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ふと、僕の意識が水面上に浮かび上がる。同時におぼろげにだった感覚が目を覚まし、何もない夢の終わりを告げる。
あれ……いつの間に眠ってしまったのだろう?
気がつくと、自分の背中にはやけに硬い感触がした。ベッドマットのものではない。そして身を切るような肌寒さ。もうじき冬だというのに、体には毛布一枚かけられていないからだ。
目を開けて体を起こす。
目の前に広がったのは、普段の目覚めの時とは全く景色。
ここはどこ?
よく見渡せば、そこは自分の部屋の玄関近くだった。自分はそこで眠っていたようだ。
「まさか、また……?」
弾けるように立ち上がり、洗面所に駆け込む。
どうして自分はこんな所で眠っていたのか、その理由は今更問う必要はなかった。何故なら、これは初めての事ではないからだ。
「―――ッ」
鏡に映った自分の姿に、僕は思わず愕然とする。
鏡に映る僕の顔は、口元が僅かに赤茶けたもので汚れている。すぐさま蛇口をひねり、水をすくい強くこすって洗い落とす。まるで忌まわしいものであるかのように。着ている服もまるで何かと争ったかのように乱れている。おまけに、よく見れば足が泥だらけだ。
また、僕はやってしまったのか……?
そういえば、昨夜あんなに激しく僕を苛んでいた抑えようのない渇きが、今はまるで嘘のように引いている。つまりそれは、その欲求が満たされた事に他ならない。
どうしよう……。
がっくりとその場に膝をつく。
頭の中には絶望だけが渦巻いている。暗い暗い、混沌とした空気が立ち込めてくる。
僕は、やはり人間社会では生きていけないのだろうか……?
その言葉を、苦々しい思いで飲み込んだ。
「何事だ!?」
急に背後のドアが開かれ初老の男が慌てた様子で飛び込んできた。それは、このアカデミーの創始者であり最高権力者の理事長だった。
「こ、これは……」
理事長は半壊した自分の部屋を目の当たりにして愕然とする。窓は完全に崩壊し、僅かに枠が残っているのみ。槍が直撃したデスクは無残な姿で真っ二つになり、下の床はクレーター状にえぐれている。その中心に、この彼女が投げたらしき、薄ら錆びた模擬槍が突き刺さっていた。まるで、小隕石が墜落したかのような光景である。
「すみません……。投擲の練習をしていたのですが、方向を誤ってしまって……」
彼女は色白の顔を青ざめさせ、深々と頭を下げる。
「一年生だな。まったく、一体何を指導しているんだ! 名前と学籍番号は!?」
反対に理事長は顔を真っ赤にして彼女にそう怒鳴る。
「RA18644、ロイア=リーヴスラシルです……」
頭を下げたまま、彼女は控えめな声でそう告げる。
「お前は追試験者だな!? 普段の実習を真面目にやらないからこういう事になるんだ!」
「……はい」
来たな、こりゃ……。
教師特有のヒステリックなスイッチが入ったのに俺は気がついた。どういう訳か教師という生き物は、突然感情を荒げて怒り出すのだ。そして生徒は、そのタイミングを直感的に感じ取るのである。説教というものは、どの教師も内容が薄い割にやたら長い。どうやら生徒を諭すためではなく精神的苦痛を与えるためのもののようだ。酒にたとえたら三増酒だ、とかリームは言っていた。まずいし悪酔いするし良い所なしだからだそうだ。そのたとえはともかく、俺はさっさと書類を片付けて部屋に戻って勉強したいのだ。年寄りのたわごとを長々と聞いているほど、留年しかかっている今の俺に精神的余裕はない。とにかく認印さえもらえればそれでいいのだ。先に俺の書類に認印を貰って、その後で御高説の続きはやって頂こう。
「あ、あの、理事長! 追試験願いに認印を戴きたいのですが!」
俺は意を決して強引に二人の間に割って入った。
が。
「なんだ、お前もか!? 今まで授業では何を聞いていたのだ! 大体、わたしがお前らぐらいの頃はだな―――」
突然、理事長の険しい目は俺にターゲットを変え、湧き水のようにくどくどと説教を始めた。
ひょっとしてヤブヘビだったのだろうか。
俺は助けを求め、ちらっと彼女に目で合図する。すると彼女はそっと突き刺さった槍を引っこ抜き、律儀に深々と一礼した後、こそこそと走り去っていく。どうやら今の行動で俺がかばってくれたと思ったらしい。
いや、そういう訳ではないんだがなあ……。
「どこを見ている!」
理事長のゲンコツが頭頂に炸裂する。
結局、彼女に勘違いされた俺は、長々と理事長に説教を食らった。どん底だったテンションが更に急降下である。ようやく理事長の認印をもらって所定のところへ提出し終わる頃には、時刻は既に正午になっていた。本来ならメシでも食べて帰ろう、と思う所だが、あいにくと今の俺は追試の事で頭がいっぱいでまるで食欲が無い。このまま真っ直ぐ部屋に帰って勉強しよう。追試験まで、後一週間。その間は毎日毎日勉強詰めになるだろう。非常にしんどいが、これも進級のためだ。
