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体に何かが圧し掛かっている。
重い。
息苦しい。
跳ね除けようと両腕を伸ばす。
しかし、何故か自分の思い通りに動かない。不思議と力が入らないのだ。
力を込めようとすればするほど、まるで手のひらにすくった水が零れ落ちていくかのように体から抜け出ていく。
おかしい。
変だ。
私はどうしたのだろう?
問い掛けても、言葉は暗闇に飲み込まれるばかりで返ってこない。
僕は一睡も出来ないまま、夜を過ごした。
四肢の傷がしくしくと痛む。僕が自分でつけた拘束具を無理やり引き千切った時に出来た傷だ。
けど、それ以上に僕は、自分の犯した事への罪悪感に苦しめられていた。
それでも、太陽が昇れば、思い出したように空腹感が訪れる。
そんな不謹慎な自分に苛立ちを覚えながらも、僕は朝食の準備に取り掛かった。
気分は酷く重かった。あれだけ自分を抑えようとしていたにも拘わらず、結局、昨晩僕は部屋の外へ飛び出してしまったのだから。
いや、それだけではない。僕は、更にもう一つ、犯してはならない事を犯してしまった。自分自身に怒りさえ覚える。だけどそれは、すぐに絶望という名の深い溝に落ち込んでいく。僕はただひたすら気持ちを暗い場所に押しやっているしか出来なかった。
テーブルの上に二人分の食器を並べていく。
薄い青の皿は、僕のもの。
そして薄い赤の皿は、リームのものだ。
一応、こうして用意はしたものの、果たしてリームは食べていってくれるだろうか?
すぐに目を覚ますかどうか以前に、僕の正体を知ったリームが、僕と朝食を食べてくれるのか、という不安。
もしかしたら、僕は殴られるかもしれない。治安機構に引き連れられるかもしれない。でも、もしそうなろうとも、僕は全て受け入れようと思う。何かしら罰を受ければ、僕は自分を許せるはずだから。その結果、命を失う事になっても構わない。僕は、自分で選んだ道の過程で死ぬのであれば、少しも後悔はしない。ヴァンパイアが人間社会の中で行きようと思った事自体がそもそもの誤りだったのだ。これは、そうと知っていながらも現実に目をつぶり続けて来た僕が受けるべき当然の報いなのだ。
「う〜ん……」
ベッドの上のリームが苦しげにうなる。
「あ」
僕は持っていたティーポットをテーブルの上に置き、ベッドへ駆け寄った。
ベッドの上で、リームは何度も寝返りを打つ。眉間に皺を寄せながら、苦しそう、というよりも、自分の眠りを妨げる何かに苛立っているような表情だ。
そして、
「……ん……?」
ふと目が開いた。
「あれ?」
視線が天井をなぞる。普段、自分が目を覚ました時とは違う天井に疑問を抱いている表情だ。そして、まだ寝惚けているのか、どこかボーッとした様子で僕の方を向く。かちあう視線。瞬間、僅かに大きく見開いた。
「え!? や、ちょ、ちょっと! え!?」
僕の顔を見るなり、リームは慌てて毛布で体を隠しながらベッドの隅に逃げる。
「あ、ああ……えっと、その……」
一体何から説明すればいいのだろう……?
リームの慌てように、僕も戸惑ってしまう。何から話そうと考えていた事は、既に頭の中から綺麗に抜け落ちてしまっている。
「ここ……グレイスの部屋?」
「え? ああ、うん……」
恐る恐る、慎重な口調で訊ねるリーム。
視線はきょろきょろと周囲を泳ぎ、終始落ち着かない。
「昨夜、私どうしたんだったけ……? グレイスのとこには来た憶えがないんだけど―――ん?」
と、リームの手が自分の首に触れた。
リームの首には包帯が巻かれている。僕が巻いたものだ。
昨夜、僕が噛み付いた所だ。傷自体はそんなに大きくもないが、化膿するかもしれないのでちゃんと手当てしたのだ。
「これ……何?」
「あ、えっと、それは……」
僕がつけた傷。
真っ白な頭にはっきりとその言葉が浮かび上がる。何故か、言いづらい言葉はするすると浮かんでくる。
「……あ! そうだ、私! 確か昨日、アカデミーで通り魔の見回りしてて―――」
ハッとした表情のリーム。
そう、それは僕があの一連の事件の犯人である事を知っている顔だ。
もう僕が言うべき事はない。何を言っても、ただの言い訳になってしまうのだから……。
「グレイスだったの……?」
「うん……」
信じられない、とでも言いたげな口調のリーム。
だけど、僕は首を縦に振るしかない。
「ねえ、どうしてなの? どうしてこんな事……」
言うべきなのか。
一瞬、僕は躊躇った。
僕は、自分の生まれの事は誰にも知られたくなかった。
『僕の体にはヴァンパイアの血が流れています』
そんな事を言ってしまっては、人間社会で生きていくなんて出来るはずがない。だから、これまで誰にもその事は話さないで来た。リームにですら、僕は隠し通してきた。誰よりも、一番知られたくなかった人なのだから。しかし、もはや話さざるを得ないだろう。今更隠した所で何の意味もない。全ての事実は露見してしまったのだ。隠した所で、より誤解の溝を生むだけだ。
緊張のあまり、口の中が粘ついてきた。手が震える。拒絶される恐怖が頭の中を何度も往復する。それでも僕は、決心を固め、ゆっくり口を開いた。
