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体が、まるで風のように走っている。
僕はそんな自分の様子を、まるでガラス越しに見ているかのように意識していた。
ふわり、と跳躍しながら屋根伝いに疾走する。僕の体はまるで体重を失ったかのように、軽々と宙を舞っては着地する。
これは夢なのだろうか?
僕はこんなに運動神経は良くはない。第一、僕は高所恐怖症だ。屋根の上なんてとても登れやしない。
そうだ。夢に決まっている。
こんな風に、まるで空を飛んでいるかのように屋根なんか走れる訳がない。
それに―――。
こんなに、渇いているはずがない。
そろそろ十時だなあ……。
もう、アカデミー内に人はほとんど残っていない。すれ違う人間も減ってきた、というより、人の気配自体がほとんどない。もしかすると、もうアカデミーには私しかいないのかもしれない。
「ああああ! 腹立つ! なによ! 結局、何にも出てこないじゃない!」
周囲には誰も人の気配がないので、感情の赴くままに地団駄を踏む。
丸々一日、私はなんてくだらない事に時間を費やしたのだろう? ヴァンパイアどころか、通り魔すらなかった! こんな事ならば、走り込みをやってた方が随分マシだ! それもこれも、全て理事長のせいだ! そもそもあのジジイが、こんなくだらない事を私にやらせるからいけないのだ!
イライラを何とか押し殺しながら、なおも歩く。
舗道の照明はとっくに落とされている。だが、夜空に輝く満月の光が、歩くには困らない程度に足元を照らしてくれる。
もう……誰よ! 犯人がヴァンパイアだから、今夜みたいな満月の夜は絶対に出るって言ったのは!
「やってらんないわ……もう」
何回目になっただろうか、アカデミーの本校舎の正面玄関に辿り着く。今日はここをスタートとゴールにして、ぐるぐると回りまくった。ちょうどこの、理事長の銅像をポイントにして。
これを見ていると、ますます腹が立ってきた。
ふと気がつくと、私はつい、こぶしを握り締めていた。
どうせ辺りには誰もいない。だったら―――。
利き足である右足を軸に、くるっと体をひねる。そして、足首から始まった螺旋運動を、膝、腿、腰の順に伝えていきながら増幅させる。
「チェストー!」
その勢いを振り上げた左足に込め、一撃。
ガン、という音と共に、左足が銅像の頭を捉える。それを支えていた首は負荷に耐え切れず、そのまま千切れ飛ぶ。支えを失った頭部は左足から伝えられた衝撃に乗り、空高く舞い上がる。
「お、飛んだ飛んだ」
銅像の頭はそのまま闇夜に溶け込んでいき、やがて見えなくなった。
これで少しは気が晴れた。
さ、もうメシ食って帰ろう。どうせこんな所にいたって時間の無駄だ。
そして進路を校門へ定める。
まず、どっかの店で夕食にしよう。部屋に戻ってから風呂に入って、呑み直して寝よう。
お腹は、もう何時間も前からぐうぐうと文句をたれている。空腹感は、通り越したせいか微妙な疼痛に変わってきている。早いところ何か食べないと、今にも死んでしまいそうだ。
月明かりに照らされた舗道を歩く。
昼間はあれほど騒がしい中庭も、今はまるで嘘のように静かになっている。
私は、こういった静寂はあまり好きではない。どちらかといえば、カーニバルのようなざわめきと熱気にで溢れている場所が好きだ。あんまりこういう所にいると、気分までしみったれてくる。
「ん?」
と、ほのかに明るかった周囲が、急に暗くなった。どうやら月が雲に入ったようだ。
でも、自分は夜目は利く方だ。少しでも明かりがあれば、最低でも歩くのには困らないくらいは見える。
私は何事もなかったかのようにスタスタと歩く。とにかく今は、一刻も早く空腹を満たす事だけで頭がいっぱいだった。たとえ真っ暗だったとしても、少しも迷わずに食事処に行く自信がある。
が、その時。
「―――!?」
突然、薄闇の中に、明らかに自分のものとは違う荒い息づかいが聞こえた。
反射的に私は、薄闇に紛れて姿がよく見えないそれに身構えた。
『ハア、ハア、ハア……』
目をこらすと、僅かに人の形らしい影が見える。
何? こんな時間にアカデミーにいるなんて、絶対おかしい。もしかして変質者?
