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くそっ……! なんで体が動かないんだ!?
鮮血の騎士が俺に向かって剣を振り下ろす刹那の瞬間、俺の理性はしきりに剣を防ごうと躍起になっていた。だが、それとは全く正反対に、体はぴくりとも動こうとしない。あまりに理解に苦しい、自分の中に湧き起こった衝動。俺は別に自殺癖なんてないし、死にたい理由もない。そもそも、死ぬなら何もこんな時を選ばないはずだ。鮮血の騎士の太刀筋はさすがに洗練された鋭いもの。だが、少なくとも身構えた状態で受ける分には決して避けられないものではない。目は完全に刃を捉えている。後は軸足をほんの僅かに右へ踏み出せば避ける事は出来るし、右手に残った魔力で障壁を展開すれば十分に防御は間に合う。けれど、それだけの材料がありながら、俺の体はまるで言う事を聞かない。
刃が目の前まで迫ってきている。
ヤバイ角度だ。俺の体の、丁度真中心を上から下に斬り下ろす軌道だ。人間の体の中心上には、聖門を始めとする急所が集まっている。たとえ真っ二つにされなかったとしても、最低でもどれか一つの急所を直撃するのはほぼ間違いない。
避けなければ、即死は免れない。それは分かっているのだが、体は硬直したまま動こうとはしないのだ。
くそぉっ、ここまでか……!?
そう覚悟しかけた、その時。
不意に激しい金属音が鼓膜に飛び込んでくる。
本当に目と鼻の先の距離に、三本の刀身が交錯していた。一本は上から下に振り下ろされた形で、そして後の二本は左右から伸びて俺の目の前で十字に交わり、その剣の侵攻を食い止めている。
「なにやってるの、このおバカ!」
「なにやってるの、このマヌケ!」
左右から罵声の二重奏を浴びせられる。エルフィとシルフィが、鮮血の騎士の剣を俺の代わりに受け止めてくれていた。
「い、いや、さ……」
体が急に動かなくなったんだ。
そう弁解がましい説明をしようとした、その時。俺は既に自分の体が自由に動くようになっている事に気がついた。腕も足も、まるで凍りついたかのように動かなかった体が、嘘のように元の自由さを取り戻している。
どういう事なんだ? 確かに体が動かなくなっていたというのに……。
「こら、ボーっとしてないで早くどきなさい」
「向こうの方がずっと力があるんだから」
交差させた二人の剣が、僅かにジリジリと押されている。よく見ると、エルフィとシルフィの顔には汗がじんわりと滲んでいる。
二対一だというのにも拘わらず、鮮血の騎士の方が腕力で勝っているのだ。上から下に向ける力の方が重力の補助もある分、下から上方向の力よりも有利ではある。しかし、幾ら重力の恩恵があるとはいえ、エルフィとシルフィの二人よりも上回るとはありえないはずだ。この二人はアカデミーから神器を授与されたほどの剣士だ。フィジカルはそこら辺の男よりも遥かに強い。
「ガイア! やれ!」
と、背中の方からヴァルマの声が飛んできた。
は? やれって何を?
俺は後ろを振り返り、そしてまた膠着した三人の様子を見やる。
よく考えてみれば、今、鮮血の騎士はエルフィとシルフィの剣とで膠着状態に陥っている。言うなれば、完全に無防備な状態。
俺はすぐさま右手に魔力を集中させる。狙うは一点、甲冑の腹部だ。幾ら甲冑が頑丈と言えども、衝撃までをも完全に吸収できるとは限らない。むしろ、金属が固ければ固いほど内部へより強く振動として衝撃を伝えるのだ。つまり甲冑は無事だったとしても、中身までは無事であるとは限らない。
俺はエルフィとシルフィの間から鮮血の騎士の懐へ飛び込む。
「食らえ!」
そのまま軸足を捻り、右足で強く床を踏み込む。それと同時に右の拳で鮮血の騎士の腹を上方向に突き上げ、爆発のイメージを解放した。
爆音がビリビリと鼓膜を震わせる。
これでどうだ! 少しは効いたか!?
