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後宮に足を踏み入れると、むせかえるようなカビの匂いが襲い掛かってきた。表の城ほど人の出入りがないらしく、埃の溜まり具合もかなり凄まじい。大概のハンターは城には入って来れるが、後宮まで辿り付いた者はそうはいないだろう。ほとんどがあの鮮血の騎士に追い出されているはずだ。
ここのどこかに鮮血の騎士がいる。いや、もう彼の本来の名前で呼ぶべきだろうか……。どちらにせよ、まだ第三者に公表出来るだけの確固たる確信を得るまでには至っていないのだ。自分の中だけの確信としてしまっておくのが良策だろう。
「ねえ、ガイア」
「ん? どうかしたか」
エルフィ一人の質問というのは、どうにも慣れないので違和感は否めない。シルフィとワンセットになっているのが、俺の中では当たり前になっているからだ。
「鮮血の騎士、何か作戦でもあるの? 考えなしに行ったって、また前回の繰り返しだよ」
「ぼちぼち考えはまとまってるって。ま、俺に任せとけ」
鮮血の騎士の持つ両刃の剣は、フラガラッハという名前の特殊な力を持ったものだ。フラガラッハに斬りかかられると、相手は精神を攻撃されて防御する気を失わされてしまう。剣のこういう性質は神器に近いだろう。
これを持っていたからこそ鮮血の騎士は無類の強さを誇っていたのだろう。振れば必ず当たる剣だ。こんな無茶苦茶な武器は他にはないだろう。とはいえ。神器もそうだが、完璧な武器というものはこの世には存在しない。セシアの持つガンバンテインも、魔術に対しては完全に無敵ではあるが、それ以外のものには全く無力なのだ。要は発想の転換である。そこにフラガラッハの弱点があり、既に俺はそれを掴みかけている。
不安げなエルフィを力づけようと、俺は努めて明るくそう言った。だが、
「それは無理」
エルフィはきっぱりと言い捨てた。
「おいおい、やけにはっきりと否定するなあ。そんなに信用ないか?」
「兄様に比べたら、頼り甲斐は天と地ほどの差がありますから。任せろって言われて不安になるなという方が無理な相談です」
エルフィもシルフィも、ほぼ間違いなく男性を見る時の基準は兄であるヴァルマだ。当のヴァルマは性格こそ陰険だが、顔もスタイルも魔術師としての実力も、ありとあらゆるものが人並以上に優れている。そんなヴァルマを基準にされると、大抵の男は篩い落とされてしまっても仕方がないだろう。俺は可もなく不可もない一魔術師にしか過ぎないのだし。
「とにかくだ。何とかなるって」
「ガイア、何か隠してる?」
「は? なんで」
唐突に思わず首をかしげてしまうような質問を飛ばしてきた。
「いつも他力本願のクセに、今は妙な確信に満ちてるもん」
「そう見えるか? じゃあ俺も少しは成長したって事だろ」
「私にしてみれば、サナギの背中が割れた程度だけどね」
「手厳しいことで」
そんなやりとりをしながら階段を上がり最上階へ。
そこには大きな扉の寝室が三部屋あった。察するに、国王王妃の寝室、王女の寝室、王子の寝室、といった所だろう。
俺は先ほど鮮血の騎士が立っていたベランダの方角から推測し、二番目の扉を開いて中に入る。
かなり埃を被ってはいるが、暖炉やベッドはそのままになっている。天井の隅にはくもの巣がびっしりとはえ、薄汚れたカーテンも広げられたままになっている。
確かここでいいんだよな。
俺はカーテンを端に押しやりベランダに出てみる。手すりはかなり老朽化しているように見えるが、触ってみると芯はまだ健在である事が分かった。さすがに後宮だけあり、さぞ名高い建築家の指揮で建設されたのだろう。
先ほどここに鮮血の騎士が立っていたのだが、既にここにその姿はない。一体どこに行ってしまったのだろうか。また後宮の中を戻って捜し直さねば。
眼下を見下ろすと、中庭にはセシア達の姿が見えた。依然としてヴァルマの意識は戻らぬようで、ぐったりと横たわったまま動かない。そんな兄を心配そうに見つめるシルフィの姿が痛ましく、俺は目を背ける。
ここからあの王女は……。
橋から落ちて気を失った時、ふと夢の中で見たあの光景を思い出す。イブリーズとベアトリーチェの最後の光景だ。今でもイブリーズの絶叫が生々しく頭の中に聞こえてくる。人が真に絶望した時の咆哮は、俺にとってはあまりに刺激が強過ぎて耳に痛い。幾ら他人事とは言っても、心を痛めずにはいられない。
