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 これでよし……。
 ベッドの上に横たわる男性は、微弱ながらも安定した呼吸をしている。もう心配ないだろう。
 彼は槍術学科の三回生である。訓練中、相手の放った攻撃を捌き切れず、まともに腹に受けてしまったのだそうだ。視線を落とすと、真っ赤な血がこびりついた服が目に入る。生々しいケガの痕跡だ。腹部は筋肉が薄く、血管が集まっているため、大きな傷がつくと大量に血液が流れる。そして止血も難しい。
 ゆっくりと自分の腹の、彼が傷を負ったのと同じ位置を撫でる。
 先ほどまでは凄まじい激痛が走っていたそこは、今は嘘のように静かになっている。
 法術師は、治療中は相手の生体エネルギーと同調するため、相手が感じているのと同じだけの痛みを感じるのだ。だが、傷が深刻であれば相手も意識を喪失してしまうため、本質的に痛みを感じるのは自分だけという事もある。今回はまさにそれだ。
 正直、疲れた。
 その痛みを耐えながらの法術の集中で、かなりの体力と精神力を消耗した。呼吸を整え、部屋の隅にあった小さな鏡に自分の顔を映す。酷い顔だ。一気に二十歳ほど老け込んだ気がする。顔色も不自然に青白い。
 気を引き締め直し、いつも通りの平然とした表情を取り戻す。だが、顔色だけはどうにも戻らない。
 平静の表情が出来上がったのを確認し、私は静かに処置室を後にする。
「ヤツはどうなった!? 大丈夫か!?」
 血相を変えて話し掛けてきたのが、おそらく担当教員であるらしい中年の男性。
「はい。ですが、当分は安静が必要です。血液を大量に失っていますので」
「そうか……分かった。問題がなければそれでいい。家族には連絡したからその内に来るだろう。対応はこちらでする」
 安全と分かった途端、教師は急に冷静さを取り戻した。そしてさっさと立ち去っていく。
 心配していたのは彼の安否ではなく、自分の監督責任なのだろう。不愉快には思ったが、あえて口には出さなかった。
「セシア、大丈夫か?」
 と、何故かガイアがそこに居た。わざわざここまでついて来てくれたようだ。やけに心配そうな表情で私を見ている。ちゃんと平静の顔をしているはずなんだけど。やっぱ顔色に気づいたかな?
「ええ。問題は無いわ」
「本当か? 顔色悪いぜ。少し休んだ方がいい」
「おおげさね」
 やけに必死なガイアの姿に、思わず微苦笑。
 顔色が悪いのも自分で分かるし、体が疲労しているのも自覚している。
 幾ら全過程を修了したとは言っても、私はまだまだ実技経験が少ない。経験の薄さはそのまま治療効率の悪さに反映し、ただでさえ絶対量が限られている法力を徒に消耗させてしまう。この疲労感は、まさに自分の治療効率の悪さの現れだ。
 だが、人を救うための法術師は、決して弱音を吐いてはいけないのだ。誰だって、『自信はないけど、まあやってみます』などと言う医者にはかかりたくないはずだ。そして治療を終えても、相手に負い目を抱かせぬように平然としなくてはいけない。息も絶え絶えになっていては、次からは治療を頼む事に気が咎めてしまう。だから私は、たとえ気心の知れた人間にも、決して気を許して弱目を見せる訳にはいかない。法術師とは絶対的な存在でなくてはいけないのだ。
「何言ってんだよ。とにかく、今は休んだ方がいい」
「それより喉が渇いたから、何か買ってくるわ」
「いいって。俺が買って来るから、お前はそこに座っていろ」
 そう言って指差したのは、処置室の外に供えられている待合用の長椅子だった。そしてすぐ、ガイアは飲み物を買いに行ってしまった。止めようと思った時にはもう、角を曲がって行ってしまっていた。
 まったく……。人の話を聞かないんだから。
 ふう、と溜息をつき、私は長椅子に腰掛ける。座った瞬間、ずしりと重苦しい重圧のような疲労が背中にのしかかり、どっと嫌な汗が噴出してきた。
 いけない。座ったせいで気が緩んでしまったようだ。
 ポケットからハンカチを取り出して汗を拭う。
 私は周囲を見渡して誰もいない事を確認すると、もう一度溜息をつき、額に手を乗せて重い頭を支える。凄まじい疲労感だ。体が休息を欲しているため、強烈な睡魔が込み上げてくる。まぶたは重く、今にも垂れ下がりそうだ。これまで、歴代の著名な法術師達は皆、名声を馳せる裏でこれの何倍もの苦痛に耐え忍んでいたのだ。人を救うための法術師が、この程度の苦痛で音を上げてしまっては話にならない。仮にも天才ともてはやされている自分だ。せめて名前負けしないぐらいの意地を見せなければ。
 しばらくしてガイアが紙コップを二つ携えて戻ってきた。
「ほら」
「ありがと」
 差し出されたコップを受け取る。コップの中身は、ミルク入りのアイスコーヒーだった。
 コップに口をつけて、一口。ひんやりとしたアイスコーヒーの温度が、渇いた喉を潤していく。渇きが癒されたおかげで、幾分か体の疲労は楽になった。
