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 息の詰まる夕食が終わると、私はグレイスと逃げ出すようにホールから出た。夕食の間、私はグレイスの両親にずっと結婚だ子供だと質問され続けた。おかげでせっかくのおいしい料理がまるで味わえなかった。さすがにもうこれ以上は、その事に関しては沢山だ。まさか自分がこうも圧倒されるなんて。どこか敗北感は否めない。
 私達は避難場所をグレイスの部屋に定めた。まだ私はグレイスの部屋には入っていなかったが、これまでに見た屋敷の様子からして、大体どんな部屋かは想像はついた。
「ごめんね、なんか色々と訊いちゃって」
 ホールから大分遠ざかってから、そうグレイスがすまなそうに微苦笑する。
「ホント。なに、あれ? 手紙に私のコト、何て書いたのよ?」
「いや……別に。ただ、真剣に付き合ってる人がいるって書いただけで……」
 それはそれで構わないが、幾らなんでもあの質問はないと思う。あんな軽率な言動を繰り返すのがグレイスの両親だなんてとても思えない。母親の方は大分顔立ちが似ていたけど、中身はどちらにも似ていない。
「タチバナ様」
 と、その時。
 廊下の向こうから一人のメイドさんが私の元へ歩み寄ってきた。手には何やら白いものを二つ抱えている。どうやら枕のようだ。
「丁度、これからお伺いする所でした。タチバナ様は、枕の方は硬めと柔らかめ、どちらがよろしいでしょうか?」
「硬めでお願い」
「かしこまりました。それではこちらを」
 そう言って、彼女は私に手にしていた内の片方を手渡した。枕を指で押して感触を確かめる。実際に寝てみないと分からないが自分好みの硬さだと思う。これならゆっくりと眠れそうだ。
 そして、
「私は今夜、どこで寝ればいいの?」
 そう私は問い訊ねた。
 この屋敷に着いてから、私はまだ客室に案内されていなかった。荷物も預けたままだし。着替えはあらかじめ用意されていたものを着ている。不思議なほどサイズがピッタリなのが気になったが。
 すると、そう訊ねた私に向かって彼女は一瞬、きょとんとした表情を浮かべた。私の質問がそれほど意外なものだったようである。
「嫌ですわ。からかわないで下さいな」
 そう微笑みながら、はっきりと答えずに立ち去った。
「なに、あれ? どういう事?」
「……僕の部屋で寝ろって事だよ。多分、母さんだ」
 心なしか気まずげに視線を泳がせながらグレイスは答える。
 向こうに居た時はよくグレイスの部屋に泊まっていたから、今更どうという事はない。しかし、それが親元でとなると話は変わってくる。普通こういう時、一応二人は未婚なのだから親としては別室を用意するのが、世間一般の常識だと思っていたが。
「……なんなの? あんたの家」
「ちょっとね……。済し崩しに居つかせようとしているかもしれない」
 あまり人目につかぬ場所で生活しているから、多少は自分達の常識とは違う所はあってもおかしくはない。けど、ここまでずれていると、ほとんど自分とは違う世界の生き物のようにすら思えてくる。とにかく、そういう事ならば、それはそれで構わないが。
 そして私は、グレイスの案内で三階にあるグレイスの部屋にやって来た。
 予想通り、実に広々とした部屋だった。寝室は別に分かれており、しかもベランダまでついている。
 けど、部屋の広さの割にはものがなく、どこか殺伐としていた。基本的な調度品が一式に本棚が一つ。後はこれといったものがない。アカデミーに通うために、部屋を出る時に私品はあらかた整理してしまったのだろう。
「やっぱ広いわねえ。これなら軽い運動もできそう」
「頼むからやらないで。リームのは軽くないから」