「僕……ヴァンパイアなんだ」
そして、反応を見るのを恐れるあまり、視線を下へ伏せる。
「ヴァンパイ……ア?」
「うん……。正確にはクォーターなんだけど」
「私のこれ、グレイスが?」
そっと首に触れて問う。
それの意味する所は、私の血を吸ったのはグレイスなのか、という事だ。
「ヴァンパイアの血の影響なんだ……。ただ僕は、習慣だけを強く受け継いじゃったみたいで、時々血を吸わないとおかしくなっちゃうんだ……」
「そっか……確かに、普通じゃなかったもんね」
普通じゃない。
当然の事だけど、その言葉がやけに痛く胸に突き刺さった。
「ところでさ、お腹空いたんだけど」
「え? ああ、うん。もう出来るよ」
僕はその場から逃げ出すようにバタバタとキッチンに戻る。
反射的に言ってしまったが、うなづいておきながらリームの言葉に今更驚く。
それでも、僕といままで通りに付き合ってくれるのだろうか? 実は、そう言って油断させておいて……。
が、そこで僕は思考を中断させ、暗鬼を胸から追い出す。
「ねえ、私の服は?」
「そこにかけてるよ」
「あ、あった。もしかして、グレイスが脱がせたの?」
「ま、まあ……」
「変な事してないよね?」
「し、してないよ!」
「冗談」
クスッと笑う声が聞こえる。こうしてリームと会話していると、とても気持ちが落ち着いた。
出来ればずっとそうしていたかったと思う。でも、もう無理だろう。僕は魔物であり、リームは人間なのだから。
なんとなく顔を合わせるのが気まずく思いながらも、いつものように向かい合って朝食を始める。
視線を合わせるのが酷く怖かった。
リームがどんな視線を僕に向けてきているのか、見るのが恐ろしかったのだ。
「グレイス、もっと肉かなんかない?」
「実家から送ってきたハムならあるけど」
「あ、それちょうだい」
僕は一時席を立ち、キッチンへ向かう。
リームは相変わらずの食欲で次々と食べている。まるで失った血を取り戻すためのようにも思える。
僕の考え過ぎだろうか? いや、そうとも……。
「ねえ、グレイス。どうしてアカデミーに入ったの? こんなに苦しい思いをするって知ってて」
テーブルの方からリームの声。
「この発作は、まだその時はなかったんだ。最近になって急に現れたから」
魔族は丁度生まれて十六年目に、身体組織の細胞が最も活性化する。その時が魔族としての本格的な覚醒なのである。だが、僕は極めて薄い混血であるため、その時期が僅かに遅かったのだ。しかも、本来あらざるべき存在であるため、互いの血が反作用を起こして反発し合っているのだ。
「僕はどうしていいのか分からなくて……。僕は自分が人間じゃない事は知ってたけど、それでも人間として生きたかったんだ……」
アカデミーに入るまで、僕はずっと実家で閉鎖的な生活をしてきた。僕の家族は、人間社会では生きる事が出来ないため、あえて人間の目から隠れて生活しているのだ。僕も本来ならばそういう生活をしなければいけなかった。けど僕は、あえて閉鎖的な空間を飛び出して人間社会で生きる事を選んだ。広い世界を見て、肌で感じ、その中で生きたかった。それで僕は、そう自分の意志で決めたのだ。だが、その結果がこれだ。僕のその決断のため、何人もの関係のない人を傷つけてしまった。もう僕は、人間社会にはいられない。僕という存在は害にしかならないのだから。
「一つ訊くけどさ、発作ってどのぐらいなの?」
「あんまり決まってないけど、やっぱり満月の時は辛いかな……」
満月になると、僕の中のヴァンパイアの血が活性化する。そのため、普段はそれほどでもない吸血の衝動は倍以上にも膨れ上がり、最後は自我すら飲み込んでしまうのだ。丁度、昨晩の僕のように。
「ねえ、だったら、これからは私が血をあげる」
「え?」
突然、リームがそんな事を言い出した。
一体何の事だか分からず、上擦った声で問い返す。
「だから、血が欲しい時は私に言って。そうすれば、何事も問題ないでしょ?」
「そうだけど……でも、どうして?」
僕に血を吸わせてあげるって……。
どうして?
僕はヴァンパイアなのに。
「どうしてって言われてもさ……だって、グレイスが苦しんでるの、私、見てられないし……」
僅かに語調が下がるリーム。
「それに……私ね、グレイスの事が好きだから」
僕の事……が?
だから?
え!? っと、それじゃあ、その、えっと……。
頭の中に支離滅裂な言葉が並んでは消える。俄かに心臓は高鳴り出し、口を塞いだままでの呼吸が辛くなる。
「あの……」
「あ、それと!」
何か言おうとしたその時、リームはまるで強引に話題を変えるかのように言葉を被せた。
「さっき言ってた事だけどさ、あれ、違うよ」
「あれって?」
「グレイスは人間だよ。だって、人間として生きようとしてるんでしょ? だったら人間だよ。誰が否定しても、私が言うんだから間違いないわ」
僕は、この時の言葉は生涯忘れないだろう。
僕は人間。
そう言って、そして支えてくれる人がいたからこそ、今の僕がここにあるんだ……。
TO BE CONTINUED...