮血の騎士だけだと思っていたため、どうやら三人とも早とちりをしてしまったようである。とりあえず、戦闘の緊張を解いた。
「あなたは誰ですか?」
「あ、いや……」
シルフィのその問いに、男は口篭もった。三人の突然の行動に驚き、すっかり浮き足立ってしまったようである。