BACK
「『慈悲深き生命の神よ。今ここにその力を示し賜う―――』」
男の頭を包んでいた炎は消え、その代わりに今は私の手から放たれている淡い光に包まれている。
「う、うう……」
苦しげな男のうめき声。だが、激痛のあまり転がり悶えていた先ほどに比べたら遥かに回復している。
法術による相手との生体エネルギーとのシンクロが始まっているため、私の首から上には火傷のような鈍痛が走っている。顔を焼かれたこの男性が感じている痛みだ。
私はその痛みに耐えながら、法術による治療を続ける。酷い火傷だ。法術で代謝を加速しても、このペースでは完治させるのは難しいだろう。とにかく、少しでも皮膚の再生を促して皮膚呼吸率を上げなければ。
「おい、こっちだ!」
と、そこに救急医療機関関係の隊員らしき人が数人現れた。
「アカデミーの生徒さんですね。後は我々に」
「お願いします」
そこで私は重傷の男を彼らに引き渡す。私はまだ、法術の治療の経験に乏しい。つまり、知識だけは豊富にある辞典のような法術師なのだ。だから、こういった一刻の猶予を争うような事態の場合は、医療のプロフェッショナルである彼らに任せた方がいい。
男が担架に乗せられて運ばれて行き、何事かと集まってきた群衆も雲霞のようにそれぞれ街の中へ消えていく。俄かに周囲には、再び夜の静寂が戻った。
あら……?
辺りを見渡すと、そこにガイアの姿はなかった。
どこに行ってしまったの?
ただでさえ様子のおかしかったガイアだ。あんなに泥酔した状態で街中を徘徊させては、いつまたトラブルに巻き込まれるか分かったものではない。
あのまま放っておく訳にもいかなかった私は、すぐさま探しに走り出したす。上着には先ほどの炎で穴が空き、もう着れなくなってしまった。そのせいで、冷たい夜風がかなりこたえた。
それにしても、先ほどのあれは一体なんだったのだろう? いきなりあの人の頭が燃え出すなんて。
ガイアが魔術を使った?
いや、それにしては全く予備動作が見られなかった。魔素の流れも感じなかった。それに、あの傷痕は魔術によるものではない。明らかにれっきとした本物の炎による炎症だ。前に本で人体の自然発火現象について読んだ事がある。あれは空気中に燐が多く飛散した時に起こるものだ。燐は僅かな衝撃でも爆発的に燃え広がる。それがたまたま人の近くで起きたのが人体発火現象であると言われている。しかし、燐とは主に生物の死体から発生する。あんな舗装された場所で大量に飛散するとは考えにくい。そもそも、あれだけの火傷を負わせるほどの火力があると考えにくい。
ならば原因は何なのだろう……?
いや、そんな事を考えるよりも、まずはガイアを探さなければ。
聴覚を研ぎ澄まし、夜の街を走る。法術の力の源は自らの生体エネルギーだ。生体エネルギーを自在に操る事が出来れば、ある程度なら自分の身体能力を強化できる。とは言っても、ロイアの昇華のように爆発的な力は生み出せない。あくまで、人間が本来持ちえるポテンシャルを限界まで引き出す程度だ。それでも効果は劇的である。
ガイアの気配はどこにも感じられない。聴覚だけでなく、触覚なども限界近くまで引き出し、認識能力を最大限まで引き出しているというのに、ガイアを捉える事が出来ないのだ。
何の手がかりも得られないまま、時間だけが刻一刻と過ぎ、いつしか焦りを募らせるようになる。
彼の性癖や趣味、生活の全てを把握している訳ではなかったが、大方考えうる彼の行きそうな所は全て回った。しかし、依然として彼は見つからない。
ならば、後は自宅しかない。
私はガイアの部屋がある寮へ向かった。
「あ……」
ガイアの部屋のドアは無用心にも開かれていた。
部屋を出る時にこのままにしていたのか、それとも―――。
と、その時。私は部屋の中からガイアの気配を見つけた。
やけに鼓動が早く呼吸も荒い。かなり興奮しているようだ。感情が酷く昂ぶっている。
何やら嫌な予感が脳裏を過ぎり、急げと私の背中をしきりに押す。私はそのまま部屋へ飛び込んだ。
