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翌朝。
私はいつもの時間に部屋を出てアカデミーに向かった。昨夜、ガイアから押収してきた上着を着てきたが、今朝はそれほど肌寒くもない。どうやら、ようやく春らしい気温になりつつあるようだ。けど、私は少しだけ春には嫌な事がある。それは、私が花粉症だからだ。ニブルヘイムは寒帯の気候のため、春には凄まじい量の花粉が飛散する。花粉症なんてあまり珍しいフレーズでもないけれど、やっぱり花粉は嫌いだ。私はすぐに目にくるのだ。それに、花粉症の法術師なんて格好悪い。
「あら? セシア?」
路地を出て、大通りに入って二、三分ほどたった時。背後から疑問刑の口調で呼び止められた。
振り向くと、そこにいたのは細長い槍袋を携えたロイアだった。戦士系の学科では、二回生になると各生徒に武器を配布するのである。
「おはよう」
「おはようございます。やはりセシアでしたか。それにしても、もしかしてそれは」
「あ、これね。そう、ガイアのヤツ。昨夜色々あってさ、私の上着が駄目になっちゃって。それで貸して貰ったの」
「まあ。何か大変な事でも?」
「ちょっとね」
私は昨夜の出来事を話して聞かせた。ただし、あくまで野次馬としての視点からのものだけだ。特にガイアのあの事に関しては、一言足りとも触れないように細心の注意を払う。客観的に物事を話すのは、少々労だった。私はあまり喋り慣れていない。取り敢えず思った事を直感的に話すのならともかく、頭の中で事細かに編集しながら話すのはなかなか苦労する。
「怖い事件ですね。何ヶ月か前にも通り魔事件が起こりましたのに」
「そうね。結局は犯人も捕まらなかったし」
「女の身では、一人歩きは危険ですわね」
「同感。でも、ヨツンヘイムよりはまだマシかな?」
ヨツンヘイムとは、丁度ニブルヘイムの隣国に当たる国だ。
そこは大陸一治安の悪い国とされている。国を統括するヨツンヘイム政府は存在するのだが、その政府も対処し切れないほど、大小の犯罪的組織が無数に乱立しているのである。しかも、ヨツンヘイムの経済は外交取引が大部分を占めており、港からもごく当たり前に他国の犯罪組織が入国しては国を揺るがしていく。
この現状から、ヨツンヘイムには治安組織というものが存在しない。基本的に犯罪が起きれば、ニブルヘイム一の戦力を持つ戦闘集団『北斗』という国家直属の軍事組織が出動し、問答無用で鎮圧する。裁判といった司法的概念も役目を果たさないため、検挙するより文字通りの排除してしまう場合が九割方を占めている。しかし、実際に治安が守られているのは、北斗の本部や支部がある経済都市だけである。特に大都市から離れた所は、犯罪が当たり前に横行するような無法地帯と化している。それに比べたらニブルヘイムなんてまだまだ幸せな部類である。
てくてくと朝の大通りをアカデミーに向かって歩く。同じ通りに、登校や出勤する人の姿がまばらに見える。皆、この一日の始まりをどのように思っているのだろうか? 私は、綺麗な空気がとても清々しいと思う。
そういえば、誰かと一緒に学校に行くなんて、前までは考えもしなかった事だ。やや自惚れのような発言だが、私は出来過ぎるために法術学科では孤立してしまった。その上、学科長や理事長にまで気に入られてしまっているので、周囲にとっては尚更気に障るのだろう。法術学科の生徒の大半は女性だ。何故なら、法術のメインとなる怪我の治療には、患者と同程度の感覚的苦痛が伴うからだ。痛みに対しての耐性は、先天的に男性よりも女性の方が優れている。結果的に歴史上の優秀な法術師は、皆女性なのである。
異性の目がない時ほど、女は陰湿なものである。露骨に避けられ、詰られる事もしばしばだ。私がトントンとカリキュラムをこなしてしまった事が気に入らない、と思っている者は大勢いる。教師達が私の出来を誉め、そして他の生徒が私と比較される。みんなはそれが癇に障るのだろう。別に私はそれを鼻にかけるつもりはないのだけど、たとえそんな弁解をした所で嫌味な謙遜としか聞いてはくれないだろう。
どうせ―――。
私も私でこんな性格だから、すぐに意固地になり、自分から周囲との関係を断ち切った。それがかえって深い溝を作り出し、私の人格がどんどん歪んだ形で噂として流れていく。そんなこんなで、遂に私は、アカデミーには法術師としての称号を得るためだけに行くのだと割り切る事にした。そうすれば、人間関係で疎ましさに悩む事もないのだから。そんな私が、今ではこんなに自然に人と笑い、それが日常の生活の中に当たり前の事として入ってきている。人の価値観とは、その時は揺るぎないものなのだが、変わるときはいともあっさりと変わるものである。
ロイアと他愛のない会話をしながら、アカデミーへ到着。中庭で別れて、私は法術学科へ。校舎の中は温かく、私は入り口でガイアの上着を脱いだ。ふと思ったが、私は女性では割と背の高い方だけど、ガイアの上着のサイズは私のものよりも一回り大きい。袖は先を折らないと手がすっぽりと中に収まってしまう。今思ってみれば、男物の上着を着て歩いてる私は、かなり変に見えるのではないだろうか? ロイアの疑問符も、何故私がガイアの上着を着ているの? ではなく、何故似合わない男物を着ているの? だったのかも知れない。下品な冗談に腹を立てた勢いで押収したものだけど、やっぱりよしておけば良かった。
そして、いつもの通り自分の研究室へ。