本校舎を出て校門の方へ向かう。
現在はテスト休み期間であるため、園内に生徒の姿は少ない。舗道のあちらこちらに、今朝報道部が配っていた号外が捨てられている。ちゃんとクズカゴに入れた分、俺はまだ偉い。
そうだ、帰りに参考書でも買っていこう。グレイスからぶん取ったノートだけでは心許ない。
「あ、すみません」
と、その時。急に俺は背後から呼び止められた。振り返ると、そこには一人の女性の姿。
「あの、先ほどはありがとうございました」
よく見れば、それは先ほど理事長室に槍をブチ込んだあの彼女だった。服を着替えて髪を解いていたので、すぐには気がつかなかった。
「あ? あ、ああ、いや、別にいいさ」
本当の事を言えば、さっさと認印をもらって、部屋に帰って勉強したかっただけなのだが。まあ、喜んで貰えたなら誤解されたままでいい。わざわざ真相を言う事もないだろう。
「えっと、リーヴスラシルだっけ?」
「はい。ロイアで結構ですわ」
「俺はガイア=サラクェルだ。ガイアでいいよ」
ロイアと名乗った彼女は、同年代の女の子に比べてとても落ち着きのような物静かさを感じさせた。身近にひどく落ち着きのないヤツがいるから、そのせいもあるかもしれないが。
「ロイアはもう練習は終わりか?」
「はい。練習場は午前しか開放しないそうなので」
「じゃあ、随分と限られてるんだなあ。それだとさすがにキツイな。俺は勉強ならいつでも出来るけどさ」
「でしたら、追試験は必ず合格いたしますね」
そう言ってロイアはニッコリと微笑む。
なんか、遠回しにプレッシャーをかけてないか……?
だが、ロイアの表情にはそんなものは微塵もなかった。悪気がないのだ。そう、つまり天然なのだ。
「ガイアも追試なんですね」
「まあね。ちょっとしくじっちまった」
「私もです。実技を落としてしまいまして」
「さっきのは、その練習か」
「はい。私、コントロールが下手で、いつも投げた槍が的に当たらないんです」
今日は、的どころか理事長室に直撃したからな。話題性は抜群にあるけど、生徒には笑い話で済むが、教師達、特に理事長にとってはとんでもない話だ。
「しっかし、随分派手にやったよな。もしかして槍術科って、もう昇華使えるのか?」
昇華とは、魔術から派生した自身の筋肉を一時的に強化する技術である。ロイアの体格は、見た感じでは特に鍛えられているような筋肉があるようには見えない。そんな細い腕であんな重い槍を理事長室に直撃させたのは、昇華によって瞬間的に筋力を強化したからである。ちなみに昇華は、魔術の一種でありながら戦士系の技である。主な用途は、やはり筋力不足の補助だ。当然、魔術師志望である俺の科では昇華は教えない。
「ええ。そうでなくては、幾らなんでもあんな重いものは持てませんわ」
くすっと笑うロイア。
なんとも奥ゆかしい笑みではあるが、そんな彼女が理事長室を半壊させたとは到底思えない。なんとも昇華とは恐ろしいものである。俺も昇華を憶えたら、リームと対等にやりあえるかもしれない。いや、それよりもグレイスの方こそ強化するべきだろう。俺よりもグレイスの方がリームと居る時間が長いのだから。
「それにしても、理事長には参った。あれから延々と説教されたよ。なんで追試ぐらいであんなに怒るかね?」
「ほら、今、園内で通り魔事件が起きていますでしょう? そのせいでは?」
「ああ、吸血なんたらっていうサイコさんか」
俺はあんまり興味はないが、アカデミー内ではかなりの噂で持ちきりなのだ。
「理事長は随分やっきになられていましたよ。犯人を捕まえた方には賞金も出すとおっしゃっていましたし」
その言葉に、俺は思わず色めき立ってしまった。通り魔事件とか言っても、所詮は生徒間だけのものかと思っていたのだが。理事長がそこまで介入しているという事は、かなり深刻な問題のようだ。
「賞金! ほほう、俺もいっちょやってみっかな。今、欲しいものあるんだよなあ」
「やめた方がよろしいですわ。被害者の内のお一方が、賞金目当てで返り討ちに遭われた方ですから」
「そうか……。金に目が眩んで命を落とすのもアホらしいな。やめとこ」
健康第一が俺のモットーだ。さすがにそこまでして金を手に入れようとは思わない。それだったらまだ、バイトを増やした方がマシだ。
しかし、賞金までかけられているなんて。どうやらこの事件、よほど大掛かりなもののようである。元々、あまり夜遊びする習慣はないが、こんな物騒な事件は早々に終わって欲しいものである。
この時俺は、まさかこの事件の犯人がグレイスだったなんて思いもしなかった。
グレイスは気弱でいつもおどおどしていて、そういった血生臭い事からは無縁のように考えていたからだ。
もしこの時に、俺がグレイスの事を知っていたらどうしていただろう?
まあ、自分の『眼』にすらどうする事も出来ない俺だ。どうせ、何も出来なかっただろうな……。
TO BE CONTINUED...