ようやく辿り着いた薄暗い部屋の中には、ぜいぜい、と俺が肩で息をする音だけが反響する。体は熱く火照っているのに、何故か背筋は冷たく、そして冷たい汗が止まらなかった。洗面台に向かい、水道から勢い良く水を出す。その水を貪るようにして飲み、そして蛇口の下に頭を押し込んで冷たい水を頭からかぶる。
熱くなっている俺の頭にかかる冷たい水の感触が心地良かった。嫌な汗や被った埃も全て洗い落としてくれる。しかし、俺自身が犯した事だけは、洗い流してはくれない。それを思うと、途端に流れる水に助けを求めてしまった自分が惨めに思えた。
火照りが落ち着くと、今度は体中が寒くて寒くて仕方なくなった。俺は蛇口を閉め、水を止める。洗面台の両端にそれぞれ腕をついた姿勢でうつむく。下を向いた頭からは、今まで被っていた水が雫となってポツポツと滴り落ちていく。
俺はどうしようもない罪悪感に囚われていた。
また、やってしまった。あんな事、もう繰り返さないと決めていたはずなのに。
邪眼が一度でも発動してしまうと、それから畳み掛けるように次々と事を起こしてしまう。邪眼の力が俺の精神状態に強く左右されるからだ。だから、今、俺が人のいる所に行けば、またあのような惨劇を繰り返してしまうはずだろう。
もう嫌だ。
頭を上げ、洗面台正面の鏡を見る。そこには、憔悴した情けない顔の男が映っていた。
指を伸ばし、彼の目をなぞる。神の悪戯なのか、悪魔の思し召しか。何の因果か、生まれ持ってしまった、呪われた双瞳。呼び起こすのは、終わりない悪夢のような災厄ばかり。
鏡に映った瞳に指を立て、怒りを込めて強く押す。
潰れない。
俺は腕を振りかざし、鏡に向かってこぶしを叩きつける。
破砕音。
鈍い傷みと共に、カーッと熱くなるこぶし。
鏡には蜘蛛の巣状に亀裂が走り、男の顔は見えなくなる。でも、まだ呪われた双瞳は、ここにある。
そもそも、こんな眼があるから。だから辛い思いばかりするんだ。
限界だ。いっそ、潰してしまおう。
辛い目にばかり遭うのであれば、こんなもの、なくなってしまった方がいい。
何かいい道具はなかったか……? そうだ、キッチンに……。
俺は洗面台を後にし、キッチンへ向かう。水回りのすぐ傍には、調理器具を置くための整理棚がかけられている。その中から、俺は一本の果物ナイフを取り出す。何割引かで買った安い代物だ。けど、この眼を潰してしまうには十分だ。
ナイフを握り締め、刃先を自分の顔の方へ向ける。鋭い刃先と俺の視線がかちあう。俺はこれと同じような事を、これまでに何度も繰り返した。しかし、結局一度足りとも事には至らなかった。いつも、視力を失う恐怖に負けてしまい思い留まってしまうからだ。
だけど、今回は違う。今度こそ本当に未練はない。こんな眼があるから。
今まで思い留まり続けてきたせいで、一体何人の人間が不幸な目に遭った?
そうだ。
初めからこうしておけば、誰も傷つかずに済んだのだ。長きに渡って俺を苦しめ続けてきた二つの悪魔。今、それを断ち切って、楽になろう。俺は刃先を右目に向けて狙いを定める。
よし……行くぞ。
腕に力を込め、自分に目掛けて引き寄―――。
「ガイア!」
次の瞬間。
突然、俺は何者かによって横から突き飛ばされた。予想だにしなかった事態に、俺はあっさりと床に転ぶ。
「何やってるの!?」
と、右手を掴まれる。状況を把握出来ず狼狽する俺は、握っていた果物ナイフをあっさりと奪い去られる。
誰だ? 俺の邪魔をするヤツは……。
頭を上げると、そこには薄闇の中に怒りの表情で立つセシアの姿があった。
「セシアか……」
「セシアか、じゃないわよ! 一体何をしているの!?」
激しく俺を怒鳴り散らすセシア。普段は割と冷めた性格をしているだけに、こうも感情的な姿を見るのは珍しい事だ。
「別に……」
「別にじゃない! 本当に、あなた一体どうしたの? 今日のガイア、どこかおかしいわよ?」
うるさい。
放っておいてくれ。
お前には関係ない。
そんな非難めいた言葉が次々と脳裏に浮かんでは消える。
今の予定を邪魔をされた事で、また気持ちが苛立って来た。元々、大した精神力も度量もない俺だ。一度波の立った感情を鎮める事は容易ではない。
「うつむいてないで、こっち見なさいよ」