 寝る前にもう一度お風呂に入ろうと思った私は、またグレイスの部屋を出た。
 グレイスの家は恐ろしく広かったが、少なくとも一度行った場所は憶えている。私はそういった一瞬の記憶力には自信がある。戦う時だって、相手の連繋に対して反射で対応するのと、ある程度の予測を立ててから反応するのでは随分違う。相手の得意な連繋パターンを記憶しておくのはかなり重要な要素なのだ。
 道順を一度も間違えず、迷う事無く夕食前に入った浴場に辿り着く。入るとまず、脱衣所がある。脱衣所だけでも私の住んでいる部屋ほどあるのだが、浴場はそれ以上に凄い。まるでプールのような広さなのだ。改めて思うのだが、こうも広いとなんだか逆に落ち着かない。風呂なのに裸でいるのが恥ずかしいのだ。
「ふう、あちいあちい」
 風呂上りの火照った体を手であおぎながら廊下に出る。何か暖房機械でも入れてるのか、普通は寒いはずの廊下の空気の温度も部屋とまったく変わらない。一般的にニブルヘイムの気候は、夏でも氷点下になる事がしばしばあるほど寒い。そのため、暖房器具の発達はこの大陸では一番だろう。けれど、その最新型の暖房といえど、結局は値段の問題があって一部の人間しか購入する事が出来ない。そう、たとえばこの家のような。
「ちょっと、タチバナさん」
 と、三階までやってきたその時、後ろからドアの開く音がして、誰かが私を呼び止めた。振り返ると、グレイスの母親がドアから顔を出して手招きしていた。
 あっちゃあ。この部屋、親御さんの部屋だったか……。
 夕食の時の事もあってあまり気は乗らなかったが、グレイスの母親である以上、無下にあしらう訳にもいかない。仕方なく私は招かれるままその部屋へ入った。
 その部屋はグレイスの部屋以上に広々としていた。そして更に、豪華な調度品が所狭しと並んでいる。何気なく置かれている花瓶一つ取っても、かなり途方もない値段がするに違いない。
「そちらにお座りになって」
 彼女が指定したのは、またもやどこかの職人が作ったかのような高そうなソファーである。ちょっと躊躇いを感じつつも、指定されたそのソファーに腰を降ろす。すると彼女は、向こうから銀の盆を持って私の向かいのソファーに座った。あらかじめ用意していたのか、その銀の盆の上にはワインボトルとグラスが二つ乗せられている。
「お名前でお呼びしても良いかしら?」
「別にいいですよ」
 盆を間のテーブルの上に置くと、彼女はワイングラスを差し出してきた。
「どうです?」
「あ」
 思わず私は顔を綻ばせ、グラスに手を伸ばした。
 さっきはあんな事があったのでゆっくり飲めなかったけど、確かに驚くほどおいしいワインだった。さすがに金持ちなだけあり、ワインも一流のものしか置いていないのだろう。こんなワイン、滅多に飲めるものではない。となるとこのワインもおそらくは。
 そういえば。
 しかし私は考えを改め、一度伸ばしかけたその手を引っ込めた。
「いえ、やめときます。グレイスにあまり飲み過ぎるなって言われてるので」
「そう。心配性のあの子らしいわ」
 くすっと微笑み、グラスを戻す。
「ところで、リームさん。グレイスさんの事、好き?」
「……まあ、その……はい」
 いきなりそう直に訊ねられると、やはり返答には照れが出てしまう。同性の友達ならそれほどでもない質問だけど、何せ本人の母親である。動揺するな、と言う方が無理だ。
「あの子の体質、知っているでしょう?」
「はい。初めはちょっと驚きましたけど」
「主人もね、若い頃はかなり苦しんだのよ。人間の血と吸血鬼の血って、元々は相容れないものだから。生まれたばかりの頃は吸血鬼の血は眠っているんだけど、丁度十六歳になった頃、今まで眠っていた血が目を覚ましてね。それで、血同士が拮抗して苦しみ始めたの。けど、それも歳と共に血同士の拮抗も落ち着いてきたわ。今ではもう、暴走したりする事はないわ」