はっきり言って手加減という言葉が頭に浮かんでいない。人間相手にそうなったのは実に久しぶりだ。ここまで苦戦させられるなんて、人間相手ではまず考えられないのだから。魔術は凄まじい破壊力を持つ。元々は、肉体的強度で遥かに劣る人間が魔物と対等以上に渡り合うための技術だ。それを人間相手に手加減なしで使えばどうなるのか。筋骨隆々の大人が生まれたばかりの子供を殴るようなものだ。
だが。
「ん? どうだ―――ッ!?」
瞬間、今度は俺の腹に衝撃が走った。
驚くほど自分の体が浮き上がり、そのまま後ろの方へ紙屑のように吹き飛んだ。
床に叩きつけられ、ようやく俺は自分が蹴り飛ばされた事を自覚した。
「やはり物理攻撃では厳しいようだな……」
ヴァルマが俺の前に歩み出る。
「『我が敵を飲み込め』」
そう韻詩を踏むと、ヴァルマの正面に巨大な水球が生成された。水牢と呼ばれる、水魔術の拘束術だ。あの水球の中に閉じ込められると、高められた水圧に全身を押さえつけられながら呼吸の自由を奪われるのだ。
ヴァルマは生成した巨大な水球を鮮血の騎士に目掛けて撃ち放った。
エルフィとシルフィは水球に巻き込まれる直前、左右に散って回避する。水球は剣を振り下ろしかけた無防備な姿勢の鮮血の騎士を飲み込む。そのまま水球の中へ閉じ込めてしまった。
さすがの甲冑も水の中ではただの重りでしかない。これならばヤツは―――。
「今の内に行くぞ。ヤツならば、そう経たぬ内に破ってくる」
「は? だって……」
今だったらヤツも動けないだろうし、やるには絶好のチャンスじゃないのか?
そう思って水牢に拘束されている鮮血の騎士へ目を向ける。するとヤツは、もう右半身の半分以上が抜けかかっていた。
俺達はすぐに踵を返して出口に向かって走った。
陽が落ちると、辺りからはピイピイと昆虫の鳴き声が聞こえ始めてくる。この辺りには夜露を飲んで生きる虫が棲息しているらしい。
結局、あの古城からバタバタと逃げ出してきた俺達は、その古城からさして遠くない場所にある橋の下で野宿をする事にした。街に戻って古城での成果を訊ねられるのが嫌だから、というのが正直な気持ちだ。
「傷はいいのか?」
焚き火の向こうでヴァルマがそう訊ねる。
「ああ。ちょい痣になったけどさ。ま、骨には異常ないし、この程度で済んで助かったよ。エルフィとシルフィには感謝感謝だ」
と、ヴァルマの両脇で剣の手入れをしていた二人が、ひょこっとこちらを見る。
「子々孫々まで崇め称えるように」
「子々孫々まで崇め称えるように」
「はいはい」
どことなく俺に対して余所余所しかった二人だが、ようやく普段のふてぶてしい態度を取るようになってきた。正直俺は二人には、ヴァルマ以上に嫌われるかもしくは恐れられていると思っていたのだけど。この様子だと、何にもとまではいかなくとも、あまり邪眼の事については考えていないようだ。
「よし出来た。エルフィ、シルフィ、ちょっと手伝ってくれない?」
俺の右隣に座っていたセシアが長い沈黙を破ってようやく口を開いた。先ほどから羊皮紙に向かって黙々と何やら書き込んでいたのだが、それが一段落したらしい。
「なーに?」
「なーに?」
「対幽体方陣が出来たの。悪いけど、これと同じヤツを私の背中に描いて」
そう羊皮紙を見せる。そこには、何やら訳の分からない幾何学模様がびっしりと描き込まれている。
あの古城には、霊体に対して敏感なセシアが気分を悪くするほどヤバイ霊体系の魔物が棲んでいるらしい。この方陣は、自分専用にシンボルを組み合わせた一種の魔除けのようなものだ。これがあるだけでも、霊体に過剰反応する事がなくなるのだ。
「背中って直に?」
「背中って直に?」
「そう。これで描いてね」