私は全ての過程を修了したため、もはやアカデミー内では受けるカリキュラムがない。通常ならばそのまま飛び級で卒業となるのだが、法術学科だけは違う。法術は魔術に比べてまだまだ研究が進んでおらず、未知の部分が多い。そのため、法術学科の生徒は必ず四年間修学させられるのだ。私のような生徒は、特にアカデミーに残され、卒業までの時間を法術の研究に当てがわさせられるのである。おそらく四回生あたりになる頃には、神器の開発研究に加えられるだろう。
研究のために与えられた私の研究室は割合広々としたものだ。だが、あちこちに本棚や、そこに収まりきれなくなって床に積み上げられた本の山が無数にあるせいか、あまりそうとは思えない。実際、気兼ねなしに歩ける場所なんてほとんどない。いい加減整理しようと思うのだけど、なかなか行動に移す事が出来ないでいる。
上着をイスの背もたれにかけて座る。デスクの上には参考書やらレポートの断片やらが散乱している。その中から、昨日資料不足で断念した書きかけのレポートを見つけて引っ張り出す。
「あ!」
思わず私は声を上げた。
昨夜、たまたま見つけた古書店で買った神学辞書。ばたばた騒いでいた内に、すっかり忘れてしまっていた事に気がついたのだ。
少なくとも自分の部屋にはなかった。と、なれば、あの時に通りのどこかにほったらかしておいた可能性が高い。
はあ……。そんなに安いものではなかったのだけど。ま、アカデミーからの研究費で買ったんだけどさ。
取り敢えず机の上をざっと整理する。このままでは、インク壷を置く場所もない。
大体の整理がついた頃、ふと埃が目立ち始めた柱時計に目を向ける。最初の講義が始まってから十分ほど経過した時刻だった。今頃、私の同窓生共は、出来る出来ない分かる分からん、などとぼやいているだろう。こういう言い方はあまり好きじゃないけど、やっぱりいい気味と思う。根も葉もない私の事を吹聴するんだから。せいぜいお悩みなさい。私だって、何の苦労も努力もなしに今の地位を手に入れたんじゃないんだから。
それにしても、どうして私はこんな、お世辞にも居心地の良いとは言えない所にいるのだろう?
そう、法術師を目指すきっかけは、本当に些細な事だった。
ある日、故郷の町に預言者と名乗る占い師のような男がやってきた。初めはみんな胡散臭がっていたが、大地震を予言した事を皮切りに、彼は次々とこれから起こる事を言ってのけたのだ。そんな中、私の両親が何を血迷ったか、私の将来について訊いたのだ。結果、私はアカデミーの入学試験を受ける事になった。将来、有名な法術師になる、と出たからだ。別に他にやりたい事があった訳でもなかったので、なんとなしに目指す事になった法術師。ところが、こうも私は化けてしまった。そう、預言者の言う通りだったのだ。
法術の研究はそれなりに面白く、決して日々が充実していない訳ではない。けど、どこか情熱を抱けないのも事実だ。あの預言者は、アカデミーを卒業した先の事も言ったそうだ。両親は教えてはくれなかったけれど、つまり自分の将来は既に定まっている、という事だ。絶対に的中する預言者が言ったのだから間違いはない。
その事を考えてしまうと、どうも私は、何と言うか気が萎えるのだ。
昨夜、ガイアにはあんな事を言ったけど、私がこれじゃあね。邪眼を生まれ持った運命に負けないで。しかし、それを言っている自分自身、予言などというたわけた運命に縛られている。どうなるのかは知らないけど、既に私はどうなるか決まっているのだ。だから、努力したって何の意味もなさないのだ。
駄目ね。後ろ向き。
やれやれ、と微苦笑。
ガイアもこんな気持ちなのだろうか?
これからはちゃんと支えてあげなくちゃね、と思う。あんなに苦しそうなガイアは見ていられなかった。邪眼という未知の領域に足を踏み入れる恐怖はあったけど、それ以上にガイアが辛い思いを一人で抱えているのは放っておけなかった。自分の中に、ガイアに対する何かしらの特別な感情があったのは、百歩譲って認めよう。人を救う存在である法術師としての立場上、というものは建前程度にしか私にはない。そもそも私自身、法術師の存在理念を遵守するほど真面目な人間でもないし。
つまり、ガイアの支えになると志願したのは、その僅かながらの特別な感情が故であって……。
と、私はそこで思考を中断させた。
まったく。そんな事はどうでもいいじゃない。ああ、もう。知らない。知らない。何にも知らない。
思考を研究モードに切り替え、貪るように資料を読み漁り始める。
私は一度読書に集中すると、何時間でも読み続ける事が出来る。でも今は、むしろそうする事で雑念を払うためにやっているように見えた。私の頭の中にある冷静沈着なセシアが、無我夢中で本を読む私にそうつぶやく。
だから、違うっての。単に私は、研究の進行の遅延を取り戻したいだけなのに。
そんな葛藤の中でレポートを書き続けること、云時間。
ふと私を空腹感が襲った。
顔を上げて柱時計を見ると、そろそろ昼食の時間だった。私達はいつも南食堂の同じ席でゴハンを食べる。どういう訳か、どんなに込み合っていてもそこだけは必ず八人分の席が空いているのだ。私が思うに、ヴァルマがなにやら良からぬ手回しをしているからだろう。
「さて、と」
私は手早くまた散らかってしまった資料を机の隅にまとめる。そして、イスの背もたれにかけていたガイアの上着を手に取り部屋を後にする。念のため、施錠。留守中に嫌がらせを受ける可能性もなきにしもあらずなのだから。
まだ今日はガイアの顔を見てないけど、ちゃんとアカデミーに来ているかしら? ガイアにはいつも通りに接してあげなくちゃね。昨夜の限りでは元のバカに戻ったようではあるんだけど、なんか意外と傷つきやすいようだし。
心なし早歩きで、私は校舎を後にした。
TO BE CONTINUED...