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グレイスの実家は街から随分と離れた遠い地方にあった。船を三つも乗り継ぎ、しかも最後に乗った船では一泊までした。夜を徹する船なんて、私は生まれて初めて乗った。私の故郷の村も、あの街からは大分離れた地方にあるが、それに負けず劣らずといった所だ。
「まだ着かないの?」
「もうちょっとだって」
先を歩くグレイスが、額に薄っすら汗を浮かべながらそう答える。一日半かけて到着した港町を出、郊外の公道から離れ、脇道に入ってから既に三十分ほど歩いている。道はきちんと舗装され、馬車でも問題なく通れる綺麗な道だ。
「これだったら、初めから馬車に乗って行った方が良かったわ」
薄っすらと残る轍が、私をより一層後悔の念に駆り立てる。
「すぐ着くって。愚痴らない愚痴らない」
「とっくに昼は過ぎたわよ。このまんまじゃ日が暮れるわ」
「だから、もうすぐだって。ほら、見えてきた」
そう言ってグレイスが指を差す。すると、木々の間からなにやら黒いものが見えた。
屋根だ。それも、かなり大きい。
ってことは、もうそろそろ着くわね。
しかし、その私の予想は大きく裏切られ、到着したのは更に十分も経過してからだった。それだけグレイスの実家は大きく、遠くからも屋根が見えたのである。
「はあ……」
私は思わず見上げてしまった。
グレイスの実家は予想以上に大きかった。アカデミーの校舎はかなり大きいと思っていたけど、この建物は校舎の二軒分ぐらいはありそうだ。
大きな黒い建物がそびえ立っている。その周囲を、私の身長の三倍はありそうな高い塀がぐるっと取り囲んでいる。そして建物の正面の部分は、色々と飾りのついた頑丈そうな鉄柵が構えている。
鉄柵の奥に微かに見える建物の玄関の大扉が開き、そこから人影が二つ、現れた。一人は老年の男性だった。油断無くスーツを着込み、髪も丁寧に撫で付けている。どことなく風格が漂っている。もう一人はメイド服の女性だった。歳は二十代ぐらいだろうか。
老年の男性は鉄柵に細い枯れ枝のような手を伸ばす。すると、いとも簡単に、この重そうな鉄柵を開けてしまった。
「おかえりなさいませ、グレイス様」
二人はグレイスに向かって深々と礼をする。
これはもしかして、執事とメイドというヤツではないだろうか? 実際に見たのは初めてだ。話には聞いていたが、こうして見ると本当にグレイスは御曹司なんだとつくづく思う。
「ただいま。父さんと母さんはいるよね?」
「はい。一週間も前からグレイス様のお帰りを楽しみに待っておられます。ところで、こちらの方がタチバナ様でいらっしゃいますか?」
「あ、一応……」
いきなり慣れない呼ばれ方をした私は、思わず言葉に詰まる。
「お荷物をどうぞ」
そうメイドの女性が私に手を向ける。私はその手に自分のカバンを預けた。
「では、こちらへ」
執事はグレイスのカバンを持つと、大扉の方へ向かって歩き出した。執事は見た目は年相応に痩せ細っているのだが、グレイスのカバンを軽々と手にし軽快な足取りで歩いている。更に驚く事は、これだけ間近を歩いているにも拘わらず、足音どころか衣擦れの音すら全く聞こえないのだ。
屋敷に入ると、更に五人のメイドが並んで出迎えた。
「おかえりなさいませ」
一糸乱れぬ動作でグレイスに頭を下げる。
「ただいま」
グレイスはいつものように微笑みながら相対する。
「父さんは書斎に?」
「はい。先に御報告に行かれますか?」
「うん。悪いけど、荷物をお願い」
「かしこまりました」
私は再び歩き出したグレイスについていく。
屋敷はとても広くて肌で感覚が掴めない。特別方向音痴ではないものの、さすがに一人では迷ってしまいそうだ。
踏むたびにさくさくと音のする赤い絨毯の敷かれた幅の広い階段を上って行き、三階へ。ざっと見た限りでは三階建てのようだが、屋根裏部屋もありそうだ。それに、一階一階、天井が随分と高く息苦しさが無い。最上階はさぞかし見晴らしがいいことだろう。