手渡したのは何の変哲もないインク壷と筆が二本。一応使うインクにも何かしら特殊な法力処理は施されてはいるだろう。しかし、あんな筆で背中に複雑な紋様を描かれるなんて。かなりくすぐったそうだ。
早速セシアは服に手をかけ、
「ヴァルマ、ちょっと」
ハッと視線に気づき、ややきつい口調で言う。
「ああ、すまない」
そんなセシアに苦笑しながら、ヴァルマはセシアに背を向けて座り直した。
「ガイアも。そっち向いてる」
「ヘイヘイ」
今更、何を恥ずかしがる事があるって。まあ、恥じらいの感情とはそういう事じゃないんだろうけど。
「ところで。君はあの時、何故何もせず棒立ちになっていたのかね?」
「ああ、あれか。なんかさ、一応障壁を展開しようと思ったんだけどさ、急に体が動かなくなって」
「体が? ふむ、恐怖に慄いたのとは違うのか?」
真面目な顔でそう問うヴァルマ。
「冗談か?」
「冗談だ」
まったく……。急に冗談を言うようになったのもいいが、もう少しマシな冗談を言えないものか。
魔術のセンスはあっても、冗談のセンスはないようだ。天に三物以上も与えられたのでは、同じ人間として認める訳にはいかなくなってくるしな。
「もしかすると、あの剣は神器、もしくはそれに類似する特殊な能力を持った剣である可能性が高いな」
「シルフィの閻魔の伏剣と同じヤツか」
シルフィの持つ神器、閻魔の伏剣には標的に威圧感を与えて身体の自由を拘束、もしくは制限する能力がある。
「ああ、おそらくは。それならば」
ヴァルマはMの書を取り出し、起動韻詩を踏む。
「自己診断は終えたか?」
『はい、マスター』
あの時は急に謎の体調不良を訴えたMの書だが、今は実に流暢に言葉を話す。もっとも、本が言葉を話す事自体が俺にしては随分と奇妙な光景なのだが。
「それで、原因は何だったのだ?」
『解答不能です。自己診断は正常なプロセスを踏みましたが、その件に関する明確な原因は発見されませんでした。単純なシステムエラーならば、0.023%の確率で起こり得ます』
「うむ……何やら訳が分からんな。まあいい。検索だ。剣を調べる」
『かしこまりました。キーワードをどうぞ』
「対象の動きを暗示的、もしくは精神感応的に拘束する武器のリストを上げろ。両刃限定だ」
『かしこまりました。検索中……』
「なんだ、それ?」
聞き慣れぬ言葉を次々と並べるヴァルマとMの書の会話に、俺は首をかしげる。
「このMの書には、ありとあらゆるデータが詰まっているのでな。その中から該当する記録を引き出すのだよ。Mの書は私の知らない事も沢山知っているのでね。便利な代物だよ」
ヴァルマよりも物知りなんて、とんでもない神器だな。
『検索終了。ヒット件数は一件です』
Mの書から一束の光が伸びる。それは暗がりに当てられ、何やら映像らしきものを映し出した。よく見るとそれは、あの鮮血の騎士が持っていた両刃の剣とそっくり同じ形だった。
「あ、これだ、これ。確かにこの形だった」
『魔の十字剣フラガラッハです。標的の中枢神経を刺激し、興味、関心、注目を集めさせる能力を持っています。一種の誘惑と呼べるでしょう。肉体的な拘束ではなく、精神的に避ける気持ちを失わせるように作用します』
そうか、だから俺はあの時、頭の中では避けようとしていたのに、体がその意思に逆らって剣を受けようとしていたのか。
「なるほどな。どうやら君はこれにかかったようだね」
「うむう。油断した」
と。
「何が油断よ。そんなの、いつもの事じゃない。カッコつけちゃって」
背後からセシアが笑いながらそう言った。
うっ……痛い所を突くなあ。
だが、俺は反論はしなかった。その代わりに、
「エルフィ、シルフィ。乳揉んでやれ」
そう報復処置を指示する。すると、
「あ、こら! やめなさい!」
すぐに背中の方からバタバタと騒がしい音が聞こえてきた。