たまに街で見かける、痴漢に注意の立て看板を思い出す。前に二度ほど遭遇した事もあったが、速攻で自分の足では立てない姿にしてやった。
しかし。今、目の前にいるそれは、過去に私が遭遇した変質者の類とはあまりに雰囲気が違う。
ふと、自分の意思とは別に、背中がブルッと震える。
目の前のこいつから伝わってくる、まるで氷のように冷たい空気。これは、本物の殺気だ。それも、そこら辺にいるような、二流三流のものではない。
これって、もしかしてビンゴ?
今、目の前にいるこいつは、もしや例の通り魔なのだろうか? 確かに、これだけの威圧感を与える力量の持ち主ならば、今までの被害者が皆、あっさりとやられてしまったのもうなずける。
よし、これは仕留めるチャンスだ。たとえ犯人でなくとも、不法侵入者を捕まえた事になる。本気でやっても問題はない。
ドクドクと高鳴る胸の鼓動を抑え、私はゆっくり身構える。
「あんた? 例の通り魔ってのは」
しかし、その影は答えない。
まあ、自分からそうですと名乗るのもおかしな話だ。
さて、どこから仕掛けようか……。
全神経を薄闇の中の存在に注ぎ、頭の中で戦略を組み立てる。
と―――。
「!?」
薄闇の中のそいつが動いた。
瞬間、左の頬がピリピリする。咄嗟に左側からの攻撃に対する防御姿勢を取る。
左手を構えると同時に、衝撃が走った。
く……っ、こんにゃろう!
更に畳み掛けるように、次々と攻撃の手が襲い掛かってくる。驚くほど俊敏な攻撃だ。実技授業の教師もなかなか素早い攻撃を繰り出してくるが、これほど余裕のない防御を強いられる程でもない。
だが、その割には動き自体が少しも洗練されておらず、ただ力任せに襲い掛かってくるような感じだ。特に訓練を受けた訳でもないが、基本的な体力がこちらを遥かに上回っているのだろう。
まずい……攻められてばかりだ。
既に防御の腕には限界が近づいてきている。
このままではやられてしまうのは分かっているのだが、とても反撃する暇なんて見つからない。
ようやく私は、自分が目の前のこいつに勝てない事を悟った。
なんて強いんだろう……。まさか、こんなになんて……。
かつて、これほど一方的やられた事があっただろうか? 記憶の限りでは、それは父親との稽古のみだ。
『ガアアアア!』
と、防御が遅れ気味になっていた腕の間を通り抜け、ヤツの両腕が私の両肩を掴む。
しまった!
そのまま、私は無理やり地面に倒された。ガツン、としたたかに後頭部を打つ。打ち所が悪かったのか、すぐに自分が今の衝撃で脳震盪を起こした事が分かった。意識が途切れ途切れになる。
くそっ、こんな事で……。
なんとか意識を保とうと、ヤツの腕を握り締める。
その時、雲に隠れていた月が再びその姿を現した。
降り注ぐ月明かりが照らし出したヤツの顔。
それは―――。
まるで鎖によって雁字搦めにされていたように、ずっと心の奥に押しやられていた僕の意識が浮かび上がる。
そこは、冷たい風が吹く、夜空の下だった。
何故か僕は、そこに坐していた。
幾ら思い出そうとしても、断片的にさえ記憶は思い出せない。
両腕がヒリヒリと痛む。
触れてみると、ぬるっという感触と刺すような痛みが走った。
皮がめくれ、肉が剥き出しになっている。
一体どうしてだろう……?
何があったのか。どうしてもそれが思い出せない。
と、僕のすぐ傍に何かが横たわっているのが目に入った。
月明かりを頼りに、僕はそれに目を向ける。
芝の上に横たわっていたもの。
え……?
どくん、と高鳴る心臓。
つうっ、と冷たい汗が背を伝う。
それは―――。
TO BE CONTINUED...