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 私は力の限りひたすら走り続けていた。行き交う人間もすれ違うものも、今の私には全く目に入らない。右手にはしっかりと封筒を握り締めていた。封筒には厳重な封と不知火の校章、そして宛名にはグレイスの名が書かれている。
 アカデミーからグレイスの部屋のある寮までは、私の足でも五分はかかる。数字で考えれば大した時間ではないけど、実際に感じるそれは、じれったくてじれったくて仕方なかった。いつでも好きな場所にパッと飛んで行ける魔術があればいいのに。魔術とか法術とかは、やたら厄介でメンドイもんだけど、こういう魔術があったら勉強してもいいと思う。
 ようやくグレイスの寮に到着した。グレイスの部屋はここの三階にある。私は階段を文字通り一足飛びに駆け抜けると、真っ直ぐグレイスの部屋へ向かう。部屋のドアの前までやってくると、ポケットの中に手を突っ込んで合鍵を求めて探る。
「ああ、もう!」
 気がはやっているせいか、狭いポケットの中にあるはずの合鍵が私の手をするりするりと逃げ回る。
 ようやくカギを掴み取ると、それをドアノブへ突き刺して回す。
「あれ?」
 しかし、カギからはいつものガチャンという感触は伝わってこなかった。
 不思議に思った私は、カギを抜いてポケットに仕舞うと、ノブを掴んで回してみた。
「あ」
 すると、ドアはあっさりと開いてしまった。どうやら初めからカギがかかっていなかったようだ。
 あの几帳面なグレイスに限って、カギのかけ忘れなんてあり得ない。
 もしかすると何かよからぬ事が起こっているのでは?
 私は即座に部屋の中へ飛び込んだ。
「グレイス! いるの!?」
 部屋は閑散としていた。普段から小奇麗に片付けられてはいたが、これは違う。綺麗に整頓されているのではなく、家具自体がなくなっているのだ。
「リ、リーム……」
 驚いた風な表情を浮かべ、グレイスは私の顔をまじまじと見上げていた。
 床に座りながら何やら荷造りをしている。 足元には旅行カバンの姿があり、その周辺には色々と小荷物が並んでいる。
「ちょっと……何してるの?」
「……うん」
 私の問いにははっきりと答えず、ただ気まずそうに視線をうつむけるだけ。
「これ見てよ。ほら! やっとジジイがグレイスの処分、取り下げてくれたわよ!」
 私は封筒の封を破り、中の紙を広げて見せる。
「そう……でも、もう本当にいいんだ」
 だが、グレイスは寂しげにそう呟き、もくもくと何やらカバンに詰め込んでいく。
 せっかく除籍処分が取り消しになったというのに。何故、もっと嬉しそうに喜んでくれないのだろう?
 いや、それよりも。その気まずそうな表情を浮かべる態度が気にかかった。
「……どういう事? それに、さっきから何をしてる訳?」
「僕、もう実家に帰ろうと思って。荷物も業者の方に出しちゃったんだ。それで明日にはここを発つよ」
「はあ!?」
 あまりに突然のその言葉に、思わず私はグレイスに掴みかかった。
「ちょっと、どうして!? グレイスはもうアカデミーを出て行かなくてもいいのよ!? ほら、ちゃんと見なさいよ!」
「うん、分かってる……でも、もう駄目なんだ」
 そっとグレイスが私の手に触れ襟元から離す。あまりに優しいその手に、私は抵抗が出来なかった。
「僕なんかのためにあんなにやってくれて感謝してる。でも、みんなには悪いけど、もう決めたんだ。僕はやっぱり魔術師なんて向いてないんだよ。幾ら授業ではちゃんとやれても、いざという時に何も出来なかったら、ただの足手まといになるもの。僕は今回の事で、自分の実力をはっきりと思い知ったんだ。だからこれ以上は、もうやめておきたいんだ。続けたってあまり意味はないからね」
 自分の意志でアカデミーを辞める。
 その言葉をグレイスの口から聞いたその時、私は、アカデミーがグレイスに除籍処分を下した時以上の怒りを覚えた。
 グレイスを無理やり辞めさせるというならまだしも、グレイスが自分から辞めると言い出したのには耐えられなかった。私はずっと、グレイスは本心ではアカデミーに残る事を望んでいるものだと思っていた。ただ、ジジイ共が下した処分がどうしようもないものだと諦めていたから、ずっとあんな弱気な事ばかり言っていたと思っていたのに。
「ふざけないで! 何? じゃあ、卒業したら一緒に行くって約束も破るつもりなの!?」
 私はその事だけを心の支えにしてきたのに。その想いを裏切られたかのような苦味が口の中に滲み渡る。