 グレイスも時折、そうんな風に苦しむ事がある。ヴァンパイアの本能が目覚めた時だ。そのたびに私は、自分の血を飲ませてグレイスを落ち着かせている。
「グレイスさんは丁度今、血の拮抗に苦しんでいる頃。それをいつもリームさんに助けてもらってるって、よく手紙に書いてたわ。本当にありがとう」
「いえ……私、グレイスが苦しむのって見たくないから……」
 普段怒鳴られてばかりの私は、思わず照れてかゆくもない頭を掻く。
 どうも誉められ慣れていない私にとって、感謝の言葉はこそばゆい感じがして仕方がない。
「ねえ、どうしてあの子に『グレイス』って名づけたか知ってる?」
「え? さあ?」
 唐突なその問いに、私は首をかしげる。私はグレイスが何故グレイスなのか、当たり前すぎて考えた事もなかったのだ。
「グレイスっていうのはね、聖歌の名前なの。そう、いわゆる賛美歌の事」
「賛美歌……ですか」
 小さい頃、どっかで聞いたような気もする。でも私は、退屈ですぐに眠くなって寝ちゃったっけ。
「おかしいでしょ? ヴァンパイアの血を引いているのに、わざわざ神を称える歌の名前をつけるなんて。でもね、私達夫婦にとってあの子はそれだけ掛け替えのなくて神聖な存在なの。知ってるでしょ? 人間とヴァンパイアの間には子供が出来にくいって。それでもね、私はあの人と一緒になりたかったし、あの人の子供が欲しかったわ」
 前にグレイスが言っていたっけ。
 人間とヴァンパイアは、そもそも遺伝子レベルでうんたらかんたらで、子孫を残す事は不可能に近いって。だからグレイスが生まれたのは奇跡に近いのだ。
 なら、どうしてそんな事を?
 となると、返ってくる答えは決まっている―――。
「グレイスさんの事、愛してる?」
 愛……して?
「え、っと……」
 私は返答に困り、言葉を詰まらせる。
 確かに私はグレイスの事が好きだ。友達としてではなく、異性としてだ。グレイスに血を飲ませてあげてるのだって、グレイスとの距離を近づけられるから、という打算的な考えは全くなかった、と言ったら嘘になるし。
 愛ってのはどういうものなのだろう? 私には好きと恋との区別もあんまりよくつかないのに、答えられるはずがない。
 とにかく今は、私はグレイスの事が異性として好きで付き合っている。けど、それが愛かどうかはよく分からない。
 と、そう思い悩む私に彼女はそっと微笑んだ。
「まだ若いから、愛するって事は難しいかな? でも、これからも変わらずにグレイスさんの事を大事に思ってあげて。母親の私がこんな事を言うと過保護かと思うかもしれないけど、親って生き物は、幾つになっても子供の事が心配なものなのよ。それが、奇跡的にようやく出来た子供なら、尚更ね」
「はい」
 ただそう一言、返事を返した。
 これまで通り、変わらない決意を言葉ではなく態度で示す。理屈の語れない私には、こういう返答しか出来ない。
 すると、それを見た彼女は満足げに微笑んでくれた。私の気持ちの強さを分かってくれたのだろう。
「っと、そろそろ私、部屋に戻ります」
「ええ。今日は長旅でお疲れでしょうしね。それじゃ、続きはまた明日にしましょうね」
 思わず引きつりかけた顔の筋肉を正し、努めて自然な笑顔で私は立ち上がる。これ以上長居すると、それが明日ではなく今になってしまいそうだからだ。
 が。
 私はまたもや考えを改め、再びソファーに腰を降ろした。
「あら? どうしたの?」
「すいません。やはり、一杯だけ」
 グラスを取った私を、彼女は口元を押さえて愉快そうに笑った。



TO BE CONTINUED...