居た堪れない気持ちが込み上げて来た。すぐに部屋の中に引き返す。
「ほうほう」
部屋の中ではエルフィがキョロキョロと周囲を物珍しそうに見回している。確かに後宮の内部なんて普通は入る事は出来ない。王族の生活なんて一般に公開されるなんて事はなく、伝聞での情報が僅かに流れてくるだけだ。廃墟とはいえ、こうして生で見られるのはかなり貴重な体験だろう。
「ねえ、ここがどうかしたの? やけに真っ直ぐに来たみたいだけど」
「いや。やっぱエライ人の部屋だから何か分かると思ってさ」
まさか夢で見たから気になって、なんて言う訳にもいくまい。そんな事を真顔で言うのも恥ずかしいし、エルフィにはバカにされるのも目に見えている。
俺は会話を断ち切ろうと部屋の隅にあった机に物色するために近づく。机の上には特にこれといってそれらしいものはない。宝石箱の中も確かめてみたが、空っぽで何も入っていない。おそらく宝石類はあらかた持ち去られたのだろう。
続いて引出しを開けてみる。
「ん?」
ふと俺は引出しの中から一冊の綴りを見つけた。どうやら日記帳のようだ。
「日記か……どれどれ」
「人のプライバシーを覗くなんてフケツ」
「うっさいなあ」
エルフィの小言には耳を塞ぎ、中をめくってみる。
今日、中庭でつまずき転びそうになった私をイブリーズ様が受け止めて下さいました。失礼いたしました、と恐縮なさいましたが、私は一向に構わないのですけど。まだまだ私達は王女と騎士の間柄でしかないのでしょうか? 今、こうしている間に、イブリーズ様は私の事を考えていますでしょうか? 私はこれほどお慕い申しております。親愛なるイブリーズ様。貴方はどうして―――。
う……これは……。
読んでいるだけでもなかなか恥ずかしい気持ちになってくる文面だ。思わず途中で文字を追うのをやめてしまった。とりあえず、王女がどれだけイブリーズを想い焦がれていたのかはよく分かった。
「ふうん。なかなかおアツイのね」
いつの間にかエルフィが横から覗き込んでいた。俺とは違い、文章を一句一句真剣に読んでいる。
「覗きはフケツなんじゃないのか?」
「同性なら許されるのです」
また訳の分からん理屈を。
「あ、これって随分古いんだね。ほら」
エルフィがしおりをつまみあげて俺に見せる。そこにはこの日記がいつからつけ始められているのかが記されている。どれどれ、と俺はその年号を確かめてみる。
「なっ、ご、五十年前!?」
思わず俺は声を裏返してしまった。
そういえば、最初にヴァルマがこの城は五十年前に戦火を受けて廃墟になった、って言ってたっけ。
ここで一つの疑問が浮上する。あの鮮血の騎士がイブリーズであるらしい事は分かった。だが、当時の彼の年齢はせいぜい二十代の半ばから後半だ。つまり今、彼は齢八十に届きそうな老人という事になるのだ。けど、実際に対峙してみた時、とてもそんな年齢とは思えないほどの強さだった。
ただでさえ、何故今頃になってここに現れたのか、という疑問も残っているというのに。一体、あの鮮血の騎士とは何者なのだ?
「鮮血の騎士ってさ、もしかするとスゲエ老人なのかも……はっ!? まさか、仙人!?」
「急に何言ってるの? 脳みそまでカビ生えた?」
「まで、って何だよ……」
とりあえず、こうしていても仕方ないので俺達は部屋から出た。
「次はどこに行くつもり?」
「ああ、とりあえずあっち」
「適当言うな」
「動物的勘、と言ってくれ」
実際、勘以外に頼れるものがこちらにはないのだ。鮮血の騎士の行動パターンなんて全く掴めていないし、相手の居場所を察知するにも気配があまりに薄過ぎて不可能なのだから。
最上階から一つ下に降りる。そこからは何のためにあるのか分からない、とにかく無数の扉があった。客室にしてはあまりに多過ぎる。こういう所、やっぱり金持ちと庶民との意識格差が感じられる。
「全部調べるつもり?」
「一応……」
はあ、と露骨な溜息をつかれる。
「だって仕方ないだろう? 他に手段もないんだし」
「兄様なら、もっと効率のいいやり方を考えてくれるのに」
「あーそーですかい」
そうふて腐れて見せるが、それはあっさりと黙殺されてしまった。