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「イブリーズ=ヴァンシュタイン。これまでの功績を称え、貴公を我が飛竜騎士団の千人団長に命ずる」
「謹んでお引き受けいたします。身に余る光栄、必ずや陛下の御期待に添えてみせる所存であります」
ふと気がつくと、見知らぬ風景が俺の目の前に広がっていた。
そこは城の謁見の間だった。一本の赤い絨毯の両脇には、黒い甲冑を身にまとった騎士達が並んでいる。
初老に入った頃の男が、自分の足元でうやうやしくひざまずいている男に勲章を授けている。男は全身を甲冑で包み、頭部だけを自分の隣に置いている。人よりもかなりがっちりとした体格を持っているのが、甲冑を着ていてもよく分かる。
これは、なんだ……?
疑問に思った俺だが、頭の中は深くもやがかっていてうまく回らない。まるで体が考える事を拒否しているかのようだ。寝起きの直後のあの状態が延々と続いているような感じだ。
と、唐突に目の前がぐるぐると迷走し始めた。
コーヒーの中にミルクが溶け込むように、景色と景色とがごちゃごちゃと混ざり合う。世界という色が崩れていく。キャンバスに描かれた風景画に絵の具を塗りたくっていくように、俺の前が黒く濁る。そして最後には何もなくなってしまった。
現実ではない。
そう俺は直感した。こんな物理法則を無視したような現象が実際に起こり得るはずがないのだ。あるとしたら、俺は幻術にかかっているのか、もしくは夢でも見ているかだ。ここに至るまでの過程を考えればその内のどちらかなんてのはすぐに分かるはずなのだが、その肝心の所が思い出せない。
やがて、かき混ぜられた風景がゆっくりと別の風景を作り始める。あらゆる色が混ざって出来上がった混沌の黒は晴れていき、正常な世界の色を生み出していく。俺の目の前に広がったのは、先ほどとは別の風景だった。ただ直感的に分かったのは、その場所が先ほどの場所からはさして離れてはいないという事だ。
「イブリーズ、千人団長への昇格、おめでとう」
「ありがとうございます、姫」
そこは周囲に色取り取りの草花が植えられ、白い石が細かく敷き詰められた綺麗な歩道が伸びている。その道を二人は並んで歩いていた。一人は先ほどの騎士、もう一人はおそらくはこの城の王女だろう。
俺の意識と視線は、まるで舞台でも見ているかのように客観的にその様を見ていた。二人には俺が見えていないらしく、侵入者と咎められてもおかしくない俺に見向きもしない。
「あまり嬉しそうには見えませんね? 嬉しくないのですか?」
「申し訳ありません。無愛想さは父親譲りなのです」
「貴方の父君もまた、勇猛果敢な騎士として有名でしたわね」
その女性はくすっと笑って騎士の顔を見上げる。
あれ? この人は……。
ふと俺の頭の中に、稲妻のように一つの記憶が蘇った。このイブリーズという男と連れそっている女性は、俺が昨夜、あの橋の上で会った女性だ。
「これで貴方も後宮に入る事が出来ますね」
「そんな恐れ多い。私が立ち入りを許可されるのは中庭、それも警備のみです」
確かに、後宮のような場所に甲冑に身を包んだ騎士が入る事を国王が許すはずがない。大方、国王がそれなりに腕が立ち信頼のおける騎士を選出し、後宮の警備に当たらせたのだろう。その騎士がたまたま、このイブリーズという男だったという所だろうか。
「貴方が警備についてくれるのでしたら、夜は安心して眠れますわ」
「勿体無いお言葉です」
そこでまた唐突に景色が歪む。全てを飲み込む混沌の黒がうごめき始めた。
本当に俺は、一体どうしたんだ? 確か……。駄目だ、思い出せない。
考えども考えども、俺は全く何も思い出せなかった。ただ、自分という自我の塊がこの不思議な世界に存在していて、そこで起きる出来事を見ながら終始感想を述べている。
「イブリーズ、お前は強いな」
再び混沌の中から別の風景が構築される。
今度は何やら生意気な口調の子供がこちらを見上げていた。髪は綺麗に切りそろえられ、着ているものもかなり質のいいものである。顔立ちもどこか気品がある事から、おそらく皇太子だろう。
場所は雰囲気から察するに、先ほども見ていた後宮の中庭内のどこかだ。比較的草木がなく、あの白い石が円形状に広く敷き詰められている。中央には乳石の彫刻で作られた噴水がある。皇太子が遊ぶためにと作られた広場なのだろうか。
「光栄です、殿下」
イブリーズは視線を皇太子と同じ高さに合わせるため、膝をついて大柄な体を低くしている。甲冑こそ身にまとってはいなかったが、黒い鞘に収められた大剣を腰に携えている。
「この国でお前にかなう人間はそうはいないだろう」
「いえ。世界とは殿下が御想像なさっているよりも遥かに広いものです。私よりも優れた戦士も、この国のどこかにはございましょう」
「いや、それはないぞ。お前が最強だ。余がそういうのだから間違いない」
子供らしい理屈でそう主張する皇太子に、イブリーズは僅かに口元に微苦笑を浮かべる。しかし、当の本人はいたって真面目な表情である。
「余はお前のように強くなれるか? 将来は余も、お前のように剣を取って戦役で活躍したいぞ」
「恐れながら、殿下は私共のように剣を持つ必要はございません。殿下は将来、父君の跡を継いでこの国をお治めになられるお方です。ですから剣術ではなく、学問をお修め下さい」
「ならば、余は学問と共に剣術も学ぶぞ。それならば文句はあるまい? 先人は何かと文武両道を尊んできたのだからな」
「しかしながら。二兎追うものは一兎も得ず、という格言もございます」