おもむろにセシアの手が伸び、俺の顔を上に向ける。
「見るな!」
思わず俺は、その手を振り払った。
「ガイア?」
「寄るな! 俺に近づくと不幸になるぞ!」
そう叫びながらも、俺は視線を下に向けていた。決して俺の視界にセシアを捉えないように。もし、今の俺がセシアと視線を合わせてしまったら、間違いなく先ほどのような不可解な災厄がセシアの身に襲い掛かる。
「何を言ってるの?」
おそらく首をかしげているであろう、疑問の色があらわになったセシアの口調。
けど俺は、全てを話したくなかった。自分が邪眼の持ち主であるなんて、誰にも知られたくない。俺は、この事は両親にでさえ隠しているのだから。
「理解しなくていい! する必要もない! とにかく、俺と目を合わせるな! さっきのあれも見ただろ!? ああなりたくなかったら、早くここから出てってくれ!」
一息で、吐き捨てるようにそう言い放つ。こういう威圧的な言い方は好きではなかったが、今はこうでもしないと、セシアをこの場から去らす事が出来ない。感情がどうしようもないほど波立っている。こんな時に誰かと視線を合わせたら、確実にその人を殺してしまいそうだ。
頼む、何も言わずに帰ってくれ。
祈るような気持ちで、俺は何度も心の中で請願した。
「……」
すると、その思いが通じたのか、セシアは無言で踵を返し玄関の方へ向かった。間もなくドアの閉める音が聞こえる。どうやら部屋から出て行ったようだ。
良かった……。
これで、この部屋には俺以外の人間はいなくなった。この邪眼が誰かを傷つける事もない。そんな安堵感も束の間、すぐさま俺の胸中は暗い絶望感に塗り潰された。
誰にも知られたくない、俺の秘密。
けど、その一方で、俺は誰かに自分の苦しみを理解して欲しかった。人を感情の力だけで殺す事が出来る邪眼。これを抱えるのは、俺一人ではあまりにも重過ぎるのだ。その内に理解者が現れるなんて、希望的観測にしか過ぎない事は分かっている。けど、心の奥で理解者を求めて悲鳴を上げている自分の存在は、目を背ける事が出来ないほど大きく増長している。
絶望感に窒息しながら、ふらふらと立ち上がる。場所をリビングに移し、そのまま床に崩れ落ちるように座った。悩めば悩むほど頭は重くなり、自然と頭をもたれていた。どうしてこんな思いをしなくてはいけないのだろう。俺はこの眼のせいで、一生、人とはまともに付き合っていけないじゃないか。今では、平常時でもすっかり人の目を見るのが怖くなってしまった。自分はこの人を傷つけてしまうのではないか、とか、自分が邪眼の持ち主である事を見透かされているのではないか、とか、そんな予感が頭をしょっちゅう過ぎるのだ。
今はなんとか耐えている。けどそれも、俺みたいなちっぽけな人間が、いつまで続くのやら……。
と。
突然、俺の背中に温かいものが触れる。驚きのあまり肩をびくっと震わせる。
これは、背中……?
「こうしていれば、視線合わせなくて済むわよ?」
背中の向こうから、そう優しく語り掛けてきた。
「セシア? 帰ったんじゃ……」
「女ってね、執念深いの」
くすっと笑いを交え、冗談めいた口調で答える。
あんな事を言われたのに、セシアはとても落ち着いていた。いや、これは案外、そう繕っているだけでは……?
「ちょっと、ツッコミ入れてよ。いつもなら、それはお前だけだって言うじゃない」
「……そうだな」
「ねえ、本当にどうかしたの? こんなガイア、初めて見るけど」
普段、俺がどう思われているかは知らないが、それほど今の俺は普段と様子がおかしく見えるのだろう。
「あら? 手、ケガしてるじゃない」
すると、床についていた俺の右手に、何か冷たいものが触れた。恐る恐る横を振り向くと、俺の手にはセシアの手が重ねられていた。寒い中をわざわざ来てくれたからだろうか。セシアの手はとても冷え切っている。
ぼうっ、と淡い光が放たれ、俺の傷ついた右手を包み込む。
法術の癒しの光だ。
その光が、今の俺の目にはとても温かく映った。
傷と共に心まで癒される。そんな錯覚を覚えながら、俺はボーッとその光を見下ろしていた。
TO BE CONTINUED...