「ねえ、グレイスの両親ってどんな人?」
「二人とも明るい人だよ。ちょっと心配性な所もあるけどね」
という事は、グレイスの性格はまさしく両親譲りなのだろう。
「あ、そうそう。母さんには気をつけてね」
「どうして?」
「リームの事、凄い興味津々だから。間違いなく、色々と聞かれると思うよ。失礼な事を言われるかも知れないけど、あまり気にしないであげて」
「ふうん。ま、いいけど」
やがてグレイスは一つのドアの前で立ち止まった。そしてドアをノックする。
「失礼します」
静かにドアを開けて中に入る。その部屋はやたら広々としたものだった。アカデミーの教室ぐらいは余裕である。屋敷中の部屋がこんな感じなのだろうか。
「おや、グレイス君?」
部屋の奥に、一式の豪奢なデスクがある。
そこに、一人の男性が座っていた。見た目は父親という歳相応に見えるが、身なりや姿勢が良いせいか、やけに若々しく見える。
彼は入って来た私達に目を向けると急に顔を綻ばせ、ペンをインク壷に戻して立ち上がった。
「ただいま帰りました」
「おお、そうか!」
彼はグレイスの傍まで歩み寄ると、嬉しげにグレイスの両肩をばんばんと叩いた。
「いやいや、もう何年ぶりだろうか?」
「半年も経っていませんよ。前は春期休暇の時でしたから」
「そうだったかな? いや、グレイス君がいないと毎日がどうも寂しくてね。いつ帰ってくるのか、いつ帰ってくるのか。一日千秋の思いというヤツだ。ところで、こちらの方が?」
と、グレイスの父親は私に視線を向ける。
顔立ちはあまりグレイスとは似ていないし、何よりも騒々しい。やはりグレイスは母親似なのだろう。
「うん。この人があの、リーム=タチバナです」
「タチバナです。はじめまして」
私は出発前に散々グレイスに言われた通りの挨拶をする。
「私はグレイスの父で、アルフレード=ハプスブルグだ。よろしく」
同時に握手を求められ、私はそれに応える。
ひゃっ?
と、思わず私は、驚きのあまり声を上げそうになった。この人の手は、驚くほど冷たかったのである。
「おっと、驚いてしまったかね? もう知っているとは思うが、私はヴァンパイアのハーフでね。活動時間ではない日中は、体温が低くなるのだよ」
そう言ってハプスブルグ氏は、ニッと笑って牙を見せた。
グレイスとは違い、いつも牙は出ているようだ。ハーフとクォーターの違いだろう。
「やっぱり十字架は苦手なんですか?」
ふと私は頭に浮かんだ疑問を投げかけてみた。
「はっはっは、面白い事を訊ねるお嬢さんだな」
ハプスブルグ氏はグレイスの肩を叩きながら破顔する。苦笑するグレイス。
「ヴァンパイアは十字架が苦手、だなんて、どこぞのエセ退魔師の戯言さ。磔刑にすら使う道具を、どうして恐れる事がある。第一、私が妻に送った初めてのプレゼントは、銀の十字架のペンダントだよ。他の悪い虫が近づかないようにってね」
「は、はあ……」
グレイスの父親とは思えぬほど、ハプスブルグ氏は軽快な口調で話したてた。ヴァンパイアのハーフで、人里から隠れ住んでいるのだから、さぞかし重苦しい雰囲気をまとった人だと思ったのだが。
「はしゃぎ過ぎてしまったな。この家に来客が来るのは久しぶりでね」
ハプスブルグ氏は僅かに乱れた襟元をきちんと正す。
「母さんはどちらに?」
「中庭にいると思うよ。早く行って顔を見せてあげなさい。グレイス君が帰ってくるのを私以上に心待ちにしていたからね」
私達は書斎を後にし、再びエントランスへ向かった。
「グレイスの父親だっていうから、もっとなよなよしてるんだと思ってたわ」
「僕はあんまり父さんには似なかったんだ」
「でしょうね」
一階まで降りてくると、今度は正面の大扉ではなく通用口から外に出た。屋敷もさることながら、中庭も実に広々としている。これならトレーニングスペースには事欠かなさそうだが、そういう事のために設けてはいないだろう。庭の至る所に花や観葉植物が植えられている。花の事はよくは分からないけど、随分と大切に育てられているといった印象を受ける。