「ケガしてたってヤツ、そんなに酷かったのか?」
「傷自体は、軽傷とは言い難いけど、それほど重傷って訳でもなかったわ。ただ、ケガをしてから、時間が経過し過ぎてるの。そのせいで、ちょっと難だったわ」
「時間が経ってたって、放置されてたって事か? なんだ、それ。ここには他にも法術師がいるんだろ? 治せなくてもさ、セシアが来るまで時間稼ぎは出来ただろうに」
「そうもいかないのよ。言ったでしょ? 私って、ここじゃ嫌われ者なの。わざわざ私の手助けするよう真似、すると思う? 私が治療を失敗するようにって、チャンスが現れる機をいつも窺ってるんだから」
「失敗したら、そいつは死んでしまうじゃないか。それ、マジの話なのか? 冗談にしてはタチが悪いぞ」
「ええ。法術師として嘆かわしい事だけど、真実よ。前にも、そうやって自主退学まで追い込まれた生徒がいるの。法術師って、人間の生死を日常的に目の当たりにするから、そういった感受性が薄れちゃってるみたいなのよ。今回が駄目でも次を助ければいい。そうして、生涯に助けた数と失敗した数を差し引きして、助けた数の方が多ければそれでいいのよ。本人やその家族にしてみれば、唯一の命なのにね」
「ふざけた話だな」
 そう、ふざけた話である。
 長い歴史が生み出した旧体制もさる事ながら、人間の業の深さを実感する瞬間でもある。
 人より優れたい、と思うのは誰しもある欲望だ。けど、それが果たせないからといって、こんな歪んだ形で憂さを晴らそうとするのは、人間のような理性的な人間だからこそ成し得るものだ。  いつまでも思うような結果を出せないからと言って、うじうじと陰湿な事ばかりして……。まったく、私に迷惑をかける分はまだしも、法術学科を頼ってきた患者にまで迷惑をかけるなんて。人間性を疑わずにはいられない。
 と、その時。
「おい、ここにセシア=ウィルセイアという生徒はいるか!?」
 大声と共に、バタバタと複数の足音。
 振り向くと、それは担架を持った上級生らしい生徒だった。担架に乗っているのは、やはり血まみれになった生徒だ。しかも、今度は二人も。
「私です」
 コップを足元に置きながら立ち上がる。
「頼む! 見ての通りだ! 早急になんとかしてくれ!」
「分かりました。では、処置室の中へ」
 私は一度閉じた処置室のドアを開ける。
 中には先ほど処置したばかりの生徒が眠っているが、まだ空きベッドは二つある。
「おい、お前一人でやるのか? 今、治療したばっかりなのにさ」
「当然よ。何も問題はないわ」
 相変わらず心配そうな目で私を見上げるガイア。
 確かにガイアの言う通り、体の方は先ほどの治療でかなり辛い状態だが、この生死のかかった状況で弱音を吐いている訳にもいかない。だったらここは、初めから無駄な事はしないで問題ないと答えるべきである。それが法術師なのだ。
「俺はまだ軽いから、先にあっちをやってくれ……」
 片方の担架の上から、濁った声が絶え絶えに聞こえてくる。どうやらこちらは比較的傷が浅く、意識もしっかりしている。
「ええ、分かったわ。だから自分の番が来るまでじっとしていて」
 普通、誰でも大きな怪我をすれば、何より先に自分を治療してもらいたがるものなんだけど。この人はなかなか冷静な判断力があるようだ。
「ん? あ、おい、ちょっと!」
 突然、ガイアが窓を開け、中庭に向かって叫んだ。窓の外には法術学科の生徒が三名、通りかかっていた。
「今、怪我人が二人もいて立て込んでるんだ。ちょっと手伝ってくれ!」
 すると、三人の視線がガイアを見、そして私に移る。途端、私の方を見ながら三人はひそひそと密談。そして、三人の中の一人が一歩前に出た。
「そちらにいるのは、ウィルセイアさんでしょう? アカデミー始まって以来の天才と呼ばれている。だったら、私達の力なんて必要ないんじゃなくて?」
 慇懃無礼な態度。遠回しだが、明らかに私への敵意が感じられる。
 やっぱりだ。
 こうやって何もかも私に押し付け、やがて失敗する事を誘っているのだ。もっとも、ハナから誰かの手を借りようなんて思ってもいないけど。
「セシアはさっき治療したばっかりで疲れてるんだよ」
「でも、私達が居ては足を引っ張るだけですもの」
 確かにその通りだ。あんたらの存在そのものが私の足を引っ張っているのだ。
「人の生き死にがかかってるのに、何言ってんだ!?」
「患者の方も、私達のような凡人ではなく天才さんに治療してもらいたいのでは? その方がより確実でしょう? 余計な死人を出さなくて済むじゃない」
「お前ら三人雁首揃えて、何も出来ないってのか!? ここで何の勉強してんだよ!」
 依然譲らぬガイアが轟と叫ぶ。
 こうもむきになるガイアは珍しい。いつも途中で身を引くか、自分から諍いの渦中に飛び込む事はしないのに。
 もしかして、私の事を心配しているからだろうか?