「……仕方ないよ。僕は足手まといにしかならないもの。リーム一人の方がかえって安全だよ」
 そっと微笑み、視線をまたカバンの方に戻して作業を続ける。
「違う! そんな事ない!」
 私は視線をそらすグレイスを自分の方へ向かせた。
 が。
 はっきりと自分の方を見させてから、なんとしてでも考えを改めてもらうように説得するつもりだったのに。
 いざ視線が合ってしまうと、急に頭の中が真っ白になってしまった。元々ヴァルマのようにペラペラと難しい事は喋れないのに頭の中まで真っ白になってしまったら、一体何を話せばいいのか分からなくなってしまった。
 それでも私は、頭の中にぽつぽつと思い浮かぶ言葉を掬い取りながら口に出した。
「あのね、私は普段からグレイスに感謝してるの。だってほら、私ってすぐに無茶なことするし、他に何にも出来ないしさ。だから呑みに行った時に、私が呑み過ぎないように注意してくれたり、真っ直ぐ歩けないほど酔った時に部屋まで送ってくれるの、いつも感謝してるの」
「それぐらい、誰だって出来るよ」
 と、微笑。優しげなその表情は、グレイスに歩み寄ろうとした私を拒絶したように思え、ズキッと胸が痛んだ。
「そんな事ない! いや、あるかもしれないけど……でも、とにかく! 私はね、グレイス以外じゃ嫌なの!」
 頭の中がパニックを起こしている。とにかく私は冷静にだけでもなろうと必死になる。
「私ってこういう性格でしょ? だからさ、今まであんまり優しくされた事ってないんだ。グレイスは何気なくやってるつもりでもさ、細かい所で気づかってくれるのって凄く嬉しいの」
 性格が災いしているせいだろうか。私はあまりそれらしい扱いは受けた事が無い。いつも厄介者か動物のような扱いばかりである。別段それを気にしている訳でもなかったのだけど、やはり優しくされて気分が悪い訳ではない。
「んで、なんていうか、グレイスしかいないの。私の背中を任せられるのってさ」
「僕よりも安心出来る人は他に沢山いるよ。僕じゃなきゃいけない理由なんてないでしょ?」
「ある! そんな事を言わないでよ! 私は寂しいよ……! グレイスがいなくなると」
 目頭がカーッと熱くなってきた。
 私は不覚にも泣いてしまいそうになった。それをなんとか歯を食いしばって押し堪える。
「どうして自分一人で決めちゃうのよ。私って、そんなに信用ないの……? バカだから相談するだけ無駄って事なの……?」
 これで駄目ならどうしようもない。そんな気持ちで私は必死で訴えた。
「そうじゃないんだ……」
 グレイスは再び私の手を除けて視線を床に落とす。
「僕は、本当に自信がないんだよ……。将来、ちゃんとリームとやって行けるかどうか。いざっていう時に役に立たないなら、居ない方がいいんじゃないかって思って。僕のせいでリームに何かあったら、本当……」
 ただでさえ細い体型をしているのに。がっくりと肩を落とすと尚更華奢で小さく見えた。
「私だって、自分一人でなんとかなるって思ってなんかないわよ。時には魔術がなくちゃいけない事態だって絶対にあるから、その時はグレイスに頼ろうって思ってた。他にパートナーなんて考えられないよ。私はグレイスを一番信用してるんだから……」
 私は自分で自分を強いと思っている。自分で自分を強いと思えなければ、世界最強なんてなれるはずがない。今はまだそうじゃなくても、そう信じ続けてればきっとなれるはず。私はそれを自らのモットーとしてきた。
 でも、幾ら自分の技に絶対の自信があっても、それが通用しない事態というのは絶対にある。ただでさえ世界は広いのだ。私の知らない事なんて数え切れないほど存在する。そんな時、頼りになるのがグレイスだと思っていた。グレイスは私とは正反対の性格だ。だから私には考えもつかない事だって思いつく。それに私とは違って魔術が使えるのだ。私一人ではなんともならなくとも、グレイスと力を合わせればなんとだってなる。ずっとそう私は思ってきたのだ。
 だから、私はグレイスの言葉が痛くてたまらなかった。自分とグレイスとの思わぬ距離が、言葉にし辛い切なさのような寂しい想いを私に抱かせる。
「その……ごめん」
 ぽつり、と消え入りそうな声ではあったけど、はっきりとグレイスはそう呟いた。
 今までのような拒絶の言葉ではなかった。違う意味での謝罪の言葉だ。その言葉が意味する所に、思わず我慢していた涙腺が緩みそうになった。
 私は何も言わず、ぎゅっとグレイスに抱きついた。
 こうしていれば絶対にグレイスはどこにもいかない。そんな安心感がそれにあった。



TO BE CONTINUED...