屋敷の角を一つ曲がった時、中庭の隅で花の前にしゃがみ込んでいる女性が見えた。
「あの人が僕の母さんだよ」
そう言ってグレイスは、その女性の元へ駆け寄る。
すると彼女はその足音に気がつき、ふと顔を上げる。
「グレイスさん?」
グレイスを見るなり、パッと輝くような笑みを浮かべて立ち上がった。
「ただいま帰りました」
グレイスの母親は実に若々しい感じだった。二十代後半から三十代前半ぐらいの歳に見える。
「もう、母は寂しかったのですからね」
そう言ってグレイスの母はグレイスをぎゅうっと抱き締めた。
「ちょ、ちょっと、母さん!? 一応、人前だから」
「人前?」
視線がこちらに向く。
「あらあらあらあらあら」
と、彼女はあっさりグレイスを解放すると、そのまま私の元へ駆け寄ってきた。
「まあ、あなたがタチバナさん? 私、グレイスの母のセインティア=ハプスブルグです」
そして両手で握手を求めて来る。私もそれに応ずる。
今度はちゃんと温かい手のひらだった。まぎれもなく人間の体温である。
「さあさあ、長旅でお疲れでしょうから、先にお風呂に入って夕食にしましょう。お話はその時にしましょうね」
彼女は私の手を取り、スタスタと歩き始めた。非常に好意的で歓迎されているのは分かるが、この有無を言わせない独特のペース、どうも息が詰まる。
なるほど、グレイスのお節介はこの人譲りなんだな。
私はそう納得した。
どこに居ればいいのか悩んでしまうほど巨大な大浴場で汗を流した後、私はメイドさんの案内でホールに向かった。アンティークっぽい家具が立ち並んでいる。いかにも高そうなものが無造作に置かれていて、まさしく金持ちの家といった雰囲気だが、そのせいで自分が場違いな人間に思えてくる。
私とグレイス、そしてハプスブルグ氏と夫人とに別れてテーブルを挟んで席に着いた。
私の正面にはグレイスの母親が座っている。
「それでは、カンパイをしようか」
ハプスブルグ氏は赤ワインの注がれたグラスを掲げる。それに私達も続いた。
私はグラスに一口、口をつける。
「とっておきのワインを御賞味いただけましたか?」
「あ、はい。すごくおいしい……です」
そうとしか言いようがなかった。そうとう値の張るものに違いない。もっと他に言い方があるのだろうけど、私はどこぞの美食家だか評論家みたいに、いちいちものの味わいを難しい言葉で表現するなんて芸当は出来ないのだ。
「お気に召しまして光栄です。さあ、どうぞ。遠慮なさらず料理の方も」
酷く空腹に苛まれていた私は、遠慮なく目の前に並べられた料理を次々と食べた。
どれも驚くほど美味しかった。気がつけば私は、すっかり夢中になってしまっていた。
「いやいや、話通りの健啖家でいらっしゃいますね」
「これならきっと、丈夫な子供が生まれるでしょう」
―――え?
その言葉に、私は思わずむせかかった。
「は、はあ?」
「だから、子供」
「こ、子供って、急にそんな」
私は、自分とグレイスはどういう関係なのか、とか、アカデミーではどんな風にしているのか、とか、将来はどうとか、そういう事を訊ねられるものだとばかり考えていた。そんな私に問われた、あまりに予想外の言葉。私はただただ狼狽するばかりだった。
「あら? グレイスさんの子供は産んでくれませんの?」
「セインティア、少々露骨過ぎないかね? まずは結婚の意志から訊ねるべきでは」
「でも、結局は同じ事になるでしょう? それに私、孫の顔が見たいですもの」
「なるほど。それについては私も同意見だ」
なんなの、この二人は……。
途方に暮れた私は、助けを求めて隣のグレイスに視線を向ける。するとグレイスは、複雑な微苦笑を返してきた。
そして小声で一言。
ごめん。すぐにおさまるから、なんとか乗り切って。
「グレイスさんとは真剣にお付き合いしているのでしょう?」
「は、はあ……」
確かにそうではあるが、なんと答えたら良いのやら。
私はもう何も味が感じなくなってしまった。
TO BE CONTINUED...