 不覚にも、渋る彼女らに叫んでいるガイアの姿に、私は嬉しさを覚えてしまった。法術師が治療の事で心配されるなんてね。法術師は、少なくとも患者にとっては万能の存在でなくてはならないのに。でも、心配してもらうのは嫌じゃない。だけど、これ以上は時間の無駄だ。この学科の法術師には、ほとんど私に協力しようなんて人は居ないのだから。
 私はガイアの肩を掴み、依然続く抗議を止めさせる。
「いいわ、もう。私は一人でやるから大丈夫よ」
「おい、無理するなよ。ってか、どう見ても無理だ。今だってふらついてるぞ」
「あら? ガイアは法術の事に詳しかった?」
「いや、そうじゃないけどさ……」
「私も足手まといになる人はいらないから。それに、一人の方が集中しやすいし」
 三人にわざと聞こえるようにそう言い放つ。
 そして、送る視線。
 僅かに悔しさと侮蔑を込めた表情を三人が浮かべる。だが、そんな事など全く取り合わず、私はさっさと三人に背を向けて処置室へ向かった。
 我ながらキツイ言葉だ。
 でも、考えるより先にこういう言葉が出てしまう。幾つになっても治らない、私の悪い所。
 自分がこの学科で孤立してるのは、この性格も少なからず原因になっているようね……。
 そう思い、心の中で密かに微苦笑。
「治療を始めますので、患者以外の方は処置室から出て下さい」
 処置室のベッドの傍らで不安そうに怪我人を見ている彼らに、私はなるべく冷徹に有無を言わさぬ強い口調で言い放つ。
 それに気圧されたのか、担架を担いできた彼らは黙って頷き処置室から出ていく。法術師と患者の間には、先輩後輩関係も無い。
 私は後ろ手に処置室のドアを閉める。
 法術で治療をする時、どうも私は口調が冷たくなってしまう。自らに冷静になるように言い聞かせているためか、もしくは、気を張り詰めさせていないと失敗しそうで恐ろしいからか。
 ひゅうっ、と深く深呼吸。
 身体に流れる生体エネルギーの波長に意識を向ける。やや弱くはなったが、二人を治療するには十分だ。
 さあ、始めよう。






 どれだけ時間が経っただろう?
 随分長い事、自分の体の感覚を忘れていた気がする。
 ゆっくり全身の感覚を呼び覚ましていく。
 胸の鼓動。
 呼吸の音。
 普段はあまり聞く事の無いそれらの音が、はっきりと力強く聞こえてくる。
 私は……眠っていた?
 閉じられたまぶたに気がつく私。
 ゆっくりと目を開ける。
 と。
「ん? 起きたか」
 私の顔を、ガイアが見下ろしていた。
 周囲は薄暗くなっている。暗さから考えると、もう六時は回っているだろう。
「私、寝てた?」
「寝てたというか、失神したというか。処置室から出てきたと思った途端、突然倒れたんだ。憶えてないのか?」
 そうか……。きっと、法力を使い果たしたせいで倒れてしまったんだ。
「ったく、連中も礼の一つも言わないで行っちまったぜ。命の恩人に感謝の念というものがない」
「別にいいわよ。法術師なんてそんなもんだし、感謝されたくてしている訳じゃないから。それにしても、どうして膝枕?」
 ようやく気づいたのだが、何故か私の頭がガイアの腿の辺りに乗せられていた。
 何? このシチュエーション。普通、逆じゃない?
「ただ寝かせるのも味気ないかなあと思って」
「そう。道理で寝心地が悪い訳ね。男の足って筋張って固いし」
 居心地はいいんだけど。
 でも、こんな事を言うと、またすぐに付け上がるので黙っておく。
「お前さ、少し無理し過ぎだぜ? こんな事を繰り返してたら、長生きできないぞ」
「そうね……。ほどほどにしておくわ。人生楽しめないで早死にするのは嫌だし」
「辛い時は辛いでいいんだ。立場上、しょっちゅう言うのは難しいだろうけどさ、別に俺はそういうのは構わないし」
「気が向いたらそうするわ」
 つん、と言い捨てる。
 が、すぐに視線を合わせ、そして微笑。
「私が目を覚ますの待っててくれたんだ?」
「まさか、ここに放置するにもいかないだろう?」
「意外と優しいところあるんだね。ん? もしかして、私が眠ってる間に変な事しなかったでしょうね」
「いやいや、胸といいお尻といい、なかなか良いものをお持ちでした」
 真面目な顔でそう言うガイア。
 私は微笑んだまま、ガイアの脇腹に指を伸ばす。
 腹筋の一部を摘み、一気にねじる。
「いだだだだ! 嘘、嘘! 冗談だって!」



TO BE CONTINUED...