「そんなもの、努力の足りなかった人間の負け惜しみだ。戦では前線で果敢に戦いながらも、善政を敷いて国を治めた王は、過去に何人もおるぞ。余の目指すところはそれだ」
「左様ですか。でしたら、僭越ながらこの私めが、殿下の大成のお手伝いをさせていただきます」
「うむ。頼むぞ。剣を教える時は、余が皇太子である事は考えずとも良い。弟子は師を敬うものだからな」
イブリーズは困惑気味の表情を浮かべてはいるが、どこかこの幼い皇太子を頼もしく思っているようであった。子供の内からでも、これだけ明確な目標を立てて将来の自分を考える事はそうそう出来ないものだ。
そこで風景が静止し、またもや混沌の黒に飲み込まれていく。そして次に現れたのは、同じ中庭だが夜の風景だった。
周囲には誰の姿もなく、しんみりと静まり返っている。夜の帳は月明かりによってほの暗く照らされ、うっすらと芝の上に二つの人影を照らし出している。
「イブリーズ……」
「姫、そろそろ御寝所に戻らなくては」
昼間とは違う、どこかムーディな空気が漂っている。二人とも言葉数は少なくとも、昼間より互いの距離を狭めて相対している。
と、急に王女はイブリーズの胸に寄り添ってきた。まるでそこにしがみつくように、そっと自分の額を当てる。
「少しだけ……ね」
「姫、このような所をもしも誰かに見られでもしたら……陛下にお怒りを受けてしまいます」
「イブリーズ、姫はやめて下さい。今だけでも」
そんな彼女の体を、イブリーズは抱き締めるべきか否か迷っていた。両の手はどちらにするべきか悩み、中空を意味もなく掻いている。
体は抱き締める事を欲している。しかし、純然たる騎士であろうとする理性がそれを拒んでいる。一人の男と、一人の騎士。その間でイブリーズは大きく揺れていた。
「将来、この国は弟のカールが治める事になります。女の私には王位継承権はありません。それならば、貴方と私が一緒になる事も、父上はきっとお許しになります」
「……ベアトリーチェ様」
かつて二人の間でそう言った会話を交わした事があるのだろうか。結婚をほのめかすようなその言葉に、イブリーズはさして驚いた様子を見せない。
イブリーズはそっと王女の手を取った。大きな彼の手の中に、白くほっそりとした王女の手がすっぽりと包み込まれる。そのまま二人はじっと見詰め合う。
「私と、契ってくれますか?」
「喜んで」
そして、自らの気持ちを伝えようと抱き締めた。
また景色が混沌の黒に飲み込まれた。
これまでを見る限り、これはまるでイブリーズという一人の騎士の回想録のようだ。しかし俺は、イブリーズという騎士は見たことも聞いた事もない。その割には、面識があると呼べなくもない、一応顔は知っている女性の姿も共に見られる。
一体、これは……。
やがて流れていた混沌から景色が飛び出して、これまで通り一つの風景を作り上げていく。その様子を、俺はただじっと見詰めていた。
周囲は薄暗いが、ぽつぽつと何か無数の明かりが照らしている。揺らめく橙色の光がやんわりと薄闇に浮かんでいる。
そこかしこから、金属のひしめく音、何かが壊れる音、そして断末魔の叫びが聞こえる。それは戦争を俺に髣髴とさせる。
今度は一変して危機迫った状況だった。二人は後宮らしき建物のベランダに立っていた。いや、それはむしろ追い詰められていた、と言った方がただしい。
「姫、決して前に出てはなりません」
イブリーズは息を激しく切らせながらも、目の前に並ぶ敵には油断なく剣を構えている。剣の構えた先には、別の鎧を着た騎士達の姿があった。違う国の軍隊に攻め込まれているのだろう。後宮まで押し寄せているという事は、もはや勝敗は火を見るよりも明らかだ。
全身を甲冑に身にまとい、あの両刃の大剣を構えたイブリーズの姿は、近づくだけですら足が立ち竦みそうな程の威圧感を与えてくる。ひしひしとイブリーズの疲労の具合は伝わってくるものの、それを遥かに凌駕する闘争心が敵達をすくませている。
「イブリーズ……」
王女は悲しげな表情をイブリーズの背中に送る。
状況はどう見ても不利だ。こちらは一人、それも彼女を守りながら戦わなくてはいけない。対して向こうは正確な数すら把握できないほど、この場にひしめいている。
「私がなんとか突破口を開いて見せます。ですから姫は―――」
鉄仮面の奥に光る二つの瞳に、決死の覚悟がありありと浮かんでいた。たとえこの場で討ち絶える事になろうとも、王女だけはなんとしてでも救ってみせようという気迫で溢れている。
だが、
「イブリーズ、もういいのです」
王女は憂いを湛えた瞳で、そう静かに首を横に振った。
「姫!?」
その言葉を予想もしていなかったイブリーズは、信じられないとでも言いたげに声を上げて振り返る。
「私はこの国の王女です。敵に捕まり辱めを受けるぐらいならば、この場で自決する道を選びます」
「なりません! 軽々しくそのような事を口になさっては!」
「イブリーズ。貴方ほどの方なら、足でまといがいなくなればきっと逃げ延びる事が出来ましょう。ですから、必ず生き延びて下さいね」
「私は! 私はまだ、貴方との約束を果たしてはおりません!」
「愛しています。さようなら、私のイブリーズ」
背中から倒れるように、王女はベランダの柵からその身を宙に投げ出す。
「姫ッ!」
すかさずイブリーズが手を伸ばす。だが、王女の手はするりと大きな手をすり抜けていった。
あっけないほど簡単に、王女の体はスッと闇夜に飲み込まれ消えていく。やがて、遥か下から僅かに鈍い衝突音が聞こえてくる。
「うああああああああああああああああ!」